014


※前回と同じく飲尿を想起させる描写があります。苦手な方はご注意下さい。




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 生れ落ちた瞬間から、彼女は“ここは自分の居場所ではない”と考えていた。


 親個体と同じく有する階層の主の超常感覚によって、ここが暗く狭くそして深い場所であると理解していた。上の方にはもっとずっと広い世界があって、そここそが自分のいるべき場所なのだと、当たり前のように思っていた。生れ落ちた場所そのものに対する、強烈な違和感。

 彼女よりもうんと大きな親個体は、その考えを良しとしなかった。上の世界は、滞留する不可視のエネルギーがここよりも圧倒的に少ない。そこでは、自分たちのような大食らいは存在し続けることすら難しいのだからと。


 親個体のつまらない物言いにうんざりした彼女は、がらんどうの住処を抜け出し迷宮の中を征く。住処から遠く遠くへと進んでいけば、上の世界に辿り着けるのではないかと考えて。不機嫌に身を蠢かせる彼女に、道中にいた有象無象共は意識するまでもなく道を開け、しかしその旅路は、あまりにもあっけなく終わった。


 巨大な垂直孔。

 何をしても傷一つ付かない壁面のそれを、登る術を彼女は持っていなかった。結局のところ、親個体を納得させ住処の奥にある光る床を踏まなければ、上の世界には行けないのだ。しかし親個体は頑固で彼女よりも大きいものだから、無理やり押し通ることも叶わないだろう。


 それから彼女は、穴の下で上の世界を夢想する日々を送っていた。何故か有象無象共が住み着かないそこは、産まれた住処と同じような静けさがあった。元々希薄だった時間の感覚は消え失せ、休眠と渇望とを繰り返すだけ。喧嘩別れした親の元へ戻ろうなどという気は、全く起きない。


 そうしてひとりまぁるくなって過ごし始めてから、どれくらいの期間が過ぎた頃か。


 

 穴の上から、そいつは降ってきた。



 休眠中だった彼女を踏み潰しやがったそいつは、触手の数が酷く少ない生き物だった。ここに来るまでに見かけた有象無象共とも雰囲気の違う、けれどもそいつらよりも強大なエネルギーを内に秘めたその存在は、紛れもなく上の世界からやってきていて。踏まれた怒りが収まってみれば、彼女の脳裏には、自然と一つの解が思い浮かぶ。


 ──つまりこいつは、上の世界から自分を迎えに来た遣いなのだ。


 当然のことである。自分のような存在を、世界の方が放っておくはずがない。疑いもなくそう考える彼女は、しかし、そいつがあれこれやったのち死んだように崩れ落ちたのを目の当たりにして、どうも──内包するエネルギーのわりに──脆い生き物らしいと理解する。ひとまずは、そいつを見守ることに決めた。


 休眠と意識覚醒のサイクルをそいつに合わせ、そいつが取り出した丸っこい何かがエネルギーの根詰まりを起こしかけていたのを直してやり、そいつの発する音を学び意思疎通をしてやる。そうしている内に、彼女はそいつのことを理解できるようになっていった。時間感覚はとうに消え失せている。つまりふた眠りを挟む僅かな期間を、長い長いものとして咀嚼することもできるのだ。


 そいつは周囲に飽きるほど存在している滞留エネルギーを取り込む術を持たず、代わりに、エネルギーを欠片も有していない謎の物体を体に空いた穴っころから取り込んで、体内でエネルギーに変換している。滞留エネルギー──そいつの言うところの滞留魔力に満ち満ちたこの空間においては何とも不便だが、しかしなるほど、上の世界では生きるに適した生態なのだろう。

 そいつが自分の遣いとして来たのではなく、同族の一匹に裏切られ上から落とされただけだと知った時には落胆したものだが……しかしその生態を理解するにつれ、そいつに魔力を持続的に供給させることで自分も、魔力の薄い上の世界でも生きていけるのではないかと彼女は考えた。それを親個体に伝えれば、上へ行くことが許されるのではないかとも。

 となれば何よりも、こいつの信頼を得なければならない。こいつを守護しなければならない。自分が上の世界で生きていくために。


 そう、あくまで利用するために、であって。

 

 決して、この暗く黒い場所では見たこともない、色を失ったような外見に心を絡め取られたわけではなく。そいつの発する気怠げな鳴き声に、体表をさざめかせられたわけではなく。白の中に揺蕩う赤い感覚器官に、体の芯を焦がされたわけではなく。そう、あくまでも、そいつの体内魔力が目的なだけであって。衣服と言うらしい後付けの外皮を剥いで、完全な“白”へと立ち戻らせ、その全身にくまなく触れてみたいなどと、そんなことは決して思っていないのだ。

 そいつの同族による引き上げの目が潰えたとき、共にこの階層の深奥へ──親個体の元へ向かおうと問われ寸暇もなく同意したのは、あくまであくまで、上の世界に行くため。

 そうったらそうなのだ。



 

 ◆ ◆ ◆



  

 ──結局、親個体を納得させることは叶わなかった。まあ上手くいくだろうとどこか楽観的に考えていた彼女に反して、誑かされたかと激怒した親個体。一度逃れ、穴の下で気を落ち着けたとき、自身の見通しの甘さにさすがに申し訳無さを覚えた。


 ぐでっと床に身を投げつつ、しかしこうなればもはや力で打倒するしか無いかと決意し、本気でそいつを──メイを殺そうとしていた親個体に、こちらも同じく本気の決別を心に刻んだ、その瞬間。目的でありながらも先送りにしていた“それ”が、彼女の意識を揺さぶった。つまり、メイの体内魔力を取り込むという行為が、強烈に、いま何を置いてもなさねばならないことのように浮かび上がってきたのだ。

 種族的な本能の完全なる覚醒、目的ではなく欲求として、メイの中からこぼれ出るものを啜り上げ自らの内に取り込みたいという抗いがたい衝動。通常の触手種であれば相手を壊して実行することに何らの躊躇いも抱かないそれを、しかし彼女は、メイに嫌われたくない一心でどうにかコントロールする。


 メイの種族は体に空いた穴から物を取り込み、それを体内で魔力に変換し、そしてその余りを、別の穴から液体に含ませて排出していた。最後の再利用手段として保管していたらしいそれを、気がつけば彼女は、ふわふわと落ち着かない心持ちで絡め取っており。蓋を開け、触手を一筋つっこみ、先端を浸し。啜り上げる。本人から無理やり絞り取っているわけではないのだから良いだろうと、余裕もなく考えながら。


「……もぉ……っ、もぉ〜〜……っ!」


 それを見たメイの鳴き声は、怒っているときのそれで。しかし同時に、今までのメイが示したことのない──こちらの情動を殊更に煽ってくる──色を、いくつもいくつも含んでいた。白い表皮は、本人の視覚器官よりもよほど鮮明な赤に染まっている。初めて見る形態だが静止されているわけではない。むず痒い焦燥感の中でそう断じた彼女は、そのまま一気に、容器に入っていた液体を全て吸収し──


 ──そして訪れる多幸感。そこに含まれていたメイの魔力は、残滓でありながら滞留魔力とは比べ物にならないほどに濃く、強く。量で言えば僅かなそれは、けれども間違いなく、彼女の心を焼き焦がす。今この瞬間と比べれば、生れ落ちてからメイとまみえるまでの期間の、何と空虚で薄っぺらいことか。

 瞬時に理解する。生まれた瞬間から抱いていた衝動の真の姿を。上の世界へ行きたかったのではない。あたしはメイと出会いたかったんだ。


 そういう意味では、この瞬間に目的は達せられたとも言え、しかしこの場所がメイの生きる世界ではないという意味では、まだ道半ばでもある。忘我の淵でそう考えるうちに、取り込んだ魔力が黒い体を急激に成長させ、全身に力がみなぎる。見た目の上では何も変わらない。しかし無数の触手の内に渦巻くエネルギーは、間違いなく変遷を遂げた。


 今まで行っていた滞留魔力の表皮吸収は体を維持するためのもので、それによって自らが成長することはなかった。だから同じ条件で生まれ持った体の大きさが違う親個体には敵わないと、本能的に理解していた。しかし今はどうか。親個体の知らないであろう、体の内に渦巻くこの力は、質量差を埋めヤツを打倒するに足るか否か。


「……そうだよね。マリも、触手、なんだよね……」


 彼女の力が強まったことを即座に感知したメイが、まだ皮膚を赤く染めながらか細く鳴く。もじもじと接地触腕──脚の根本を擦り合わせる仕草が情動をさらに煽り立てる。そこから魔力を帯びた液体が排出されることを、彼女はよくよく知っていた。


「……そう、これはあくまでボスを倒すため……だから……」


 自分自身に言い聞かせるような、躊躇いと期待の入り混じった奇妙な発声。この瞬間、彼女とメイの思考は完全に同調していた。親個体を倒し上の世界に行くために、その排出液が必要であること。しかしそんなこととは全く別に、それを啜り啜られることに、言い知れぬ興奮を覚えていること。


「──えっと……もうちょっとくらいなら、出せると思うんだけど…………その…………いる…………?」


 恥ずかしげに、しかし誘うように、下の衣服……短パンというらしいそれに前触腕みぎてをかけるメイの仕草が、以降彼女の──マリの情動嗜好せいへきを歪めたのは、言うまでもないことであった。




 ◆ ◆ ◆



 

 排出液の追加接種、そののち、むず痒くさざめく体を何とか落ち着かせての休眠。目覚めたときには既に、メイがいつも通り上の同胞たちとやり取りしており。すぐにも親個体に再戦を挑み、今度こそ地上へ帰るのだと宣言していた。

 そのすぐ横でマリは、まどろみながら思い起こす。休眠前にメイが言っていたこと。排出液よりも、もっともっと触手種の情動を満たすものがあるのだと。さっきですら凄かったのに、それよりももっと……だと……?と慄くマリに、彼女が上の世界まで付いてくることにもう何の疑いも抱かないメイが、確かに言ったのだ。


「無事に帰れて、諸々落ち着いて。それでまぁ、もうちょっと仲良くなれたら……マリにそれ、あげてもいいよ」

  

 心の内でその言葉を反芻し、意識を完全覚醒させたマリは、しゃっきりと体を伸ばした。


〈マリさんめっちゃ元気っすね……〉

〈やっぱ昨日のアレ……〉

〈まあ飲んだんやろなぁ……〉

〈そら元気になるよね……触手だし……〉

〈メイちゃんが勝ちに行く顔してるのって、アレでテンペスト号さんが強化されたからだよな……〉

〈強化(意味深)〉


 メイの同胞たちも、相変わらず元気そうだった。

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