太陽の音を忘れない

錦魚葉椿

第1話

 夢を見た。

 マンションの廊下を歩いていたら、縦格子の向こうの歩道から手を振る人が見えた。もう7,8年は会っていない懐かしい顔だった。

 なにか喋っているけど、遠くて聞こえない。

 笑うといつもの右の八重歯だけがひょっこりと覗いている。

 彼女は何か伝えたいことがあったようだが、諦めたみたいで、両腕を上げて大きく手を振った。

 彼女がいる歩道は夏の日差しを受けて眩く、色とりどりの花が咲いている。

 青い海に一番似合うから真っ赤なハイビスカスが好きだと言っていたことを思い出す。


 手を振る向こうの空は懐かしい沖縄のような紺碧の青。

 僕たちは青空とコバルトブルーの海が好きで、20代を一緒に過ごした。

 彼女のくちびるが“またね”と動いて、白い車に乗って去っていった。

 鮮やかで眩しい夢だった。



 しばらくして、彼女のSNSを見た。

 別れた彼女の動向を覗き見るような行為が嫌で、一度も試みたことがなかったけれど。

 頻繁に更新していた時期があって、そのうちまばらになって、最終更新日は5年以上前だった。荒れた空き家と同じ匂いがして、やっぱり覗き見たことを後悔した。


 海が好きで、海辺のシュノーケリングの店で働きながら、将来の事なんか何も考えずに一日中海に潜って暮らした。

 空も海もなにもかもが輝いていた。

 僕たちは極めて親しかったが、何かを確かに約束した間柄ではなかった。

 先に故郷に帰ったのは自分だった。

 同窓会か何かで戻った故郷で、友達に呼ばれてそこで働き始めそのまま戻らなかった。緩くつながっている、連絡はいつでも取れると思っていて。



 その夢を見てから数か月後、ふとした折に彼女の訃報を聞いた。

 僕たちはいつの間にか数年会わない間に相手が死んでいるかもしれない年になっていることに驚き、へこんだ。

 それは彼女の夢を見た時より、ずっと前の事だったようだ。

 病気で亡くなったらしいということしかわからなかった。それ以上のことを深く知っている知り合いもいなくて、たどることはできなかった。僕たちをつないでいたものは思っていたよりもずっと淡く、いつのまにかほろほろとほどけていたようだ。

 こんなに若いから、病気で死ぬ確率はまだ随分と低いはずだ。

 ネット空間に生きていた痕跡を永遠に漂わせているのは彼女の本意ではないだろうと思ったが、彼女にはパスワードを伝えておくような相手がいなかったのだろうとも思った。彼女は独りで生きていく覚悟を持った人だったから。


 連絡をくれたら、会いに行っただろうと思う。

 会いに行ったとしても気まずい時間だったかもしれない。

 ハグをして一緒に泣くことしかできなかったとしても会いたかったと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

太陽の音を忘れない 錦魚葉椿 @BEL13542

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説