幕間その1〜(阪神タイガースの)優勝を知らない子供たち〜2010年・中編

 それから、季節は、ふた月ほど進んで、夏休み前の終業式――――――。


 席が近いこともあり、授業のグループ活動で、めぐみと会話をする機会の多くなっていた虎太郎は、夏休みが始まる高揚感とともに、隣の席の女子としばらく会えなくなることに、一抹の寂しさを感じていた。


 自分の中にそんな感情が湧いてくる理由がわからないまま、一学期最後の先生のあいさつが終わり、虎太郎が帰宅の準備をしていると、めぐみが話し掛けてきた。


「中野虎太郎、また、二学期にな! 夏休みが終わる頃には、阪神が1位になってたらイイな!」


 彼女から声を掛けられたことに嬉しさを覚えながら、少年は満面の笑みで返答する。

 

「うん! 今年は、打線がいっぱい点を取ってくれるし、夏から強くなると思うし期待してる」


 虎太郎の期待が高まるのも無理はなく、この年、阪神タイガースは、7月に入って調子を上げ、首位の読売ジャイアンツを猛追。オールスター・ブレイクに入る前のこの日は、0.5ゲーム差の2位につけ、十分にリーグ優勝を狙える位置にいた。


「そっか! 二学期になったら、また、色々と話し聞かせてな」


「うん、それじゃ、二学期に!」

 

 少年が返答すると、めぐみは、この日の太陽のように明るい笑顔でうなずき、女子の友だちと連れだって教室を出ていく。


(二学期も、また桟原さじきはらと近くの席になれたらイイな……そのころ、阪神が巨人を抜いて、首位に立ってたら……)


 虎太郎は、そんなことを思いながら、男子の友だちと一緒に家に帰ることにした。

 リーグを連覇している強力打線のジャイアンツを倒すべき相手だと認識していた少年は、安定した投手力を武器にしたチームが、タイガースの背後から迫っていることを意識することはなかった。


 ※


 夏休みの序盤が終わり、8月に入ると、阪神タイガースは甲子園球場を離れ、毎年恒例の『死のロード』に出る。

 そのため、「甲子園でタイガース戦を観戦する」という虎太郎の願いは叶わなかったが、かわりに、祖父が京セラドームで行われるタイガースとカープのナイト・ゲームの試合観戦に連れて行ってくれた。


 8月25日。


 夏休みも終盤になり、宿題をすべて終わらせておくことを条件に、母から野球観戦の許可をもらった虎太郎は、祖父とともに、京セラドーム大阪のライト側外野席に腰を下ろす。


 この日、通常のユニフォームとは異なり、1950年代の復刻版にあたる「黒と見紛みまがうような濃紺」のユニフォームに身を包んだタイガースは、中盤まで苦戦を強いられていた。

 序盤から投手陣が打ち込まれてリードを許すという、このシーズンの典型的な試合展開だ。


(今年は、ピッチャーが良くないからなぁ……今日は、勝てないのか……)


 7回裏の攻撃を前に、虎太郎は弱気になっていたが、しかし――――――。

 

 かつて、『ダイナマイト打線』と恐れられた時代のユニフォームに身を包んだ猛虎打線が、ここから、カープ投手陣に牙をむく。

 3点をリードされて迎えた、この回、相手リリーフ陣を攻め立て、新井貴浩あらいたかひろの押し出し四球で2点差に迫ったあと、金本知憲かねもとともあきが打席に入った。


 この年、金本はケガの影響でスターティング・メンバーを外れるなど、守備面でも打撃面でも不振に陥っていた。

 

 だが、ランナー満塁の場面で、『鉄人』と称された左打者は、逆転ホームランを放つ。

 虎太郎が、初めて甲子園でタイガース戦を観戦したあの日のサヨナラヒットのように、低い弾道のライナーがライトスタンドに突き刺さった。


「また、金本が打ってくれた!」


 ド派手な逆転劇で総立ちになるスタンドから喜びを噛み締めて声援を送りながら、彼は、


(この試合のことは、二学期が始まったら話さないと……)


と、隣の席の女子のことを思い浮かべていた。


 そして、夏休みが終わる頃、阪神タイガースは、読売ジャイアンツとの争いの中で、首位に立っていた。


 ※


 一週間後、二学期が始まると虎太郎のクラスでは、すぐに席替えが行われた。


(二学期も、また、近くの席になれたらイイな)


 という彼の淡い願いも虚しく、くじ引きによって決まった虎太郎の席は、桟原さじきはらめぐみの席と、教室内のほぼ対角線上の位置に離れてしまった。

 クラスメートの手前、表情にこそ出さなかったものの、少年が、二学期の席替えのクジ運のなさを嘆きながら帰り支度をしていると、


「中野虎太郎、話したいことがあるんやけど、ちょっとイイかな?」


と、声を掛けてくるクラスメートがいた。

 声の主の姿を確認し、曇りがちだった虎太郎の表情は、パッと明るくなる。


「ん? どうしたん桟原さじきはら?」


 席が離れても、めぐみが二学期と変わらずに話しかけてくれたことに喜びを感じながら返答する少年に比べ、声を掛けてきた少女の表情からは、一学期まで見られた太陽のような明るさが消えていた。

 どこか陰を感じさせるようなクラスメートの表情を不思議に想いつつ、虎太郎は続けて問いかける。


「なにかあった?」


「うん……ちょっと聞きたいことがあって……」


 そう言いながら、彼女は、キョロキョロと辺りを見渡し、まだ教室に残っている数名のクラスメートを気にしているようだ。

 そのようすを察した少年は、


「わかった……僕は、帰るの遅くなってもイイから……」


と、うなずく。

 数分もすると、クラスメートの姿はなくなり、5年1組の教室に残っているのは、虎太郎とめぐみの二人だけになった。


 教室に自分たちしか居ないことを確認した虎太郎は、めぐみにたずねる。


桟原さじきはらが聞きたいことって、どんなこと?」


 彼としては、一週間前に観戦した京セラドームの一戦のことを語りたかったのだが……。

 どうやら、そうした話しが求められている訳ではないらしいことは、雰囲気から察することができた。


 少年の問いに、少女は、「こんなこと、急に聞いてゴメンな……」と、前置きをしたあと、慎重な口ぶりで語りだす。


「なぁ、中野虎太郎は、四年のときに転校してきたよな? 学校を転校するのって、どんな感じ? あと、自分の名字が変わるのって、どんな感じ?」


 桟原さじきはらめぐみの問いかけの内容には、唐突な印象を受けたが……。

 そのの経験者として、少年には、少女が気にしていることと、その原因が、にあるかはすぐに理解することができた。


 そのため、虎太郎は、なるべく言葉を選びながら、返答する。 

 

「そうやなぁ……転校する前は、不安もあったけど……僕の場合は、前に住んでたと家とは離れてても、いま住んでるのは、何回も遊びに来てたおじいちゃんの家の近所やったし……学校のみんなも、すぐに仲良くしてくれたから、すごくラッキーやった」


 少年は、両親の離婚をきっかけに転校してきた頃のことを思い出しながら、少女に語った。

 さらに続けて、


「あと、名字が変わるのは……前の名前が渡真利とまりで、テストの時とか面倒やったから……そこは、中野に変わって、良かったかな? 前の名字は、『渡る』に、『真弓監督の真』に、『利用するの利』って漢字を書くねん……なっ、結構、大変やろう?」


と、少し冗談めかすような口調で、付け加える。

 虎太郎の言葉を真剣な面持ちで聞いていた少女は、最後の彼の言葉に、フッと表情をゆるめた。

 

「そっか……悪いことばっかりでもないんやね……それを聞いて、少し気持ちが楽になったわ……ありがとう、中野虎太郎」


 かすかに明るさの戻っためぐみの笑顔を見て、虎太郎は少しだけホッとして、彼女を励ますように、返答した。


「うん……全部が悪いことばかりじゃないと思うよ……」


 そして、自分でも無意識のまま、最後にこう付け加えていた。


「それに……僕の場合は、5年になってから、桟原さじきはらと同じクラスになれたしな……」


 虎太郎の言葉に、めぐみは、一瞬キョトンとした表情を浮かべる。

 目の前のクラスメートの表情の変化に気づいた少年は、「あっ……」と声を上げ、少女も彼の変化に気づいたようだ。


「さ、最後のは、聞かなかったことにしといて……」


 顔を紅潮させ、自身の発した言葉を懸命に誤魔化そうとする虎太郎だが、めぐみは、先ほどまでの陰のある表情を一変させ、


「ナニナニ? どうしたん? 中野虎太郎は、なんで顔が赤くなってるの? そうやな〜残暑も厳しいしな〜。それとも、なにか他に顔が赤くなる理由があるんかな〜?」


と、ニマニマと笑みをたたえている。


「そ、そんなんじゃないって……」


 なにが、「そんなん」じゃないのかは彼自身にもわかっていなかったが、必死に取り繕おうとする虎太郎の姿をみながら、めぐみは、クスクスと笑い、こう言った。


「そっか……ウチのことをそんな風に思ってくれてるヒトもおるんやな……ホンマにありがとう、中野虎太郎。おかげで、元気が出てきたわ!」


 その表情には、夏の名残を思わせる9月の太陽のような明るさが戻っていた。

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