万魔殿(パンデモニウム)は眠らない
初美陽一
第一幕 そこに住まうは『人』か『魔』か
1-01
少女の瞳は、死んでいた。
住宅街の路を進む足取りはどこか虚ろで、朧げに沈む瞳は地面ばかりを向いている。土砂降りの雨に押さえつけられているかのように、うなだれた頭が上がることはない。
水を吸い続けて重くなっていく制服を、艶のある黒髪が濡れそぼっていくのを、気に留めることさえなかった。
「……もう、どうでもいいや……」
繊細で可憐な顔立ちの中心にある大きな瞳は、ただただ空虚で、存在しているというだけで何も見てはいない、何も映してはいなかった。
少し前まで神童と謳われていた少女、
彼女が一度ピアノに触れれば、天使の音色を生み出すとさえ言われていた。彼女が一度鍵盤に触れれば、誰もが惜しみなき称賛を贈ったものだ。
彩音の右腕が、つきりと痛む。その痛みに誘われるように、彩音は自由に動かすことの出来る左手で、何もせずとも痛む右腕を目一杯の力で鷲掴みにした。
つき、つき、つき。痛む右腕を、それでも少女は離さない。ずき、ずき、ずき、握り締めた部分に血液が通るのを感じるたび、痛みはなおさら引き立った。
ずきりと、一際激しい痛みを覚えた瞬間、ようやく右腕から左手が離れる。
――彩音の目じりから涙が零れたのは、それとほぼ同時だった。
「うっ、くぅ……ふっ、うえっ……」
ぽろり、ぽろりと零れる涙は雨と混ざり、既に濡れそぼっているアスファルトへと落ちていく。なおも彩音の上へと降り注ぐ雨が、頬を伝う涙と混ざり合う。
彩音の右手は、二度と奏でることを許されなくなってしまったのだ。
将来はピアニストと、周囲から期待を寄せられていた。彩音自身、ピアノを奏でて生き続ける日々を、信じて疑いなどしなかった。
けれどそんな想いは、儚くも無情に崩れ落ちてしまう。
齢十五にして、輝かしかったはずの彼女の未来は、暗闇の中へと迷い込んでしまった。
彩音は――生きるための《希望》を、失ってしまったのだ。
「うっ、うぇぇん……」
どうして自分だけが、どうしてこんな目に――
抑えることの出来ない涙を、彩音は左手の甲で拭おうとする。
「ふえっ……うっ……?」
止めどなく溢れる、涙でぼやけた視界に――
「――えっ?」
――それは突然、現れた――
漆黒にのみ彩られた、重量感に溢れる金属質の扉。獅子のような荒々しい二対の獣の装飾で飾られたそれは、ピン、と冷たく張り詰めている。
まるでお伽話に出てくる、魔女が住む城へと続いているような扉は――だけどそこにあるのは、酷く不自然であることが見て取れた。
――ただ荘厳なその扉だけが、ぽつりとそこに佇んでいたのだから。
「……なに、これ……」
彩音の空虚な瞳は、前方などほとんど映していなかった。だからといって、このような大きな扉があったとして、眼前に立つまで気付かないことなどあるだろうか。
――この扉は、突然現れたのだ――
今しがた、彩音の目の前に、何も無いところから。
「こんなの……いつの間に」
彩音は左手を前に出し、得体の知れぬ扉に触れた。手の平に冷やりとした触感が抜けていくことで、これは夢でも幻でもなく、本当に存在するものだということを確信できる。
普通なら、このような得体の知れないものが眼前に現れたら、恐ろしくて逃げ出してしまうだろう。状況が掴めず、困惑してしまうかもしれない。
だけど、どうしてだろう。彩音はその扉に、触れているのだ。
彩音は、左手に力を込めた。扉には、鍵など掛かっていない。その重たげな装いとは裏腹に、少女のか細い片腕でも開くことが出来るほど、扉は軽かった。
「…………」
自分はどうかしているのだろうか、と彩音はぼんやり霧が懸かったような頭で考えた。
突然、目の前に現れた扉。住宅街の只中で、そこだけが現実と切り離されたような、夢想の様相を醸し出している。異界へと続くような扉は、まるで彩音を手招いているようだ。
――行けばもう、帰ってこられないような気がする――
曖昧な予感を覚えながら、それでもいいか、と彩音は自嘲気味に笑った。
――自分にはもう、失う物なんて無い。何だったら、このまま死んでしまってもいい。
死んだ瞳に虚ろな思考。自暴自棄になった少女は、手を引かれれば導かれるまま堕ちていくだろう。たとえそれが、悪魔の誘いであろうとも。
現実味の無い、羽のように軽いその扉に触れていた左手へ、更に力が込められる。
どこへ続くとも知れぬ、その扉を押し開き――
――少女は《そこ》へと、足を踏み入れた――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます