第21話【呼び出し】
指定された店は、会社から電車を乗り継いで30分もかからない場所に位置していた。
駅前の飲み屋街から少し離れた細い小路に佇む一角のビル。
そこの地下へと続く、勾配のある階段をゆっくり降りて行くと、その終わりの先には『OPEN』の札がかけられた茶色い扉が出迎える。
緊張を押し殺しドアノブを回すと、そこはモダンで落ち着いた内装の空間が広がり、そのカウンター席には呼び出した本人が涼しい顔で待っていた。
「急なお呼び出しをしてしまい申し訳ございません。今晩を逃すと、出張でしばらくこちらに戻って来れないものですから」
「いえ。仕事もなんとか片付いたので大丈夫です」
見慣れたスーツ姿ではなくカジュアルなジャケットにスキニーで既に一杯引っかけているのは、沙優の兄・一颯。
隣の席に腰かけると、カウンターの手前に置いてあったメニュー表を俺に手渡した。
「吉田さんは何を飲まれますか?」
「そうですね......」
久しぶりにアルコールに手を出しても良かったんだが、なんとなく今日はやめといた方がいい気がして。
「できればノンアルコールのものがいいんですが......ないですよね」
「ありますよ。ねぇマスター?」
一颯がマスターと呼ぶ男性は柔和な笑顔で頷き、ノンアルコールカクテルの欄を指さした。
こういった、いかにもバーといった雰囲気のお店では扱っていないものだと勝手に思い込んでいたが、意外にも結構な種類を扱っている。
「それじゃあ......このサラトガ・クーラーというやつを」
「かしこまりました」
フルーツ系の甘そうなものが多い中で、ジンジャエールとライムのさっぱり系ノンアルコールカクテルと書かれたものをとりあえず注文。
「いいお店でしょ? 私のお気に入りの場所なんですよ」
「そうなんですか」
マスターは『恐れ入ります』と小さく呟くと、目の前でカクテルを作り始めた。
見たところうちの両親と同年代っぽい雰囲気の男性だが、無駄のない流れるような所作で工程をこなし、体全体を使ったキレのある
「吉田さんは普段バーを利用されることは?」
「あまりないですね。どちらかと言えば飲みがメインになると大体居酒屋になってしまうもので」
「居酒屋もいいでよね。最近は技術の発達により、出されたものが冷凍食品かどうか全くわからないものも増えましたし」
さすがは誰もが知る大手冷凍食品メーカー『おぎわらフーズ』の若社長だけあり、着眼点が俺たちとは違う。
本題に入る前のアイドリングトークをしていると、マスターがさっとできあったばかりのサラトガ・クーラーをカウンターテーブルに差し出す。
「では、久しぶりの再会を祝して。乾杯」
「乾杯」
男同士でグラスの縁を軽く合わせ、乾杯する。
口の中にジンジャエールの甘さが広がると思いきや、絶妙なタイミングでライムが引き締め、爽やかな味わいが残る。
これならお酒が苦手な人でもジュース感覚で飲めそうだ。
「......早速ですが、今日吉田さんを急に呼び出しのは他でもない......沙優のことです」
――きた。
俺が一颯さんから呼び出される理由は、それ以外には考えられなかった。
「沙優との同棲生活は上手くいっていますか?」
「ええまぁ。最近は仕事で帰りが遅いのであまり喋れてはいませんが」
「聞きましたよ。いま抱えている仕事が無事に終わればリーダーに昇進するとか。自分のことのように嬉しそうに今日語っていましたよ」
「沙優のヤツ......」
一颯さんの微笑みを湛えながらも、心の内を見抜こうとする鋭い視線に、俺は苦笑を浮かべ平静に受け答えた。
「学園祭はどうでした?」
「久しぶりに学生に戻れた気分でとても楽しめました。社会の厳しさをまだ知らない、未来に期待溢れる若者たちが一生懸命お祭りを盛り上げようとしている姿は、すっかり大人に染まってしまった私には眩しくも羨ましかったです」
年齢的には俺とそこまで変わらない一颯さんだが、早いうちに父親から社長の座を譲り受けた。
その気苦労は想像にも及ばないほど大変だったのは、彼の雰囲気がそれを物語っている。
「沙優が家に戻ってきてからの二年間。私は今まで以上にできるだけ沙優と接し、顔をよく見るようにしました。だからわかるんです。沙優が悩みを抱えていることを」
一颯さんは自分のカクテルに口をつけ、一口飲んでから言葉を紡ぐ。
「二人の間に私が口を挟むのはどうかとは思ったのですが......せっかく二年間想っていたあなたと恋人同士になれたのですから。兄としては陰ながら応援したいといいますか」
それは妹を心から心配している兄の困った表情だった。
一颯さんは沙優が二年前に家出した原因の一つとして、自分が沙優と向き合おうとしなかったことだと、今でも強く後悔している。最悪なところまで行ってもおかしくなかった。
たまたま俺と出会ったことで妹は救われた、と以前俺に感情を吐露してくれた。
見た目はクールでドライな印象を受けるが、本当はどこにでもいる、妹想いの兄貴なのだ。
だからこそ俺は、そんな一颯さんに悩みを打ち明けることに
「妹想いのお兄さんがいて、沙優は幸せ者ですよ」
「私は吉田さんのことを言っているんです。誤魔化さないでください」
酔っているからとかではない。
顔こそほんのり赤くなっているが、その真剣な眼差しは、はぐらかそうとしている俺を捉えて離さなかった。
店内に薄っすらとかかるBGMのジャズが、俺たちの無言の空間を埋める。
誘いに乗った時点で、俺はこの悩みを打ち明けたかったのかもしれない――グラスに入ったサラトガ・クーラーを一気に飲み干し、一颯さんに悩みを告白した。
「......一颯さんは、自分の愛する人をめちゃくちゃにしたい衝動に駆られたことはありますか?」
最初こそ面を喰らった表情を浮かべたが、すぐにいつもの爽やかな表情へと戻る。
「それは当然ありますよ。私だって男の端くれですから。世の男性と同じくらいの性欲は持ち合わせていますので」
「意外ですね」
「......吉田さん。私を聖人君主か何かだと思っていません?」
否定の言葉を選ぼうとするも、静かな圧に負け『はい......』と正直に降参した。
そんな俺を一颯さんは鼻を鳴らし、自身の身の上話を語り出した。
「早くに父親の会社を次ぐことになった私を、社内の役員たちは快く思っていなかった。当然です。ただ先代と血が繋がっているというだけで選ばれたのですから」
「そこまで謙遜しなくても」
「いえ。本当のことです。力があることを見せつけなければ侮られ、簡単に寝首を掻かれトップの座から引きずり落されてしまう......社長とは吉田さんが想像している以上に孤独な立場なんですよ」
現在進行形で大企業の長を務める人間が言うと、説得力の高さが計り知れない。
いつ誰かから、社長の座を狙う人間に仕掛けられるかわからないプレッシャーを抱えながら続けるのは、並大抵のストレスじゃないはずだ。
「支えてくれたのは、紛れもなく恋人の存在が大きかった。一人では
「魑魅魍魎って」
「これでも大分オブラートに包んで言っているんですよ」
口角を上げこちらに微笑む。
修羅場を経験してきた末の爽やかな表情だとすると、また違った意味で見えてしまい、鳥肌が立つ。
「何度も投げ出しそうになった私を、彼女は励まし、そして受け入れてくれた。どんなに欲望をぶつけても――もう頭が上がりません」
「その彼女さんとは結婚前提で?」
「もちろん。私には彼女が必要です。彼女のいない人生なんてあり得ませんから」
一颯さんの左手の薬指には婚約指輪と思わしき指輪が。前回会った時にはしていなかったはず。
俺が夏祭りで沙優に指輪をプレゼントしたように、一颯さんもまた、愛する人へ一世
一代の告白をしたのだろう。
「吉田さん。あなたが家出をし、絶望に満ち溢れた暗いトンネルの中を
「本人でもないのに凄い自信ですね」
「私の自慢の妹ですから」
そう言われて納得してしまった。
兄妹だけあって、所々に沙優との血の繋がりを感じさせる仕草が表れる。
特に鼻をスンと鳴らすのなんかは沙優そっくりだ。
気が一気に抜けたせいか、腹の虫がグ~っと空腹の意思表示をしてきた。
「ご夕飯まだですよね? 良かったらここの焼き鳥でもいかがですか」
「え、ここバーなのに焼き鳥あるんですか?」
「はい。おぎわらフーズの代表取締役社長のお墨付きですから、きっとお口に合うと思いますよ」
「恐れ入ります」
そういえばバーなのに何故か焼き鳥の匂いがするなっと思っていたら、そういうことらしい。
カウンターの端の方には七輪らしき設備。
後ろで歓談しているテーブル席のお客さんも、カクテルを片手に焼き鳥を摘まんでいる。
本題が終わった俺と一颯さんは、マスターが目の前で焼いてくれた焼き鳥を堪能しながら、お互いの近況を報告しあった。
明日は朝が早いという一颯さんとは終電前に別れ、俺は一人家路についた。
沙優には今日会っていたことは黙っていてほしいと一颯さんに言われている手前、事前にスマホのメッセージで『悪い。今日も帰り遅くなる。夕飯はいいから』とだけ送信。
沙優からは『うん。わかった』と淡白な返事が返ってきた。
この前、沙優が求めるのを拒んで以降、俺と沙優の間には微妙な空気感が生まれてしまっている。
一颯さんに言われた通り、変な自尊心を捨て、自分の気持ちを本気でぶつけよう。
そう意気込み、頭の中で言葉を整理しながらアパートが見える位置まで帰ってくると、うちの部屋の灯りが消えているのが見えた。
駅についてからメッセージを送っても一向に既読がつかないので、時間帯的にもしかしたらもう寝ているのかもしれない。
明日の朝でもいい。
とにかく沙優に謝りたい。
玄関の鍵をそっと開錠し、静かにドアノブを回す。
「......ただいま」
キッチンと玄関側の照明は点いていたが、ベッドがある居室側の電気はやはり消えていた。
ほっとしたような......残念なような......。
小さく呻きながら靴を脱ぎ、なるべく起こさないよう居室に足を踏み入れようとした――その時だった。
......ぽふっ。
甘く柔らかな感触が、俺の体を包み込んだ――。
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