ゴト リ

洞貝 渉

1

 

 それは、ゴト、リと何か重たいものを引きづるような音でした。

 次いで声がするんです。

 オカアサンって。

 オカアサン。アケテ。イタイ。コワイ。ドウシテ。ゴメンナサイ。

 そんなことをうわごとのように繰り返すんです。

 ベランダを動き回っているのか、ゴト、リ、ゴト、リと音もする。

 私、もう、どうしていいのかわからなくて……。


 事故物件、というわけでもないようでして……はい、あの部屋でお亡くなりになられた方もいないし、事故や事件も起こっていません。少なくとも私はそう説明されました。

 ……はい、そうですね。その手のサイト……ええと、事故物件の検索ができるサイトがあるんですけれど、そこで調べても何も出てこないですし……。


 いえ、今はもう引っ越していますよ。

 音と声だけとはいえ、気味が悪かったもので……。

 今でもたまにあの物件の近くを通りかかることがあるんですけどね、結構頻繁にあの部屋、入居者が変わっているようなんですよ。


 ええ、なんなんでしょうね、本当に……。



 

 人の気配がして、私はスクロールする手を止めた。

 誰が来たのかは振り返らなくてもわかる。

 約束をしていたわけではないし、そいつが学内のカフェテリアをよく利用するというわけでもない。

 それでも、背後から期待通りに「小鳥さん」という呼びかけがあり、私は振り向かずに隣の空席を指さした。


 昼食時も過ぎ、三限目の講義が始まって間もない時間のため、カフェテリアには今私とこの男しかいない。

 人懐っこい笑みを浮かべながら、そいつは私の隣に座った。

「お久しぶりです。今度は何がありましたか?」

 座るなり単刀直入で聞いてくる。

 私とこの男の関係はよくわからない。少なくとも互いに相手の名前を知らない程度には赤の他人だ。なのに、世間話などの余計な話は一切しないどころか、主語も述語もあったものではない身もふたもない質問をいきなり投げかけておいて、ちゃんと返答がくるものだと信じて疑わないこの男の様子には、まるで互いをよく知っている者同士の信頼関係でもあるようで。

 どことなく親しさの感じられるこの口振りに、私は少しイラっとくる。

「全部知っているから来たんでしょ?」

 挑戦的に言ってみるが、男はどこ吹く風で笑顔を絶やさない。

「いえいえ、何も知らないですよ。小鳥さんの大切にしている子に呼ばれたから来ただけです」

 この男は私のことを小鳥さんと呼ぶが、もちろん私の名前はそんな可愛らしいものではないし、私のことを小鳥さんなどと呼ぶのもこの男だけだ。

 いわく、私には小鳥が憑りついているんだとか。

 最初、宗教か霊感商法を警戒していた。が、そうではないことはすぐにわかった。

 この男は私に何も要求してこない。ただ、時折こうして私の目の前に現れ、を解決するのを手助けしてくれる。


「これ知ってる?」

 男にスマホを渡す。私が直前まで読んでいた文章に目を通し、男は小さく首を振る。

「いいえ。これは?」

「趣味でオカルトや心霊話を収集してる人が今まで集めたネタを投稿してるの。その界隈だとそこそこ有名人らしい」

「へええ。知りませんでした」

「で、その話に出てくる部屋の今の居住者が私」

「……なるほど?」

 男は困惑した顔で私にスマホを返してくる。

 内心でほくそ笑んだ。勝敗の基準は自分でもよくわからないが、なんとなく勝った気がした。


 

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