たとえ実感はなくても
街の昼下がりは、少し
人々の声だったり、生活の匂いだったり、暮らしの気配だったり、そういったものが街全体を包んでいて、屋内にいてもなんとはなしに伝わってくるのだ。
それは日本で暮らしていた頃は当たり前に、
「落ち着かないような、落ち着くような。不思議な気分だな」
「わうっ?」
僕らの泊まるこの宿は住宅地からやや離れていて、だから本来、日本の住宅街よりも遥かに閑静なはずだ。ただ僕らは森の中のしんとしたあの感じに慣れきってしまっていて、おまけに魔力のおかげで感覚も鋭敏になっている。結果、リビングでくつろぎながら、遠くにあるぼんやりとした生活の喧騒に肌と心を撫でられるのだった。
「お前も外で遊んできていいんだぞ」
「くぅーん」
ミントたちは庭にいる。ポチと一緒にはしゃぐ声が時折、
「わふっ!」
「お、行くのか?」
ソファーに座った僕の足元に寝そべっていたショコラが、ひょこっと顔をあげて立つ。だから庭に出ていくのかと思いきや、
「わうっ!」
「よしよし」
リビングに入ってきたカレンの気配を察知して、じゃれつきに行っただけだった。
「お茶、飲む?」
「ん、もらう」
飛びつこうとする鼻先を片手で構いながら、カレンは僕の隣に座った。ショコラはソファーに乗って仰向けになり、カレンの脇腹に顔をつっこみながら珍妙な格好で前脚をばたつかせている。なんだこいつ。
戸棚からカップを取り出し、お茶を注ぐ。紅茶をベースにハーブをブレンドしたものだ。市場で売ってあった。変わった香りだが、なかなか美味しい。
「ショコラ、暴れないで。お茶がこぼれる」
「ふすっ、くぅーん……」
しばらくカレンの隣で阿波踊りみたいな動きをしていたショコラだが、やがてカレンに膝枕された格好で落ち着いたらしい。お腹を見せた状態のままだけど……。
「くぅー」
「それでいいのかお前……」
犬って、たまにこういう妙な体勢でリラックスするよね。
……まあ、そんなショコラは置いといて。
「カレン」
「ん」
「実のご両親のこと、教えてくれない?」
ショコラを撫でながらティーカップを傾けるカレンに、僕は問うた。
それは——母さんからも言われていたことだった。
ただしそれは、カレンの思い出話を聞いておけという意味ではない。
「……正直、記憶にはない」
何故なら、彼女がご両親と死別したのは赤ん坊の頃だったから。
「物心ついた時にはもう、私はおじさまとヴィオレさまに引き取られてた。お父さんとお母さんの顔も知らない。こっちの世界には写真とかないから」
「父さんも、カメラを持ってなかったみたいだしね。肖像画とかは?」
「残ってない。エルフにはそういう習慣がなかった。王国でも描いてもらおうと思わなかったみたい。でも……」
だから、母さんの真意は——僕に知っておいてほしかったのは、
「……おじさまとヴィオレさまから、たくさん聞かされて育った。お父さんとお母さんがどんな人だったのか、どれだけ私のことを大切に思ってくれてたのか。どんな思いで、おじさまたちに私のことを託したのか」
カレンの、実のご両親への想いだ。
「子供の頃の私は、おじさまたちが私の親じゃないことが悲しかった。スイが生まれたあと、家族の中で私だけ、耳の形が違ってて、スイはおじさまとヴィオレさまの子供なのに、私はそうじゃないって。……わんわん泣いてたのを覚えてる」
ただ、母さんは予想していなかったかもしれないけれど、
「その時、ふたりに聞かされた。お父さんとお母さんのこと。おじさまたちの親友だったこと、私を守って変異種と戦ったこと。そして、死んじゃったこと」
カレンの持つご両親への想いはそのまま、
「おじさまが言ってくれた。カレンにはお父さんとお母さんがふたりずついるんだよ、って。実のお父さんとお母さん、それにおじさまとヴィオレさま。……だから、泣かないでって。ルイスとエクセアの分まで、僕たちがきみを愛してるからって」
そして父さんと母さんへの想いを上乗せして、
「その時からずっと、私は誇りに思ってる。私には両親がふたりずついること。私を生んで、命を賭けて守ってくれたお父さんとお母さん。そしてお父さんとお母さんの遺志を継いで私を育ててくれた、おじさまとヴィオレさま。……私はだから、エルフの子であり人の子。クィーオーユの血を引き、『
カレン=トトリア=クィーオーユという人は、ここにいるんだ。
「お父さんとお母さんがどんな人だったかも、たくさん聞いてる。いろんな思い出話、一緒に冒険した時のこととか、失敗談とか、楽しかった記憶とか。……でもたぶんそれは、私がスイに語ることじゃない。私がスイに語れるのは、私の想いだけだから」
「うん。そうだね、その通りだ」
僕が生まれる前の話——父さんと母さんの、青春の記憶。
きっと母さんは
だったら、僕は? 僕とカレンは?
僕にもカレンにも、それぞれの理由があり、拠り所がある。なければならない。
国ひとつを前にして
ティーカップをテーブルに置き、天井を見上げた。
ミントたちの笑い声を屋外に、街の人たちの気配を遠くに、僕は言う。
隣に腰掛ける人に、問う。
「僕の名前——
「ん、知ってる。私の眼の色からつけたって、おじさまは言ってた」
「やっぱり、そうなんだ。そうなんじゃないかと、ずっと思ってた」
むかし父さんから聞いた由来は『春に生まれたから』だった。
春の草木のように、新緑のようにすくすくと育ってほしい。だから『緑』を意味する『翠』なんだよと言っていた。
それもきっと嘘ではない。子の名前には幾つもの意味を込めるものだから。
だから——加えて、もうひとつ。
僕は父さんと母さんの子供で、血が繋がっている。
けれどカレンは養子で、種族も違う。
僕の名前は、そんな彼女がハタノ家の一員になるためのものでもあるんだ。
この子に、本当の家族になってほしいから。
この子が僕らのことを、本当の家族だと思ってほしいから。
僕がこの子のことを、大切に想ってほしいから。
そしてどうかふたり、血の繋がらない家族であっても、ともに手を携えて——。
「もしも、僕がこっちに戻ってこられなかった未来があったとして。きみが僕のことを忘れて吹っ切って、他の誰かを好きになったとして……それが幸せになる道なら、僕は祝福してた」
きみも、再会したばかりの頃に言ったよね。
あっちの世界に心残りや、好きな人はいないの? って。
もしそうだと答えたら、きっときみは、僕と同じことを言っただろう。
「でも、僕は戻ってきたし、想いも忘れなかった。そしてきみも……僕のことを諦めずに、想いを捨てずにいてくれた」
カレンは、僕の家族だ。
そして——将来、僕の家族になる人だ。
「だから、カレンを幸せにするのは僕だし、カレンと一緒に幸せな道を歩むのも僕だ。誰にも渡さない」
言いながら、恥ずかしくて顔を見ることができない。
天井に視線を遣ったまま、ぎゅっと拳を握る。
カレンは——。
そんな僕の拳に、そっと手を重ねながら。
小さくひと言だけ、返す。
「ん」
※※※
世界と世界の断絶も、僕らを引き離せなかったんだ。
たかが国ひとつに、どうこうできるわけがない。
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