第14話 春休みの終わり

「「いただきます」」


 目の前の豚の生姜焼きを口に運び、ゆっくりと咀嚼そしゃくする。

 不安そうな顔で空の様子を窺っている葵へ、微笑を向けて小さく頷いた。


「うん、美味い。ばっちりだ」

「ありがとうございます!」

「まあ、市販のたれを使ったからミスなんて余程の事が無いと起きないんだけどな」

「そうかもしれませんが、やっぱり不安じゃないですか。野菜炒めで失敗した前科がありますし」

「そう言われたら否定出来ないけどさ」


 最初の失敗ですら、空の好みに合うように味付けしようとした結果なのだ。

 真っ当に作れば葵がミスするはずがない。

 それを分かっていても、こうして春休みの終わりまで料理を教え続けてしまった。


「ホント上達したよな。よく頑張った」

「え、えへへ。ありがとうございます」


 頬をほんのりと薔薇色に染めて笑む葵に、思わず空の頬も緩む。

 正直なところあまり力になれた気はしないが、彼女が喜んでくれるのならそれでいい。


「お疲れ様。明日から学校が始まるし、これでお開きだな」


 バイト終わりに葵と料理をし、それ以降は少しだけ彼女がゲームをする。

 普通では有り得ない葵との時間は、思ったより楽しかった。

 しかし、学校が始まってからも行う理由は無い。特に料理は空が口を出す必要などないだろう。

 勿論、葵が空の家に遊びに来る事は構わないものの、彼女との時間は確実に減る。

 一人の時間が好きだったはずなのに、随分とほだされてしまった。

 胸に沸き上がる思いに蓋をして関係の終わりを口にすれば、葵の顔が悲しそうに歪んだ。


「……そう、ですよね」

「家が隣なのは変わらないし、何かあったら力になる。だから――」

「あの」

「な、何だよ」


 元気を出せ、と言う前に葵が空の言葉をさえぎった。

 今まで一度もされた事のない反応に驚いていると、彼女が深呼吸し始める。

 長い睫毛に蒼色の瞳が隠れたがそれも一瞬で、強い視線が空を射抜いた。


「出来れば、これからもせんぱいの晩ご飯を作りたいです」

「は? だから、料理を教えるのは――」

「そっちはもう無しですよね。それくらい分かってます」

「なら、何で晩飯を作るんだよ」

「えっと、その、せんぱいって春休みが終わってもバイトを続けるんですよね?」

「そりゃあ自分の金が欲しいからな」


 いきなり話を逸らされたが、おそらく大切な事なのだろう。

 妙に焦ったような態度が気になるものの、質問の答えを誤魔化す理由はない。

 空の言葉を聞き、葵が両拳をぐっと握った。


「でしたら、帰ってきてから晩ご飯を用意するのは大変ですよね。学校終わりですし」

「ぶっちゃけ面倒だけど、仕方ないだろ。晩飯抜きたくないし、カップ麵ばっかりも嫌だし」


 春休みの間、葵に料理を教える事が出来たのは、寝るのが夜遅くなっても構わないからだった。

 当然ながら、学校が始まってしまうと春休みのような生活は出来なくなる。

 体もバイトだけをしている時より疲れるし、買い物も日中に出来ないので大変だ。

 正直なところ、葵が作ってくれるのは非常に助かる。

 しかし、これでは今までと違って彼女にメリットがない。これまでは、料理を教えるというのが対価だったのだから。

 誰かに頼るだけは嫌なので遠回しに葵の提案を断るが、隙を見つけたという風に蒼色の瞳が輝いた。


「なので、私が作ります。バイトしてないので、学校から帰ってきてすぐに作れますし」

「朝比奈がそこまでする理由はないだろ。俺の事なんて放っておけ」

「そんな事出来ません。せんぱいには――」

「恩があるから、か? もう十分恩返しはしてもらった。これ以上は過剰だって」

「ぅ……」


 もう必要ないと、きっぱりと線引きを行う。

 葵の性格ならば、恩返しを理由にしてあれこれと空にメリットのある提案してくるはずだから。

 ここで流される事だけは、あってはならない。

 喉が詰まったようにうめいた葵へと、諭すように言葉を紡ぐ。


「朝比奈はこれから高校生活が始まるんだ。俺にかまけてちゃ駄目だろ」

「どうしてダメなんですか?」

「友達と遊ぶ時間を大切にして欲しいからだ」


 葵ならば絶対に友人が出来るし、放課後や休日に遊ぶ事だってあるだろう。

 その際に、空の晩飯を作るせいで遊べなかったら悲し過ぎる。

 下手をすると、それで目を付けられるかもしれないのだ。

 友人のほぼ居ない空が言える事ではないなと内心で苦笑しつつも、表情には出さない。

 素直に納得してくれるかと思ったが、葵は不機嫌そうに唇を尖らせる。


「私、友達とか作るつもりありません。なのでせんぱいの心配は無用です」

「……意外だな」

「せんぱいの中での今の私のイメージがどんなものか気になりますが、それは置いておいて」


 葵の瞳に一瞬だけ剣吞けんのんな光が宿ったが、どうやら空の発言は不問にしてくれるらしい。

 友人を作るかどうかは葵の意志なので、空にあれこれ言う資格はない。

 とはいえ作らないなら作らないで心配なのだが、胸の前で腕を組んだ葵に言うのははばかられた。


「絶対に作らないという訳ではありませんが、現状ではそのつもりがありません」

「分かったよ」

「女子の陰湿なやりとりとか水面下での言葉の応酬があるので、来る人を突っぱねたりもしませんが」

「あ、やっぱりそういうのはあるんだな」


 女の会話が面倒臭いと誰かから聞いた気がするが、どうやら本当の事らしい。

 そう言えば誰だったかと思考を巡らせるものの、全く思い出せなかった。

 それよりも、眉間にしわを寄せて露骨に不機嫌になった葵に集中しなければ。


「ホンッッットに面倒臭い。あれからどれだけウザかったか。ああ、思い出しただけでイライラする……!」

「あ、あの、朝比奈さーん……」


 一度も見た事のない、憤怒と憎悪に染まった表情に背筋が寒くなった。目元に影が出来ているのは気のせいだろうか。

 空に怒っていないのは分かるが、顔が整っているからか凄みがあり過ぎる。

 おそるおそる様子を窺えば、空が見ている事に気付いたのか葵の体がびくりと震えた。

 顔に焦りを浮かべて視線を逸らし、それから誤魔化すように咳払いを落とす。


「と、とにかく、せんぱいの晩ご飯を作っても何も問題はないという事です」

「……そうか。でも、俺に返せる物が無いんだよな」


 先程の事は触れない方が良いと判断し、思考を巡らせる。

 結局、空が葵に頼るのが変わらない以上、彼女に何かお返しをしなければ。

 ぽつりと言葉を零すと、葵が勢い良く首を振った。


「そんな! お返しとか要らないです!」

「駄目だ。作ってもらうんだから、お返しは必要だろ」

「でしたら、学校が始まってもせんぱいの家で遊ばせてください! ゲームやりたいんで!」

「それはお返しになってない気がするんだが」

「なってます! 大丈夫です!」

「………………分かったよ」


 どう考えても釣り合っていない気がするので、頷きはしたがお礼は考えておくべきだろう。

 結局流された気がするが一応の納得を示せば、驚くほど華やかな笑みが葵の顔に浮かぶ。


「ありがとうございます!」

「それで、今まで通りバイト終わりに俺の家で料理するって事でいいんだよな? なら作るの手伝うぞ?」


 料理教室は終了したが、晩飯の調理を任せっきりにするつもりはない。

 学校とバイトで疲れていても、出来る事はすべきだろう。

 しかし葵は気まずいような、緊張しているような何とも言えない表情で口を開く。


「それなんですが、今度から私の家で料理しようと思うんですよ」

「は? 何で?」

「せんぱいがバイトから帰って来るのに合わせて作っておいたら、すぐにご飯を食べられるじゃないですか」

「成程。で、作ったものを俺の家に運ぶと」

「そんな面倒臭い事しません。私の家で食べましょう」

「マジで言ってんのか?」


 空の家で晩飯を摂っていたのは葵が空を信用してくれたからだが、初日の延長だからでもある。

 しかし、今回は話が違う。

 いくら恩人の男性だとしても、普通はプライベートな空間に招かない。

 葵の目を見て確認を取れば、強い意志を秘めた瞳が空を見つめ返す。


「マジです。せんぱいなら、私の家に上がっても大丈夫です」

「……何があっても知らないからな」


 不埒ふらちな事は絶対にしないが、空とて思春期の高校生なのだ。

 警戒を忘れるなと釘を刺す。

 少しは慌てるかと思ったのだが、返ってきたのは悪戯っぽい笑みだった。


「何かしちゃうんですか?」

「する訳ないだろ」

「でしょう? そういう事ですよ」


 くすくすと楽し気に笑う葵に弄ばれた気がして、止まっていた箸を動かす。

 結局彼女の思い通りに事が運んでしまい、内心で溜息をつくのだった。

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