夏の日の重ね地図
瀬戸みねこ
第1話 夏暁と現在地1
窓を閉め切っていても、蝉の鳴き声が聞こえてくる昼下がりだった。
夏休みの間、部室で課題をすることを日課としていた凛太郎のもとに、幼馴染の颯が訪ねてきたのだ。
「暗号が可哀そうだろ」
颯から出た言葉に、また始まったかと凛太郎は小さく息をついた。
「暗号は、別に悲しいとか悔しいとか思ったりしないよ」
無駄だとわかっていても、ひとまず断るための言い訳をしてみる。
颯は昔から凛太郎に何かお願いをしたり、一緒にやろうと誘ったりするときに、よく「〇〇が可哀そう」と言う。大抵、「空に浮かぶ月が」とか「欠けた角砂糖が」とか、本来「可哀そう」という言葉を使わないような物に対してだ。むしろ人に向けて「可哀そう」と言っているのを聞いた覚えがない。そして、颯がこう言うときは、決まって諦めが悪いのだった。
「そうかもしれないけど、解かれないまま放っておかれたら可哀そうじゃん」
案の定、颯は引き下がろうとしない。
「暗号が?」
「そう、暗号が」
颯によれば、本校舎の玄関にある掲示板に、暗号のようなものが書かれているらしい。その暗号とやらが、解かれないままでいるのは可哀そうだから、凛太郎に解けというのだった。
「別に俺、探偵でもなんでもないから。ただの地図部の部員なんだけど」
今ふたりがいるのは、地図部の部室である。他の部員はいない。いないというのは、今たまたまいないという訳ではなく、本当に部員が凛太郎ひとりだけなのだ。本来なら部活の存続には最低でも5人が必要というルールがあるらしいが、顧問による根回しのおかげなのか、はたまた生徒の個性を尊重する校風のおかげなのか、部室まで使える破格の好待遇を受けている。
「地図部の凛太郎だから頼んでるんじゃん。その暗号っていうのが、地図に関係ありそうなんだよ」
教科書に目を落としたまま話していた凛太郎は、思わず顔を上げた。
「どんな暗号?」
食い付いてきた凛太郎に、颯はにやりと笑みを浮かべる。
「興味持ったでしょ? さすが、地図オタク」
「オタクって言うな。野球バカ」
バカと言われてるのに、颯は楽しそうに笑う。
「それで、本当に地図に関係ありそうなの?」
「暗号っぽい文の最初に『地図を広げて』って書いてあったんだ。直接、自分の目で見た方が早いし、行くだけ行ってみようよ」
「うーん……そうだね」
頷きつつも、まるで動こうとしない凛太郎に、颯が前のめりになる。
「夏休みだっていうのに、ずっと部室に引きこもってるのも、もったいないだろ」
正直、凛太郎はエアコンが効いたこの涼しい部室から出たいとは思わなかった。休みの間、わざわざこうして学校に通っているのは、家では勉強がはかどらないし、部室にある本を読むためだ。けれど、地図に関係する暗号というのであれば、見てみたい気持ちはあった。
まだ決め切れない凛太郎は、間を埋めるように颯に話題を振ってみる。
「颯こそ、夏休みなのに、こんなところで油を売ってていいの?」
「いや、ほら、俺は休養中だし」
答えながら、颯は右腕を少し上げて、その手首に巻かれている包帯を見せる。先日の試合で捻ったとは聞いていたが、治療が思ったより長引いているのだろうか。
颯は野球部の部員で、しかもエースだ。凛太郎の中の野球部のイメージに反して、颯の髪は長い。いつだったか、坊主にしないのかと聞いたことがあったか、時代遅れと颯に一蹴されてしまった。一見すると、軽い印象を受ける颯だが、「野球バカ」という揶揄がある意味真実であると言えるくらい、野球に対しては常にまっすぐ向き合っていた。
今も野球部はグラウンドで練習中のはずだ。怪我をしたとは言え、颯なら部活の練習には顔だけでも出しそうなのに、こうして積極的に休もうとしているのは何か事情があるのかもしれない。
「本当は気になってるんでしょ? どんな暗号か」
黙ったままでいる凛太郎に、颯が追い打ちをかける。
「……見に行くだけだから」
凛太郎は、ようやく快適なこの空間を出る決心をして重い腰を上げた。
凛太郎たちが通う私立文慶高校は、その広大な敷地の中にさまざまな施設がある。
掲示板のある本校舎は、部室棟の手前にあるので、そこまで歩く必要はなかったのが救いだったが、照りつけるような日差しがじりじりと肌を焼いた。
掲示板は、玄関を上がった廊下の前にある。颯が言っていた通り、大きなホワイトボードには、黒のマジックで暗号らしき文章が残されたいた。
『地図を広げて。
6分の1の採石場の下に、田んぼがひとつ。
そこで待ってる。』
ホワイトボートの前にふたりして立って、謎めいた文を見つめる。
「確かに、地図に関する暗号みたいだね」
凛太郎が納得したように言うと、颯が胸を張る。
「だろ? 『待ってる』ってことは、待ち合わせの場所を示してるのかな?」
「……『神社』だ」
凛太郎の呟きに、颯が少し遅れてそれが暗号の答えなのだと理解する。
「え、もうわかったの? ってか、なんで神社?」
「採石場の地図記号って、こんな感じなんだけど……」
言いながら、凛太郎はホワイトボードに置かれてあったマジックを手に取る。それから、石が3段に積まれているような絵を描き始めた。長方形が3つ、2つ、1つとピラミッドのように積まれ、それが斜めに傾いているような図だ。それぞれの横線は、少しはみ出している。
「同じような形が6つあるように見えるでしょ。『6分の1の採石場』だから、これをひとつ取って……」
今書いた図の横に、ブロックのひとつだけ取った形を新たに描く。2本の横線の間に、それらを繋げるように縦線を2本引いた形だ。
「これの下に、『田んぼがひとつ』だよね。田んぼの地図記号は、縦棒2本だから、それをここに足すと……」
言いながら、凛太郎は先ほど描いた図の下に、2本縦線を加える。すると、まるで鳥居のような形が出来上がった。
地図に詳しくない颯でも、それを見て納得したようだ。
「そうか、それで神社か」
「そう。だから、『神社で待ってる』って言うメッセージなんじゃないかな」
「なるほどね……さすが、地図オタク。すごい推理力だ」
感心半分、揶揄半分、といった感じで颯が言う。
「別に地図記号くらい小学校で習うじゃん」
「習うけど、ほとんど覚えてないって。田んぼの地図記号だったら、言われたらギリそうだったかもなぁって感じだけど、採石場とかパッと思いつかないって」
「まあ、それもそっか……」
自分が興味あることに、同世代の他の子たちは大して関心がないということを凛太郎は思い出す。
「ねえ、もしかして、これ凛太郎に当てたメッセージなんじゃない?」
「え、なんで?」
「だって、この暗号読めるの凛太郎くらいじゃん。わざわざ地図記号を使って暗号文を作ってるんだから……これを書いた人はきっと、凛太郎のことを待ってるんだよ。ほら、よくある体育館裏の呼び出しみたいなやつ」
「颯の方がよっぽど、すごい推理力だよ。的外れではあるけれど……」
推理力といよりは、想像力に近いかもしれない。だって、現実にはないことなのだから。
「いや、きっとそうだって。凛太郎に密かに想いを寄せる女子が、暗号を使って……」
「絶対にない」
遮るように、凛太郎は断言した。颯ならまだしも、よくある青春の1ページのようなものが自分に待ち受けてるとは、どうにも思えない。そういう場所からほど遠い場所にいることくらい、凛太郎は自分でもよくわかっていた。
「でも、もし俺が言ってることが本当で、誰かが待ってたらどうするの?」
「誰も待ってないって」
「行ってみないと、わからないじゃん」
どうしても颯は、凛太郎のことを連れ出したいらしい。けれど、これ以上、暑い日差しの下に駆り出されるのは嫌だ。凛太郎が何かいい言い訳はないかと探していると、背後に立つ人影を感じた。
「そうだ、行ってみるといい」
いきなり頭上から降ってきた低い声に、凛太郎も颯も驚いて振り返る。
「うわ、倉間先生……」
そこには、地図部の顧問である倉間が立っていた。
倉間はもっさりとした黒髪を後ろで束ね、前髪も目にかかっている。高校の教師よりは、大学の教授と言われた方がまだ納得できそうだ。教師にしては珍しく髭も生やしたままで、この学校の自由な気風というものを体現しているようだった。
倉間は長い前髪の隙間から、凛太郎と見据える。
「深見、お前夏休みの間、ずっと部室に通ってるだろう。俺は、少し心配してるんだ……」
「ちゃんと勉強もしてますよ」
地図の本ばかり読んでいるが、勉強“も”している。都合の悪い事実は隠してあるが、嘘ではない。
「俺が心配しているのは、そこじゃない。お前の夏がちゃんと夏なのか、それが問題なんだ」
「は、はぁ……」
意味を取りかねて、なんとも曖昧な返事が口から出る。
「俺たちの世代の夏っていうのはな、1年で一番眩しい季節だったんだ。こうキラキラと輝いていて、それなのにどこかこう儚さがあるというか。思い出したときに、こう胸が締めつけられるような……とにかく、それが夏だ。それが今はどうだ。温暖化のせいでさらに暑く、さらに長くなった夏は、お前たち若者にとって、ただただ早く過ぎ去って欲しいものになっているんじゃないか?」
熱弁されたせいで、さらに辺りを包む気温が上がった気がした。
「まあ、そうですね……」
面倒くさい雰囲気を感じ取り、凛太郎は適当に返事をする。
「だから、神社に行け」
倉間は、ホワイトボードの暗号を指差しながら言った。
「なんでそうなるんですか」
「どこでもいいが、とりあえず部室以外の場所に行け。これは、地図部の夏の課題だ。ついでに、校長に提出する」
「そんな……」
「なにせ、部員がひとりしかいないんだ。ちゃんと部として存続する意味を示さないと、来年は部室棟から消え去っているかもしれいない。廃部になりたくなければ、レポートのひとつくらい書くんだな」
「……わかりました」
廃部を引き合いに出されてしまっては、頷かないわけにいかない。すると、隣でやり取りを静観していた颯がさっと名乗り出た。
「安心してください。俺が責任を持って、付き添いますから」
「ああ。頼んだぞ、辻浦」
それから、倉間は職員室へ戻っていった。
「本当に行くの?」
「行くよ」
渋る凛太郎に、颯が当たり前というように返す。
「とりあえず、荷物を取りに行こうか」
部室までの道を引き返しながら、凛太郎はハッとした。
「まさかあの暗号、倉間先生が書いたんじゃ……俺を部室の外へ駆り出すために」
やや遠回しではあるけれど、あの先生ならやりかねないと凛太郎は考えた。
「さすがに、違うんじゃない? 掲示板の文字、女子が書いたっぽかったし」
「そうだね。先生の文字、もっと雑な感じだし……」
「やっぱり、女子が凛太郎宛てに書いたんだよ。どんな子が書いたんだろうね」
ひとつだけ思い浮かぶ顔があったが、凛太郎は慌てて振り払う。彼女がこの学校の掲示板に、メッセージを残すことなんてあり得ないのだから。
「それはないって……もしかしたら倉間先生に向けたものかも。俺じゃなくても、先生ならあの暗号を読めるだろうし」
「あー、確かに読めそうだけど……」
ふたりして同時に、教師にしてはむさくるしい髪の倉間を思い出し、一瞬だけ沈黙が落ちる。
「……いや、ないない」
思わず呟いた言葉がふたつ、ぴったりと重なった。
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