第12話 風呂上りの手入れ
葵との微妙な空気は、彼女がゲームを始めるとすぐに無くなった。
相変わらずころころと変わる表情を眺めているのは飽きない。
とはいえずっと見ている訳にもいかず、ソファから立ち上がる。
「風呂入ってくる」
「はい。ごゆっくり」
ちらりと空を見た葵が柔らかい微笑を浮かべた。
誰かに笑顔で見送られるのが新鮮で、僅かに心がざわめく。
それを胸の内にしまって自室へ。
スウェットを取って風呂場に向かうが、その途中でテーブルに置かれているシンプルな皮財布が目に入った。
「……」
信頼の代わりであるそれに、当然ながら触れるつもりはない。
視線を外して再び歩き出し、脱衣所で服を脱いで風呂場に入った。
しっかりと体を洗って湯船に浸かる。
「なーんか変な感じだなぁ」
空以外の人が家に居る中で風呂に入る事など初めてだ。
だからこそ、違和感という靄が空の胸を覆っている。
初めは料理を教えるだけだったのに、どうしてこんな状況になっているのか。
流されている自覚はあるが、葵が空を信用しているせいだろう。
「信用、ね」
昔、空に救われたという葵。
だからこそ夜遅くまで空の家に居るのだろうが、いくらなんでも信用し過ぎだ。
異常だとは思うものの、かといってどんな風に指摘すればいいか分からない。
「……気にしても仕方がないな」
信用など一瞬でひっくり返る可能性がある以上、考えるのは時間の無駄だ。
となれば、空が出来る事は葵へ不必要に踏み込まないくらいだろう。
現状は空への害が無いのだから、今はこれでいい。
頭を振って思考を中断し、風呂から上がる。
しっかりと髪を乾かし、肌の手入れを済ませてリビングに戻った。
「あ、おかえりなさい」
ゲームに集中していると思ったのだが、葵は音で判断したのか空へと視線を向ける。
迎えられたのも新鮮で、胸が温かくなった。
頬を緩ませてソファに座る。
葵はすぐゲームに戻るかと思ったが、何故か空の顔をジッと見つめていた。
「何か変か?」
「いえ、ちゃんと髪を乾かしてるんだなって」
「ああ、それか」
どうやら葵は空が適当に髪を乾かす、あるいは自然乾燥させると思っていたらしい。
男性の大半がそうなのかもしれないが、空は違う。
「きちんとやっておくと髪質が良くなるからな。自然乾燥派を
「はえー」
「肌に関してもそうだな。やっておくと地味に変わったりする」
「え? 肌も手入れしてるんですか?」
蒼色の瞳を大きく見開き、葵が驚きを露わにした。
何も恥じるつもりはないと、頷きを返す。
「勿論。肌を手入れする道具は、女性用だけじゃなくて男性用もあるんだぞ?」
「そ、それはそうかもしれませんが、普通そこまでしないと思います」
「そうだな。でも、俺はどうしてもやっておきたいんだよ」
「……何か、理由があるんですか?」
先程とは違い、葵は空の顔色を
おそらく、この程度ならば踏み込んでも問題ないと判断したのだろう。
別段隠すつもりもないので、再びの頷きと共に微笑を落とす。
「大した事じゃない。クラスで浮かないようにする為だ」
「浮かないように、ですか?」
「ああ。髪がぼさぼさだったり、肌が荒れていたりすると目を付けられる可能性があるからな」
正直な所、余程髪や肌が酷くなければ悪目立ちはしない。
それに、体質的に髪に癖がついたり肌が荒れてしまう人は居る。
だからこそ身だしなみを最低限整えているだけの男子生徒は多い、はずだ。
しかし、それは空が髪や肌の手入れをしない理由にはならない。
空の言葉から何かを察したのか、葵の顔が僅かに曇った。
「そう、なんですね」
「それに、男でも髪とか肌が綺麗な方がいいだろ? ……まあ、世の中にはちょっとダメな方が良いって言う人も居るけど」
個人の趣向を否定するつもりはないが、身だしなみを整えるのを他人に期待するつもりもない。
僅かに話を逸らせば、葵の顔に微笑が浮かんだ。
「ふふ、綺麗な方が良いというのは否定出来ませんね。ダメなのもそれはそれで良いと思いますけど」
「ま、女性からすればどっちも『イケメンに限る』ってやつだろうけどな」
「流石にそれは極端じゃないですかね……。私は別にそう思いませんし」
空の考え方に葵が乾いた笑みを零す。
彼女程見た目が整っているのなら空の考えに同意してくれるかと思ったが、違ったらしい。
流石に偏見が過ぎたかと内心で謝罪し、苦笑を浮かべる。
「何にせよ、髪とか肌の手入れをするのは悪くないなって事だ。俺は男だから、あんまり時間が掛からないし」
「それは本当に羨ましいですねぇ……」
遠くを見るような目をして、葵が盛大に溜息をついた。
多少なりとも髪や肌の手入れをしているので、女性の苦労は分かっているつもりだ。
しかし、空の想像以上に毎日苦労しているらしい。
「毎日お疲れ様だ」
「ありがとうございます……。にしても、本当にきちんと手入れしてるんですね」
肩を落としていた葵だが、空の髪が気になったようで興味の視線を向けられた。
僅かに距離を詰められたので離れようと思ったが、ソファの端に座っているせいで逃げられない。
「……そうだけど、何か?」
「あの、触ってみてもいいですか?」
「は? 却下だけど」
興味を持ってくれたのは正直なところ嬉しいし、他人に触られるのが嫌という訳でもない。
だが、この状況で触られるのは何となく危険な気がした。
流されては駄目なのできっぱりと断れば、葵の顔に絶望が浮かぶ。
「そ、そこを何とか! ちょっとだけですから!」
「そういう言い方をするパターンはちょっとじゃ済まないんだよ。ほら、ゲームに戻れ」
「むー」
「むー、じゃない」
頬を膨らませて露骨に不満アピールされたが、それでも空の意思は折れない。
とはいえ、少しも怖くない葵の態度に一瞬だけぐらついてしまったのだが。
手で追い払うような仕草をすると、じとりと
しかしこれ以上引き下がっても無駄だと悟ったようで、彼女は渋々とゲームに戻る。
「いじわるです」
「何がいじわるなんだか……」
興味があったとしても、知り合って数日の男の髪に普通は触れようとしない。
陽の者特有の距離の詰め方に、溜息を零すのだった。
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