湖畔で空に手を伸ばす

 およそ三時間を経て、目的地に到着した。


「わあ、ひろい!」

「わんわんっ!」


 まっさきにはしゃいだのはミントとショコラだ。ショコラは昨日、僕と一緒にここを発見した当事者なんだけど、それでもテンションを上げていた——もしかしたら家族にここを紹介できたのが嬉しかったのかな。


 首を振らないと見渡せないほどに大きな、湖である。

 雰囲気としてはなんとなく本栖湖に似ている。富士五湖のひとつになってるあれだ。……いや、子供の頃に行ったことがあって、その時の記憶から連想してるだけだから実際は全然違うかもしれないけど。


 湖畔の一帯に砂浜になっているところがあって、拠点とするのによさそうだ。砂浜が途切れたあたりにはポチが食べられそうな草も生えている。


「じゃあひとまず、準備をしよう」


 とはいえ、簡単なものだ。

 砂浜に茣蓙シートを敷いて、その横に焚き火を作るだけ。


 茣蓙ござに重石を乗せてめくれないよう固定し、たきぎを組む。ただ幸いにして、気温はそこまで低くない。火をつけるのは寒くなったらでいいだろう。


「よし、できた」


 ちゃちゃっと済ませてひと段落。じゃあシートの上に座って休むか……と思っていると、


「……おかさん、あのね」


 ミントがもじもじしながら、母さんの袖を引いていた。


「あら、どうしたの?」

「みんと……このみずうみ、ぐるっとしたい。だめ?」


 しゃがんで目を合わせた母さんに、そんなことを懇願する。


「まあ。探検したくなったの?」

「うー。でも、しらないばしょだから……」


 ミントが言っているのはもちろん、蜥車せきしゃで、ではない。

 自分の足で湖を一周してみたい、という意味だ。


 気持ちはわかる。湖のほとりを進んでいったら元の場所に戻ってきた、なんて、きっとわくわくする体験だろう。子供心にはなおさらだ。


 ただ正直なところ、ミントを目の離れた場所には行かせたくない。危険があるとも思えないが、やっぱり心配しちゃうからだ。


「そうねえ……スイくん、どうする?」

「ん、ヴィオレさま。だったら私が一緒に行く」

「わん!」

「……訂正。私とショコラが一緒に行く」


 だけど、カレンとショコラがそう提案してくれた。


「いいの?」

「だいじょぶ。まだお昼には早いし、ちょうどいい」

「かれん、ほんと!? あの、おかさん……」

「ええ、いいわよ。カレンとショコラが一緒なら安心ねえ」


 おずおずと問うミントに、母さんは穏やかに笑い、頷いた。


「ふおおおお! ありがと! おかさんすき! かれんもしょこらもすき!」

「あらあら、スイくんとポチは?」

「もちろん、すいとぽちも、すきっ!!」


 はしゃぎ回って家族へ順番に突進していくミントを、みんなが受け止める。ショコラは「わうわうっ!」と頼もしく吠え、ミントのほっぺたをぺろぺろ舐める。


 ——かくして。

 わくわく顔で、ミントは探検に出発する。

 僕らは茂みの奥に消えていくその背中を、手を振りながら見送るのだった。



 ※※※



 ミントたちが出発して、その場に残されたのは僕とポチ、そして母さんになる。

 ポチは僕らの傍から離れず、伏せてのんびりしていた。ちゃんと時と場合を判断して、勝手にどこか行ったりはしないんだよね。かしこい。


「よしよし、お疲れさま」

「きゅるっ!」


 抱きつくようにして鼻先を撫でるとこそばゆそうに短く鳴く。家族の一員としてもうすっかり見慣れた顔だけど、いまだにポチと触れ合うとすごくわくわくする。かっこいいよなあトリケラトプス。かわいいよなあトリケラトプス!


 僕がポチから離れると、茣蓙に腰を下ろした母さんがしみじみと言った。


「ミント、成長したわねえ」

「最近、それ思ってた」


 母さんに倣って座る。

 僕はポチを眺めながら、母さんは湖を臨みながら。

 別々の方を向き、それでも心地いい空気の中、言葉を交わした。


「生まれたばかりの頃はさ。固形物どころか、塩気のあるものも好きじゃなかったよね。でも今はもうほとんど好き嫌いしないし、固いものもだんだん食べられるようになってきた」

「きっと無意識に、私たちに合わせてちょっとずつ自己進化しているんだわ。土属性の魔術を自分にかけて」

「すごい能力だよね。……でも、母さんが言いたいのはそっちじゃないでしょ?」

「ええ。肉体的な成長だけじゃなくて、心の成長」


 ふ——、と。

 万感のこもった吐息とともに、母さんは続ける。


「気付いた? スイくん。さっきあの子、お母さんにのよ」

「うん。少し驚いた。今までだったら『行きたい!』って言うだけだったよね」

「自分の欲求がみんなを心配させるってことを、理解していたのね。あの子は、周りのことを気遣えるようになったのよ」


 それは、他者の機嫌を伺うのとはまた違う。より高次のものだ。


 相手の喜怒哀楽を察することは、本能でできる。だけど自分の言動を受けて相手がどう思うか、どう考えるのかという想像シミュレーションは、それよりもはるかに難しい。


「きっと、あの雪の日の出来事がよかったんでしょうね。スイくんはミントのことを尊重しながら、しっかり言い聞かせてくれたわ。お母さん、ああいうの上手くないから……。あなたたちを育てる時も、もっぱらお父さんの役目だった。私なんて、声を大きくして叱るばっかりで。……あの時のスイくんね、お父さんに似てるなって思ったわ」


「……そっか」


 一概に比べることはできない。

 だって当時の僕やカレンに比べると、ミントはとてつもなくいい子だから。


 かつての僕らはひどいものだった。悪戯はする、言うことは聞かない、駄々をこねる、わがままで泣く、ぶすくれて意固地になる——その度、母さんに雷を落とされたし、父さんに懇々とプレッシャーをかけられた。


 ただ、だからこそ。

 今になって思い返すその記憶を、愛おしいと思う。


「でも、母さんもさ。僕らをどんなに叱っても、決してことはなかったよね。感情に任せて、僕らにそれをぶつけたりしなかった。そして、根気強く見守ってくれた。……今になるとよくわかる」


 僕は茣蓙の上に寝転がった。

 そして大の字になって空を見上げ、言う。


「僕は五歳までしかこっちにいられなかったし、ついこの前までその時のことを忘れてしまってた。でも、記憶よりも深い場所では、消えたりしなかったんだと思うよ。……僕はそういうふうに育てられた。母さんから、そういうふうに見守られてた。その経験は、いまの僕を形作ってるんだ」


「……スイくん」


「ちゃんとミントも、わかってるんだろうな。だから僕じゃなくて母さんにお伺いを立てたんだ。僕ら家族を誰よりも案じて寄り添ってくれてるのは、母さんだってこと」


 ぐす、と。

 母さんが鼻を鳴らしたのを、僕は聞かなかったことにして。

 僕はよく晴れた冬の空へと、地面から手を伸ばす。




 僕が父さんによく似てる、か、

 だったらさ、母さん。

 真っ先にミントに同行を申し出て、一番近くで見守り、寄り添おうとしたカレンは——あなたによく似てるんだよ。

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