第2話

 私立淑和しゅくわ学院高等学校。

 千葉県市川市にある淑和学院は、全国でも名高い水泳強豪校である。インターハイ出場者や、オリンピック選手を幾人も輩出するこの学院には屋根付き温水プールが完備され、シャワールームはもちろん、筋力維持に欠かせないトレーニング機器を揃えた施設も充実してる。

 

 部室の鍵を開けて中へと入った東伍は、扉を閉めて、内鍵をかける。

 塩素漂うプールサイドを通り抜け、東伍は迷いなくシャワー室に向かった。ポロシャツを脱ぎ、下ろしたハーフパンツを足踏みして軽く蹴飛ばすと、その勢いのままカーテンを引く。

 蛇口を捻り、天井と一体型になったシャワーヘッドから放出する湯を顔面で受け止めながら、手櫛を通した。

 

 水野東伍みずのとうご、二十七歳——彼は、この淑和しゅくわ学院で社会科を担当する教員だった。

 学生時代。東伍は水泳に明け暮れ、中学では表彰台に乗らない大会などなく、順当に推薦を得て淑和しゅくわ学院に合格。高校時代も、インターハイに出場するなど結果を残し、教員課程のある大学へと進学した。

 採用倍率の厳しい中、塾講師や非常勤講師を続け、二年前に晴れて母校での勤務が決まったのである。

 

 まさに順風満帆。清々しいほどに曇りのない人生。輝かしい過去。見通しのよい未来。

 ——だが、そんな東伍の人生にもついに、苦難が訪れる。

 

 

 

 

 キュ、と蛇口を閉める。

 前髪からポタポタ落ちるしずくごと頭をバスタオルで覆って、不快感を振り払うようにガシガシと強めに拭った。

 換気扇の羽が回ると同時、外からの光が点滅して目を差すくらいには日が昇っていた。

 

 東伍は半年前から、こうして物思いに耽ったり自身の生い立ちや人生を引き合いに出しては、感傷に浸ることがよくある。

 そんな自分をダサいとも思うし、良い加減に現実を見て前に進め、とも思うのだが、東伍自身もこうなってみて初めて、己の情けなさを痛感しているところだった。

 

「……準備しなきゃな」

 

 着替えを済ませ、シャワー室を出る。来た時と同じようにプールサイドを抜け、部室の扉に手をかけようとした、その時。

 

「水野先生」

 

 背後から、若く高い声が東伍を呼んだ。振り返るとそこには、制服姿の女子生徒。

 

「きみは?」

「三年二組の川村泉かわむらいずみです。この春編入してきました。水泳部に入部したくて」

 

 艶やかでウェットな黒髪には、くるくると強めのカールが施されており、ぷくりと突き出たおでこが幼さを醸し出す。えくぼ辺りにある黒子ホクロと、薄茶色の瞳が印象的だった。

 三年で編入——更に入部希望とはいうものの、その乳白色の肌にはシミひとつとなく、水泳の経験などあるのか、と東伍は疑問に思った。

 

「っていうか、朝早いね。まだ七時前だと思うんだけど」

「水野先生がここへ入っていくのが見えたので、後を追いました。どうしてもお話ししたくて」

 

 東伍は眉をあげる。いずみの目的に、なんとなく想像がついてしまったのだ。

 東伍は、昔からよくモテた。奥二重で切れ長な目、そこそこ高い鼻、薄い唇にシャープな顎。

 先に述べた輝かしい過去に加えて、この容姿。更には同僚のあすかにしてみせたように、天性で人をたらし込む素質を持つ東伍は、妬み嫉みや他の悪意に驚くほど鈍感だった。

 と、いうより。東伍は自分がモテ始めた理由は時代のせい、教員という立場が特殊なのだと、なぜか斜め上の理解をしていた。自分の人気は一過性のものである、そう思い込んでいる。

 

「なんの用事かな」

「……やっぱり、分からないか。今の私じゃ」

 

 突然の口調の変化。なんだか使い古されたナンパのようだ、と東伍は苦笑い。

 

「どうかな。ごめんね。ところで俺、部室の鍵閉めたと思ったんだけど、開いてたかな?」

「閉まってたわよ。だから、昔あなたに教えてもらった方法を試したの。手頃な鍵を一旦中まで差し込んで、適当な厚紙をドアの隙間に差し込み、下にスライドさせると同時に鍵を回す。やってみたら開いたわ」

 

 淡々と述べる泉の瞳から、東伍は目線を逸らせない。

 

「夜中にこっそりプールで練習したいからって、よく私に見張り番させたでしょう。熱帯夜に団扇うちわだけ渡されて。今思い出しても、腹が立つ」

 

 そう言って笑う泉に、東伍は頭が追いつかなかった。泉の顔に覚えはない。それなのに、たった今泉が話したエピソードには、完全に心当たりがあるのだ。

 まるで違う。顔も声も、年齢も。それでも東伍は、目の前の泉にとある人物・・・・・を重ねずにはいられなかった。

 息が詰まる。自分のあり得ない思考を振り払うように軽く頭を振ると、東伍はお決まりの微笑みを顔に貼り付けた。

 

「川村さんって言ったかな。悪いけど、もう直ぐ授業が始まるし、行かなきゃ。話はまた今度——」

「陽子。私、小林陽子こばやしようこよ」

「……え?」

 

 無くしてしまった鍵が、思いもよらぬところから見つかるのは、よくある話で。

 だがこの見つかり方はあまりにも、奇想天外が過ぎる。

 

「お願い、東伍。助けて」

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