3-06
その部屋は、まるで厨房のようだった。とはいえ、彩音の知っている台所とは全く違う。古風というより、そもそも見たこともないような景色ばかりだ。
ぶら下がっている数本の刃物は、包丁というよりも大小様々な鉈である。流し台には水道など通っているはずもなく、汲み取り式の桶がいくつか地面に放置されていた。万魔殿の薄暗い雰囲気も相まって、どことなく毒々しさが窺える。
「おねえちゃん、ねえってば!」
「えっ、ナナシくん、なに? ……あれ?」
ナナシの呼び声に気付き、彩音がその姿を探す。が、しかしナナシの姿はどこにも見えなかった。代わりに何も置いていない調理台越しに直立しているリリエラの上半身が見え、その下から何やら物音が聞こえてくる。
「……ナナシくん、そこにいるの?」
「うん! それよりさ、おねえちゃんが暮らしてたトコには、どんな食べ物があったの?」
「えっ? どんな、って、急に聞かれても……」
「どんなのでもいいよ。おねえちゃんが好きな食べ物とか、何でも」
「え、えっと、うーん……」
好きなもの、と聞かれて、彩音が口元に人差し指を当てながら考え込む。
「手作りのオムライス、とか……」
口に出してから、少し子供じみていただろうか、と内心で恥じる彩音だったが、ナナシは全く気にせず続きを促してくる。
「ふんふん、それでそれで?」
「え? えっと、ケーキとか、かしら」
「ケーキ……お、おおー……おいしそうかも……ねぇねぇ、飲み物とかは?」
「ミルクココア、とか……ねえ、ナナシくん、さっきから何し、てっ……」
考えるのを中断して調理台のほうを見た彩音が、思わず絶句した。
先ほどまで何も無かった調理台の上に、溢れんばかりの食材が敷き詰められている。人参に玉葱、鶏のモモ肉といくつもの卵、ボウルに入った白米。オムライスの材料どころか、付け合せに使用するようなブロッコリーまで置いてあった。
「な、なにこれっ? い、いつの間にこんな……あっ」
オムライスは材料だけだったが、ケーキに関しては実物がそのまま存在していた。一体何がどうなっているのか、と戸惑う彩音の耳へ、ナナシが立て続けに質問を投げかける。
「みるくここあ……って、この粉かな? えっと……これはなんだろ、これも材料?」
「えっ、あ、うん、バターと……け、ケチャップまであるの?」
こんな所にあるのは明らかにおかしいだろう、と思いながら、彩音も調理台の向こう側へと回り込み、ナナシが何をしているのか確認しようとする。
「ふう……こんなもんかな? あれ、おねえちゃん、どうしたの?」
「え、えっと……どこからこんなに出てくるのかな、って……」
「あ、見る? でも、もう何もないけど」
そう言って立ち上がったナナシと入れ替わるように、彩音が開いている棚をまじまじと見つめる。しかしそこには、ナナシが言ったように何もなかった。
「……ど、どうなってるの?」
狐につままれたような顔をする彩音に、しかしナナシはマイペースに語りかける。
「ねえ、おねえちゃん、これってこのまま食べるんじゃないよね? オムライス? っていうの、おねえちゃんは作れる?」
「えっ……! む、無理よ、そんなのっ。利き手は、その、これだし……料理なんてっ」
ピアノ以外に関しては、とんと疎い彩音のこと、料理など学校の授業以外ではしたこともなかった。ナナシは困ったように材料を眺めている。
「うーん、そっかぁ、手作りっていう部分が余計だったのかなー。ケーキはそのまま出てきてるもんね、前に僕も見たことあるから知ってるし。……ねえ、リリエラさんは、オムライスって知ってる?」
「いいえ、存じません。ですが、作り方が分かればお作りできるかと」
リリエラの返事を聞いて、ナナシが輝くような瞳で彩音を見つめる。
「おねえちゃん、作り方ってわかるっ?」
「えっ? そんな、レシピの本を一回くらいなら見たことあるけど、教えるなんて……」
「ふんふん、その棚の中に、そのなんとか本っていうの、ない?」
「え、ええっ? さっき何もなかったし、あるわけ……」
そう言いながらも棚の中に視線を戻した彩音は、再び絶句することになる。
「……うそ、だって、さっきは何も……」
そこには、彩音が見たことのあるというレシピ本が、確かにあった。しかし、先ほどまでは本当に何もなかった。それは確かで、見間違いなどではないはずだ。
パラパラとレシピ本をめくると、彩音の混乱は更に深まる。ほとんどのページはインクが滲んだようにぼやけていて、料理のレシピなど記されていなかったのだ。
しかし時々、彩音の好きな食べ物などがある、つまり一度は目を通したことがある……ような気がするページに関しては、しっかりと写真までついてレシピが記されていた。
「……あっ、オムライスって、それ?」
横からひょっこりと本を覗いたナナシが、そんなことを口にする。確かに、彩音が手を止めていたページには、オムライスのレシピが記されてあった。
「え、ええ……そうだけど、でも、なんでいきなり本が出てき」
「やっぱり! うんうん、おいしそう! リリエラさん、これ、作れる?」
「少々お待ちください――はい、作れます」
半ば彩音を置いてきぼりにする形で、ナナシとリリエラが会話している。どうも調理のほうは、リリエラに委ねることとなったようだ。
「……ね、ねえ、ナナシくん、なんで何もないところから本が……」
「それじゃおねえちゃん、料理が出来るまで、向こうの客間のほうで待ってようよ!」
「えっ、あのっ、ちょっとっ」
「ほら、行こっ! 楽しみだなぁ~」
よほど楽しみなのか、ナナシの耳には何も聞こえていないらしい。勢いよく引っ張ってくる少年の小さな手に、彩音は何も言えず引きずられるしかないのだった。
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