02


 落ちて、落ちて。

 

(──数百メートル……なんて程度じゃないなぁこれっ……)


 見上げた穴の縁などとうに見えなくなった辺りで、メイは内心そう独りごちる。

 体感では落下し始めてから既に三十秒近くが経過していた。現時点で縦穴の深さは千メートルなど優に超えているだろう。この高さから落ちても無事……とまでは言わないが、かといってそれだけで死んでしまうほどでもない。完全物理特化型のS級探索者ダイバーとはそういう存在。なのだが、しかし。


(左手もヤバいことになってるし……)


 前腕の大部分の感覚がすでに消えつつある左腕の具合が、メイの心に懸念の影を落とす。この状態ではまともに受け身を取ることすら難しいかもしれない。一瞬、奈落の果てに激突し肉塊となって潰える瞬間を幻視するが──それでも生きる執念を燃やし、メイは体を大の字に開いて速度と体勢のコントロールを試みる。


(せめて深淵層がどんなもんか、この目で確かめてから死んでやる……!)


 探索者ダイバーの矜持というにはあまりにヤケクソな、唐突に何もかもを狂わされた憤りによる、一瞬のスーパーハイテンション。その両目は珍しくかっ開かれ、深淵の底を見据えようとしていた。


 

(──!空気の感じが変わったっ……底が近──まって何か居──っ!)


 

 そして、激突。

 それは、何をしても破壊不可能なダンジョンの床に……ではなく、その上に佇んでいた軟体の何かに対して。


「ぐっ……ぎぃっ……!」


 メイの体が直上に大きくバウンドした。衝撃に息を吐きながらも、予想よりも遥かに小さい痛みにすぐさま思考を再開する。


(軟性の……モンスター!?……よく分かんないけど、たぶん殺しておくべき──!)


 恐らくクッションになってくれたであろうその蠢く何かを、しかしそれが深淵層のモンスターであるならば“殺らねば殺られる”と断じ。メイは両足を揃えて、踏み潰す勢いで再び地面へと向かっていく。今度は落下ではなく、脚撃として。


(──!?)


 ところがどっこい、躱された。


「くっ……!!」


 まるで液体のように流動的に、地面を蠢き滑ったその影は、確かに自らの意思でもってメイの攻撃を回避した。両脚で然りと着地し、右拳まで地に打ち付けてバランスを取るメイの視界の先、は黒々と蠢いている。

 

(──触手……?にしても……)


 は、地上の生物で例えるならイソギンチャクにでも近いシルエットをしていた。無数の、丸っこく細長い形状の触手の集合体のような、以ってそのまま“触手”と呼称される種別のモンスター。主にダンジョン上層下部から中層中部にかけて見られる、探索者ダイバーたちに恐れられる存在。当然ながらメイも何度も目にしたことはあるが……その彼女をして目を見張らざるを得ない特異な点は、その個体の体色にあった。


(こんなに“黒い”かぁ……)

 

 ダンジョンに棲まうモンスターたちは、より深い層に至るほど強くなっていき。そしてどういうわけだか、強くなるほど体から鮮やかさが消えていく。深層の時点で既に、まみえるのは暗い紫や灰のような体色をしたモンスターばかりであり、つい先程打倒した灰燼龍などもまさしく、全身が炭とも灰ともしれない黒炭色をしていたのだが……


「……いや黒すぎでしょ……」


 メイが思わずそう呟いてしまうほどに、目の前の触手モンスターは黒一色だった。薄暗くも不思議と真っ暗にはならないこの石造りのダンジョン内において、見ているだけで陰影の感覚が狂ってしまうほどに黒い。通常の触手やスライム系に見られるような液体めいた照りツヤも一切無いマットブラックなそいつは、ダンジョンの法則性に従うなら、深層のボスモンスターよりも遥かに強力な存在ということになるだろうか。


(まあ深淵層だからおかしくはないかもだけど……でも……)


 油断なく見つめながらも、メイはそいつに対してもう一つの違和感を覚えていた。


(……敵意を感じない……?)


 怒気は感じ取れる。分かりやすいほどに。全身を威嚇するネコのように膨らませて、メイの半身ほどにもなるサイズ感の体全体を蠢かせ、自身を一度ならず踏み潰そうとしたメイに対して抗議と憤りの意をこれでもかと示している。しかしそこにあるのはあくまで怒りであり、ほとんどのモンスターに見られる害意や殺意といったサツバツとしたものは感じられなかった。反撃してくるでもなく、五メートルかそこらの距離を開けて、メイを警戒している様子。


(元々触手とかスライム系は、そんなに殺気立ってる方じゃないけど……)


 “殺すぞ!!!!!!”ではなく“いきなりなにすんのよ!?!?”とでも言いたげな反応に、メイは小さく首を傾げ──それによって左腕が視界の端に入り、自身が受けた毒が意識に上ってきた。


「っ……!」


 特異なモンスターの登場により、生存に係る瞬間的な優先順位は下がっていたが……そうこうしているあいだにメイの左腕はもう、肘までの感覚が消失していた。目の前の触手が少なくともこの瞬間には襲ってこないと判断したメイは、警戒を向けつつも一時そいつから視線を逸らし、手首までを覆うインナータイツを破いて目視で具合を確かめる。


(あーあー、こりゃもうダメそう)


 ひと目でそうと分かるほどに、メイの左腕は肘から下がドス黒い紫色に変色していた。動かそうとしても指は一切反応を示さず、刺された部位からは異様に粘っこい血液らしきものが滴っている。

 魔法的な性質を帯びた超常の猛毒はしかしそれ故に、メイの強靭な体内魔力による抵抗で侵蝕を阻まれており、血流に乗ることもなく左腕から徐々に登っていくに留まっていた。今のところは。


(心臓まで来たら流石にヤバい……と思う。ってなると)


 即断即決。今まで彼女を生かしてきたその判断力が、右手を腰のポーチへと向かわせる。容量拡張の魔法が付与されたそこから取り出されるのは、ゴムバンドと無骨なサバイバルナイフと小さな注射器が一本ずつ。片手と口で器用に左腕の付け根付近を縛り、注射器を咥え、ナイフの刃を二の腕の内側に当てる。


「──ふっ……!!」


 決心が揺るがない内にメイは、その膂力にモノを言わせて自身の左腕を二の腕の中程から切り飛ばした。持てる身体能力の全力で以って即座にナイフを注射器に持ち替え、キャップを弾いたそれ──緊急用表皮急速再生剤のピストン部を引く。周囲の滞留魔力を取り込み、シリンジ内の薬剤が反応を起こすのを目視するのと同時に、メイはその針を切断面付近の皮膚に突き立てた。


「う、ぅぅぅぅぅッッ──!!!」


 切断による痛みと、それを凌駕するほどの強制皮膚再生に伴う激痛。さほどの血飛沫も舞わない内に、切断面は驚異的な速度で塞がっていった。

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