第一章 始まりのクロスオーバー

第7話 +++++

 スマホのアラームが、けたたましく朝を告げる。


 革製のカバーをめくり、時計のマークを軽くタップし黙らせた。あと五分で再び鳴り響くことがわかっていても、その五分がやめられない。具体的には、鳴るとうるさいので四分五十五秒で止めるのがポイントだ。

 起きて、まず洗面へ行く。手を洗って歯磨きして顔を洗って髪を梳いて、パジャマのままでダイニングへ。制服に着替えるのは朝食が終わってからである。染みでもついたら目も当てられない。おはよう、とあいさつをしながら、ちゃんと朝ご飯とお弁当が並んでいるのを感謝しつつ、いただきます。朝はご飯で決まり。パンにすると二時間目辺りからおなかが鳴りそうになって困る……。半分くらい朝食を詰め込んだところで、ようやく目が覚めてくる。そこに、民放を流しているテレビと、普段は見慣れぬ父親の姿があった。


「あれ? お父さん、まだいるの?」


 一家の大黒柱に大した言い草である。

 コーヒーを片手に、ゆったりとタブレットの表面をスワイプさせていた結名ゆうなの父は、軽いショックを受けて肩を落とした。普段はスーツ姿だが、今朝は黒のTシャツにスリムジーンズという、中年オヤジには程遠いスタイルである。頭髪はハゲそうな気配のない立派なロマンスグレーで、いつも保護者参観が楽しみな結名だった。趣味が母と一緒にテニスという人で、帰宅が早い時はテニスデートに勤しんでいる。今はまだビール腹とは縁がないところもポイントである。


「今頃気づいたのか……。昨日の休日出勤の振り替えなんだよ。今日はお母さんとテニスに行くんだ」


 今日でしょ。


 今朝のサラダは、手間がかかるのに父の好物のささみ入りサラダである。その一品だけでも、母のご機嫌具合が知れた。コーンクリームスープまで出てきて驚く。


「テニスのあとにはランチして、映画を見て……」

「夜は、結名も一緒に食べに行かないか?」


 一日べったりデートコースのようだ。朝からきっちりお化粧をしているフルメイクの母親に、年頃の娘は悟った。


 馬に蹴られる。


「ううん、伯母さんちに行くからいい。

 あ、こうくんからSSシューティングスター来てるんだけど、返事できてないんだよね。わたしもう行くから、連絡あったら帰ってからねって言っといて」


 SS《シューティングスター》とは、基本使用料無料のSNSソーシャルネットワーキングサービスのひとつである。IDとして星の名前をランダムに割り振られるという点が売りのひとつで、流れ星の形で相手に呼び掛け、相手がメッセージを見ると、その下に小さな人影が佇むの仕様だ。ID間の通話料も無料で、機能的にも星めいたものが付属している。なかなかグラフィックが可愛らしいので、最近は学生の間だけではなく、広く流行している。


 結名は昨夜、馴れないVRMMO初体験のあと、ご飯を食べたりお風呂に入ったりと日常生活に戻っていた。そして、以前から続けているMMOのほうでちょこっとだけ日課をして幻界に戻るつもりだったのだが、ログイン後、即、知人からボス攻略に呼ばれてしまったのである。結果、従兄からのメッセージに気付いたのも夜遅く、就寝時間になっていたので返事を先送りにしてしまった。「今、電話できる?」って訊かれても、午後十時には不可能である。仕方がない。

 そして、結名が連絡を後回しにする理由は、通学する高校のルールにもあった。皇海学園では、携帯電話を含む通信端末の持ち込みが認められているものの、学内に入るとすべての通信を追跡トレースされるという難点があった。もともと自由な校風なのだが、管理体制は明確であり、何かのトラブルが起こった際、円滑に解決しようとする姿勢を有しているのである。もともと授業中に誤って鳴り響けば妨げになる代物だ。よって、今のところ結名は「学校では携帯電話を使わない」と決めている。

 夕方、伯母の家に行くのはちょうどよかった。ついでに、宿題と幻界ヴェルト・ラーイのスキル振りも見てもらうことにする。レポート課題は仕上がっているものの、自己満足になっていそうで少々自信がない。幻界については……きっと喜んでくれるに違いない。

 どちらかと言えば後者がメインになりそうで、結名の顔がふにゃりと崩れた。


 レベルがすごく上がったことと、とても素敵なひとたちと知り合ったことを自慢しよう。


「姉さんには頼んでおくけど、皓君はどうかしら? 教習所かもしれないわよ」

「えー、それはないと思う。大学終わったらすぐ帰宅してるはずだもん」

「何々? 結名はまた皓星こうせい君と遊んでるのか? 夜更かししすぎないようにな」


 高校合格のお祝いの品を、発売されたばかりのVRユニットと新作ゲームに決めた娘である。ゲーマーな性分ごと、結名の父は娘を広い心で受け容れていた。結名と同じ年頃に、夜を徹してテレビの中のドラゴンを倒した記憶があるので、過去の自分を棚上げできない。そのうえ、娘のほうがけじめをつけて遊んでいるので、口出しできないという面もあった。

 甘い声音からもわかるように、娘に嫌われては生きていけない父である。可愛く「はぁい」と返事をしてくれるうちが花。汚いものを見るような目で、いつ「お父さんあっち行って」と言われるか、内心戦々恐々としている父恭隆やすたかだった。

 中年オヤジだめ、絶対。


 父親の内心などはさておき。

 食事を終えた結名は、そそくさと自室に戻り制服に着替え、今日も元気よく家を出るのだった。






 自転車で十分とかからない通学距離のおかげで、結名は基本的に満員電車にも満員バスにも縁がない。

 ただ、自転車通学も一概に楽とは言いにくい面もある。たまにスマホをいぢりながら自転車に乗る危険人物と出くわすのは序の口だ。結名は運よくまだ関わっていないが、交差点で停まっていると、お尻を触ろうとする類の痴漢までいるらしい。これは、自転車通学者への講習で注意を受けた。この講習は毎年春に出席を義務付けられている。また、加害事故を起こせば許可取り消しということもあって、結名は日々細心の注意を払っていた。


 自転車通学者専用入口から乗り入れ、機械式の駐輪場に停めると、鍵要らずでそのまま収納される。一連の流れは全自動で、取り出す時には学生証であるIDカードを端末に接触タッチさせるだけという代物だ。

 このように、結名の通う皇海学園高等部は、駐輪場だけではなく、校内の随所に最新の設備が整えられている。そして教育課程も独特で制服の種類も多岐に渡る……にも関わらず、私学としては経済的負担の軽い学校ということが評判を呼び、今は学力と運を問う難関校に位置付けられていた。幼稚園から大学院までのエスカレーター式だが、各入学時には限定的に追加募集を行う。結名もこれまで幼稚園・初等部・中等部と受験を繰り返してきたのだが、何分運が絡む受験システムなので桜が散りまくり、今年の春、念願叶ってようやく桜が咲いたところである。

 高等部の広大な敷地と、大学か通信制高校にも似た教育システムに四苦八苦しつつも、楽しい日々が始まっていた。

 何と言っても中学時代の塾三昧からお別れできたことが大きい。結名にとってはかなりの時間のゆとりを生み、今はほぼ毎日、宿題さえ終われば趣味のゲームに勤しめるというしあわせを満喫できている。


 ホームルームは一年二組、朝礼と終礼以外クラスとしての認識は薄くなりそうな教育システムで、シラバスに沿って希望する授業を登録し、該当の授業のある教室まで移動して受けるというものだ。

 座席指定となっており、自分の座席について端末に学生証を接触タッチさせると、教卓の出席ボードの該当座席が点灯し、出席の記録が残る。ただ座っているだけではどの授業も欠席扱いになる恐怖のシステムである。

 今日も確実に出席しなければ、と考えながら結名が教室に入るとすぐ、目の前にチューブが差し出された。

 それはまるで、道端で配られるティッシュのようだった。


「サンプルでーす。よろしければどうぞ!」


 今どきのティッシュ配りとは程遠く、彼は満面の笑みで結名の行く先を遮っている。


 見覚えはある。

 入試時の学年主席、入学式の時は学年総代として挨拶をした男子生徒だ。


 受け取っていいものかどうかはわからないまま、その手元のチューブを見る。有名な化粧品会社のロゴと、皇海学園の学園章が手を繋ぎ、何とかローションという英語とSPFとPAの飾り文字が輝いている下に、不似合いな試供品のシールが貼りつけられていた。


 ――これ、今朝CMでやってなかったっけ?


「いやー、実は母がこれ系の仕事しててさ。家に段ボールで今積み上がってて。

 よかったらおひとつどーぞ。売られてるやつと同じサイズだから、結構お得だよ?

 あ、この時期から日焼けは防止しなくちゃだめだよ! 過度な紫外線はお肌の敵だからね!」


 日焼け止めについて力説する高校生男子は、珍しいかもしれない。その勢いに腰が引け、つい視線を教室内へとさまよわせる。ホームルームでは、既に男女問わずチューブを手にしていた。

 その様子に少し肩の力が抜ける。

 そして、結名もありがたく頂戴することにした。その間も「石鹸で洗うだけで落ちるよ!」とか「今の時期からこまめに塗りなおすのがいいよ!」とか、アドバイスを連発している。


「ありがとう」

「いえいえ、こちらこそっ。あ、よかったら使用感とか、今度聞かせてくれると超助かる。母さん喜ぶんだー」


 母思いの商売っ気抜きな発言に、思わず顔がほころぶ。

 うん、と結名はひとつ頷いておいた。

 教室の外から、「おがわくーん」と呼ぶ声が響く。彼は返事をしながら、その場を離れていった。背中のリュックの口からは、まだまだ同じチューブが覗いている。あれを全部配布するには、とても始業までの時間では足りないだろうと考えて、結名は「愛ってすごい」と認識を新たにするのだった。



「結名ちゃん、おはよー」

「おはよう、詩織ちゃん。みんなもらってるんだね」


 席が隣同士であり、比較的同じ授業を選択している縁で仲良くしている友人は、結名の指摘に大きく頷いた。その机にも、結名がもらったばかりのチューブと同じものが転がっている。さっそく塗り直していたようで、詩織は頬を両手で撫で回していた。


「うんうん。だってタダだもん。ラッキーだよね! コレ、普通のと違ってテカらないし、使ってすぐにサラサラになるんだよっ。新製品だからってこの前買っちゃったんだけど、今日もらえるなら我慢すればよかったかなー」


 まあ、日焼け止めは毎日使うからいいんだけど! コレ学校用にしちゃう。


 堅実な女子高生の発言に、結名も少し使ってみようかなと心を動かされた。

 鞄を机のフックに引っ掛け、椅子に座る。そして、机の上に置いたままのチューブを手に取った。ほんの少しだけ、中身を手の甲に出す。


「あ、ほんと。サラサラになるね」

「でしょー」


 まるで自分が最初に勧めたかの如く、誇らしげに詩織はドヤ顔をしている。とりあえず手の甲に塗りこめてみたが、確かに、これはイイ。


「顔はすぐに塗らないほうがいいよ。手で反応見てからね。赤くなったりしないなら、使うといいかも!」

「あ、うん」


 詩織を真似ようか迷っていた矢先のアドバイスに、結名は素直にチューブのキャップをしめた。


「でもコレ、先生に怒られないかなあ?」


 学内での試供品サンプル配布。

 営業アルバイトの人なら、完全にアウトである。


 物欲的に受け取ってしまったが、自分まで被害を受けたりしないだろうか……注意とか。


「って思うじゃない? 私もそれ小川くん本人に訊いたんだけど、先に職員室行って配って、菊池先生キクセンに教室でも配っていいかどうか訊いたらしいわ。で、『営業的配布はダメだけど、オトモダチにプレゼントを渡す分には教育的指導の対象外』って言われたんだってー。さすが総代、押さえてるよね」


 職員室での配布って先生へのプレゼントになっちゃう気がするけど、という内心のツッコミは、指導回避の前には消え去った。みんなしあわせ、それがいい。


皇海学園うちの薬学部と医学部も絡んで作ったらしいから、それもあるのかも。ほら、学園章入ってるでしょ?」

「あ、それCMで言ってた……」

「そうそう、受け売りー。裏にも書いてあるけどねっ」


 突きつけられたチューブの裏側には、確かに小さな文字で細々とした説明書きが載っている。結名も手元のチューブをひっくり返して、文字を目で追い始める……と、詩織の危機的注意が飛んだ。


「あ、結名ちゃん。まだピッ!してないよ。教卓の名前点いてない」

「忘れてたっ。ありがとう!」


 学生証を取り出し、端末に接触タッチする。

 そして今日も無事一つ目の任務を完了したと、結名は胸を撫で下ろしたのだった。

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