第15話 ニールの頼み
「頼みって何?」
自分も髪を洗って欲しいとか?
しかし予想を超える答えがニールの口から出てきた。
「アナスタシア、君に触れたい。形式的な夫婦とまで言った手前、王都に戻ってとも考えたが……やはり気になってな」
口元を押さえ、迷いがあるかのように彼は視線をさまよわせた。気まずそうな彼に対して私はむしろ喜んで飛び上がりたい気持ちだ。
「頼まなくても良いわよ。気にしないで。むしろ私の方がお願いしたいくらい!」
「本当に良いのか? 医者とはいえ触れられるのは嫌じゃないのか?」
「医者かどうかなんて関係ないわ。大丈夫よ」
ニールが安心したように息を吐くと落ち着かない様子で髪をかき上げた。
「待たせてすまないが、薬局でそろえたいものがある。部屋に戻って待っていてくれないか?」
「いいわ。先に部屋に戻るから」
私は頷いて、可愛い水着を用意してくれたエマに心の中で感謝を捧げた。
部屋に戻って服を着たニールは近くの薬局へ出かけた。私はドキドキした心地で鏡を見ながら魔術具のブラシで髪を乾かす。
良かった。ニールが私に触れたいと思っていてくれたなんて! ちょっと奥手でもエマの言う通りチャンスが巡ってきたんだ。
これからニールと……だめだ、緊張してきた。お茶を飲んで落ち着こう。いや呼吸法だわ。受胎テストで習った方法は鼻から吸って口から倍の時間をかけて息を吐く。スーッ、フーッ……少し落ち着いてきた気がする。あのテストも悪いことばかりじゃない。
ニールに言われた通り、彼の夜着の上衣だけを着て寝室のベッドに腰掛けて待っていると紙袋を持ったニールが部屋に戻ってきた。彼はまず枕を二つベッドボードの前に重ね、寝具の上に乾いたバスタオルを敷いた。
「アナスタシア、このタオルの上に横になって。最初はうつ伏せに」
「うん……」
言われた通りにベッドに腰掛けて両足を上げうつ伏せになる。ニールは温泉に持ってきていたランプを私の足元へ寄せるとシャツの袖口のボタンを外して彼は袖をまくった。
「リラックスするために少し足をマッサージするけど構わないか?」
「もちろん良いわよ」
彼が今から触ってくれる! 嬉しすぎて叫びそうだったので、枕に顔を押し付けて防いだ。あまりがっついて引かれたら嫌だ。
「少しオイルを塗るよ」
頷いて肯定を示す。程なくしてラベンダーの香りがただよった。彼の大きな手のひらが私のふくらはぎを上から下へとマッサージする。その次は腕。手のひら。
ご、極楽だわ……めちゃくちゃ気持ちいい。
ドキドキしていた心音が次第にゆっくりに変化していく。マッサージと入浴後の効果で全身がぽかぽかして、うっかり眠ってしまいそうなくらいだ。低い声が心地よく私の背後から降ってきた。
「アナ、念の為に潤滑剤も買ってきたんだが、もう怖くないか?」
枕に埋めていた顔を横に向けてニールを見上げる。
「大丈夫。覚悟ならできてるわよ」
「良かった。上を向いて」
私はとびきりの笑顔を向けて身体を回転させると、ニールは紙袋から小瓶を取り出した。
そしてもうひとつ彼はソレを取り出すと、小瓶の潤滑剤をそれに垂らした。
ソレは青い衛生手袋だった。
夢を見た。
昔の夢だ。注射を何回も打たれる瞬間、痛みで私は思わずシーツを握りしめた。次は自動人形に押さえられ、脊髄に太い針を刺された時。それにお腹に開けた穴へ管を入れられた時も身体に吸い込まれる管に恐怖は感じなかった。
でも……目覚めた時には嫌な汗をかいていた。痛みも恐怖もなかったのはずなのに、最悪の気分のままソファーの下で目を覚ます。
なぜならあんな事をされたベッドで眠るなんてあり得なかった。妻のプライドはめちゃくちゃだ。
昨夜は医者の静止を振り切り、部屋にあったシャルドネを一気に飲み干して、ふらつく足でこしらえたソファーを重ねた要塞の下で眠った。
だからかな? 頭がとても痛くて最悪の気分だ。
「アナスタシア。少しは落ち着いたか? 二度とあんな無茶なことはするな。二日酔いの薬だよ」
隙間から覗き込んだ医者から薬とグラスをひったくり錠剤を水で喉に流し込み、ソファーを崩してバリケードを越え、シャワールームへ逃げ込んだ。
「アナスタシア、話をしないか?」
バスルームの扉の向こうで彼の声が聞こえた。シャワーを出してその声をかき消して拒否を示す。薬が効いて少し頭痛が良くなる。
最低だわ。誰が?
考えるのが嫌になり冷水を浴び髪を乾かす。バスルームから出るとニールが壁に手をついて行く手を遮った。
「アナ」
同じ手には乗らない。彼の腕の下を潜り抜けて素早くドレスを着ると、荷物をトランクに押し込んで、ピッチャーの水を飲み干す。
「アナスタシア、聞いてくれ」
ニールは私の肩を触った。
「いやっ!」
振り返ると、医者はすぐに手を引っ込める。ひどく傷ついたような顔すら腹が立ち、また言ってしまった。
「もう触らないで!」
25回は繰り返したセリフを吐き捨て、魔術具の呼び鈴を鳴らす。受付からきたホテリエは部屋の惨状を一瞥すると、立ち尽くしているニールへ怪しみ、私へ視線を向けた。
「何かご用命でございますか?」
「わたくしは帰りますから、大至急、馬車を手配してください。それとこれは部屋を荒らしてしまったお詫びのチップです」
「かしこまりました」
私が右手を差し出すとホテリエは膝を折って両手でチップを受け取り、私のトランクを素早く抱え上げた。側で私のやり取りを黙って見ていた医者が口を挟む。
「アナスタシア、頼むから話を聞いてくれないか?」
「わたくしを受付に案内してくださる?」
ホテリエにほほえむと私を案内しようとしたが、医者が割り込んだ。
「君はいったん下がってくれないか? 部屋が酷い状況になのは申し訳ない。だがただの夫婦喧嘩だし、ソファーを積み上げたのは妻の方だ」
ホテリエは少し表情をゆるめるとぎこちなくほほ笑み、その場にトランクを置く。「廊下に控えておりますので」そう言い残し、後ずさりするように部屋から出ていった。
「夫婦ですって? あなたはただの医者よ」
「分かったよ、アナスタシア訂正する。だから今はただの医者として言わせてもらおう。まだ興奮しているようだし、昨夜は酒をあおって意識を失うように倒れた。だからこそ帰るなら医者の私と帰るべきだ」
「ドクター。わたくしはあなたの患者になった覚えはないの。お医者様を呼んで帰ります」
「だから体調の悪い患者の一番近いところにいる医者が主治医になる決まりなんだ」
「だからってあんな事をしなくても良いでしょ!」
「望んでくれたからしただけだ」
「望んだ? 触診だけでよく言うわね!」
目の奥から涙が出そうになって、私はトランクを引っ掴み、部屋を飛び出そうとした。だが
「アナスタシア!」
医者がかけより、手を伸ばそうとする。
「もう触らな……い………で」
床の絨毯がゆっくりと近づき、私の意識は途絶えた。
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