第26話

裕之の笑顔がどこか悲しげに揺れているようにみえて、心がざわつく。



「なにかあったの?」



質問には答えずに、唇が近づいてくる。



私は自然と目を閉じて、それを受け入れた。



少し湿っている裕之の唇は冷たくて、ここまで必死に走って来てくれたことがわかった。



嬉しさを感じる反面、もうキスもできなくなるのだと思うとやっぱり胸が締め付けられる。



せっかく飛び降りる勇気ができたところなのに、これじゃ台無しだ。



ふっと唇の感触が遠ざかり、胸にポッカリと穴が空いたような感覚がした。



もう少ししていたかったな。



そう思いながら目を開けたその先には……誰もいなかった。



「……え?」



ついさっきまで隣に立っていたはずの裕之の姿がどこにもない。



屋上を見回してみても誰もいない。



もしかして今のは私の心が見せた幻覚だったんだろうか。



死にたくなくて、もう1度裕之と会いたくてあんなものを見たんだ。



そう思うとおかしくて、悲しくて口元が震えた。



その唇にはさっきまでのキスの感触がしっかりと残っていて、唇に触れようとした手にはスマホが握られている。



自殺する前に自分の思い通りの幻覚を見てしまったとしても、スマホがここにあるのはおかしい。



私は家にスマホを置いてきたはずなのだから。



だけどやはり裕之の姿はどこにもなくて、頭が混乱してきたときだった。



キャア!!



と、女性のか細い悲鳴が聞こえてきて周囲に視線を走らせた。



しかし、さっき確認したばかりの屋上には誰もいない。



それに悲鳴はとても遠い場所から聞こえてきた感じがした。



私は恐る恐る下を見る。



ビルの下には人が集まってきていて、なにかを取り囲んでいるように見える。



ゾワリ。



全身が一気に総毛立った。



ブツブツと鳥肌が現れて首筋がスーッと寒くなる。



ここからでは地上の様子はよくわからない。



それなのに、すべてが理解できていた。



そんな、うそでしょ、どうして!?



真っ白な頭の中に浮かんでくるのはそんな言葉ばかりだ。



塀から屋上の地面へと飛び降りて、ふらふらになりながら非常階段を駆け下りていく。



カンカンと響く自分の足音がやけに耳障りで、何度も足を踏み外して転げ落ちてしまいそうになった。



ようやく道路に降り立ったときには救急車の音が近づいてきていた。



私はスーツ姿の人垣をかき分けてその中央へと向かう。



鼓動は早鐘を打ち、呼吸は荒くて少ししか酸素が入ってこない。



メマイを起こして倒れてしまいそうになりながらも、その光景を見た。



そこには裕之が横たわっていた。



頭部から血を流し、目はまっすぐに空を見つめて、手足が折れ曲がって関節部分から骨が露出している。



「なんで……」



つぶやいたつもりが声になっていなかった。



掠れた空気が出てきただけで、私の声は誰にも届かない。



救急車が接近する中、私は手の中のスマホを握りしめた。



画面を確認してみると、裕之からのメッセージが来ていることに気がついた。



《裕之:愛してる。結は、生きて》



その文面にすべてが詰まっていた。



目の前で飛び降り自殺をした裕之の願いが胸に突き刺さり、熱い熱となって目頭を刺激する。



涙が目に膜をつくって世界が滲んでしまう前に、私は裕之にスマホレンズを向けた。



震える指先で写真を撮影しても、周囲は喧騒にまみれていていちいち私の行動を気にしている人はいない。



やがて近くに救急車が停車して、野次馬たちと一緒に私は横の方へと移動させられてしまった。



裕之の体がストレッチャーに載せられて運ばれていく中、私のスマホが震えた。



《呪いを回避しました》



そしてそのメールも写真付きの呪いのメールも、こつ然と消えてしまう。



もう、どこをどう探しても私のスマホに呪いの痕跡はなかった。



アレはまたどこか、誰かのスマホに届くのだろう。



救急車が走り去っていく音を聞きながら、私は裕之がもう助からないことを知っていた。



ようやく出てきた涙がボロボロと粒になって頬を落ちていく。



地面に濃いシミとなって滲んで消えていく涙に気がつく人はいない。


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