第65話

「……んせい。水野先生!」

 

 東伍は再び車内で目覚める。だがその状態は最悪で、寝汗はびっしょり、気分はどんよりと落ち込んでいた。

 

「須藤先生、どうも。すみません、また眠ってしまって」

「いやまあ、それはいつものことなんでもう諦めてますけど。なんだか顔色悪いですね。嫌な夢でも?」

「ええ、まあ」

 

 東伍は言葉を濁す。それは本当に悪夢を見たからだった。

 薄暗い箱。その箱の中で目を覚ました東伍は、何やら怖い顔をして箱を飛び出す。開けた世界は無機質で灰色。何やら物々しい重機や精密機器が並ぶ、工場のような場所だった。

 だが、夢の中の東伍はそれらの機器には見向きもしない。颯爽と、まるで最初から出口を知っている様子でひたすらに歩みを進める。

 工場を出てからもひたすらに。汗をびっしょりかき、疲弊が見える足取りでも、ただひたすらに歩く。そうしてたどり着いた場所は、淑和学院の水泳部の更衣室だった。

 

 東伍はそこで一人、天に向かって手を伸ばす。何かを掴みたいのか、それとも引き留めているのか。

 そうして最後には、更衣室の隅に向かって目一杯伸ばした手首の先から、塵のように身体が崩れ始めるのだ。


 ふっと力の抜けた身体が右に傾き、地面に打ち付けられるすんでで、東伍は夢から目覚める。

 

「どうしましょう。具合が悪いのなら断りましょうか」

「断る?」

「水野先生に来客が来ているんですよ。なんでも、数年ぶりに会う旧友だとかなんとか」

「旧友……」

 

 

 

 

 

 東伍は来客に会いに校舎へと戻る。職員室の隣の会議室で、その若い女性は東伍を待っているとあすかは言った。

 若い女性に心当たりはなかった。恋人だった小林陽子は、四年前に姿を消してから行方知れず。最後にもらったメッセージは別れたい、ただそれだけだった。

 

 職員室を通り過ぎ、東伍が会議室の扉を開けると、中には女性が一人。

 

「あの」

 

 声をかければ、窓側を向いていた女性が振り向く。くるくるにカールした黒髪を靡かせ、少女のように微笑む女性の口元には、特徴的な黒子ほくろ

 

「どうも。久しぶりだね。うーん、二十……二年ぶり?」

 

 小首を傾げて笑う女性に、東伍もつられて首を傾げた。

 

「えっと……卒業生、な訳ないですよね。年齢がおかしいし」

「年齢? ぼくは今確か、二十八だったかな」

「ぼく?」

「七年に一度しか表に出てこられないんだよ。難儀だよね。あ、泉は頭がいいからさ。こう見えていろんな言葉知ってるんだ、ぼく」

 

 なんとなく話が噛み合わないことを感じながら、東伍は会話を続ける。

 

「久しぶりということは、どこかで会ったことがあるのだと思うんですけど、すみません、私あんまり記憶には自信がなくて」

「ああ、いいのいいの。ぼくにもあんまり時間はないし、報告だけしてすぐに帰るから」

「報告、ですか」

「ラボは潰れたよ。サーバーはすべてシャットダウン。後から調べてデータが出ても、検体が見つからなければあんなもの、机上の空論でしかないからね」

「はあ」

「そうだ、あとこれ」

 

 そう言って、見た目より幾分幼い印象の女性はあるものを東伍に手渡す。

 

「おみくじ?」

「うん。昔一緒に旅をした友達が引いたんだけどね。ぼくに残された時間で何ができるのかって考えた時、真っ先にこれはきみに渡したほうがいいんじゃないかって思ったんだ」

「それは、どうしてですか?」

「いつか思い出した時、悲しくならないように、かな」

 

 東伍が開いてみると、運勢は大吉。

 様々な項目が並ぶ中、赤いペンで丸く印がつけられている部分が目につく。

 

【待ち人 来る たよりあり】

 

「よしっ! じゃあぼくは帰るよ。お邪魔しました」

「え? あ、ちょっと」

 

 突然の帰宅宣言に、東伍は咄嗟に女性を引き止める。

 

「どうしたの? 何かぼくに訊きたいことでもある?」

「えっと。そもそも、名前を聞いていなかったなって」

「ああ、名前ね。ぼくは朔夜サクヤ

「朔夜さん……きみは私の知り合い、なんですよね」

「そうだね。知り合いっていうかまあ、キス? した仲かな」

「き、キス?!」

 

 東伍は驚く。キスなんて、恋人だった陽子とすらしたことがなかったからだ。

 

「そんな。きみは、私と誰かを勘違いしているのではないですか?」

「そんなはずないよ。ぼくはきみに鍵を渡したこと、はっきり覚えてる」

「鍵?」

 

 その時ふと、東伍はポケットに入った鍵を思い出し、外側から触れる。

 

「今となっちゃ昔話だよ。それじゃあね」

「あ、待って」

「ごめん東伍。悪いけど本当に時間がないんだ。ぼくから伝えられることはもうないよ」

「なら、最後に一つだけ。きみの知る昔の私は、今の私と同じ水野東伍、なのかな」

 

 質問したは良いものの、東伍は自分の口から出た言葉の不明瞭さに慌てて訂正する。

 

「あ、いや、ごめん。やっぱりなんでもないです。引き留めた上、変なことを訊いてしまってすみません」

「違わないよ」

 

 そう言って、朔夜は笑う。

 

「ぼくの知る水野東伍は、世界に一人だけだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る