第36話 あなただった理由
「紅、月……?」
皇帝が呼ぶのは、朗輝の姓名のはずだ。では朗輝は、生まれた時に授けられた
「あとで説明する」
目を
「陛下。私とこの者、蘇明との婚約に、ご許可を」
「ほう……ということは、高家の
「はい。――といっても、私ではなく、紅月どのが、ですが」
帳簿を、と、朗輝に促され、紅月は慌てて
「これは?」
「高家の財務管理の帳面ですが、紅月どのが言うには、おかしなところがあると……ぜひ、刑部にしっかりと調べさせてください」
「わかった。そうしよう」
皇帝は方卓に帳簿を置いた。相手の返事に満足げに笑んだ朗輝は、紅月のところまで戻ってくると、再びこちらの手を取る。
「陛下」
目の前の皇帝に、真っ直ぐに呼びかけた。
「
「まったく、そなたは……こうと決めたら、頑として譲らんな。たしかに、蘇家への疑いが晴れ、高家の不正の証を掴んだあかつきには、そなたの望むとおり婚姻を認めようとは言ったがな」
皇帝はそこで、やや呆れたように
「その
続けて、ふう、と、長嘆息を漏らした。
それに対して朗輝は肩を竦め、目を
「だって、遅かれ早かれこの人と結婚するのに、待つ必要などないでしょう? ――いえ、もう、待てない」
皇帝はしばらく黙った後に、再び、長い息を吐いた。
「――紅月」
そう、真っ直ぐに朗輝を呼ぶ。
朗輝は顔を上げた。
「皇帝の名のもとに、皇太孫・李紅月と、礼部侍郎の長女・蘇明の婚姻を認める。――蘇家には、数日内に正式な勅使を遣わそう」
「ありがとうございます」
朗輝は、いかにも嬉しそうに目を細め、口許になんとも満たされた微笑を湛えて答えていた。
「蘇明」
次に、ふいに皇帝が呼んだのは紅月の姓名だ。紅月ははっとして、はい、と、返事をすると、頭を下げて丁寧な立礼の恰好を取った。
「此度そなたは、皇太孫・李紅月を助け、見事な働きをしたようだ。――これからも、皇太孫を、傍でよく支えるように」
そう言われる。
「も、勿体ないお言葉に……感謝、いたします」
そうは返答しつつも、だが、紅月は戸惑っていた。いまのは皇帝から直々に賜った婚姻を命ずる言葉である。蘇家は、紅月は、それに対して否やを言える立場ではなかった。
けれども、と、ちらりと隣の朗輝を窺った――……ほんとうに、自分で、いいのだろうか。
「阿月……蘇明は戸惑っているようだが? ほんとうに大丈夫なのか?」
紅月の様子に、皇帝はなにを思ったか、からかうような、あるいは苦笑するような調子で、孫皇子に声をかけた。
「平気です。
朗輝が
そんな朗輝が、ちら、と、紅月を見る。
「陛下の許可も得たし……ちゃんと口説き落とされてもらうんだからね!」
なんだかいっそ挑むような熱い視線で見詰められ、紅月はたじろいだ。朗輝の腕が伸びてきて、紅月の手を取る。
「もうすこし付き合って」
そのままこちらの手を引いて、内殿を後にした。
*
突然の皇帝との謁見のあと、
「――母が僕を生んだのは、満月の夜だった。でも、ちょうど僕が生まれ落ちようとそのとき、月が
池の中央の浮島にある
「不吉な子、皇家の凶兆……すこしでも凶運を払うためにと、僕は敢えて、紅月と名づけられた。で。幼い頃は、ずっと、自分は呪われた存在なのだと思ってたよ。不吉なる〈紅月〉、
そう言って朗輝は紅月を見ると、
「ここ、だったね。あの日、十六歳のあなたは、ここからひとりで月を見上げてた。――思い出してくれないかなと思って、賞菊に招いたとき、わざとここへ連れてきたんだけど」
ぜんぜんだったな、当てが外れた、と、朗輝はくすくすと笑う。笑われたほうの紅月は、頬を染めて恥じ入った。
たぶん覚えていないわけではなかったのだが、月蝕の予言にまつわる一連は、紅月にとっては辛い思い出だった。だからだろうか、記憶の奥底に封じ込めてしまっていたのかもしれない。なによりも、あの幼い少年が朗輝だったなどと、思いもよらなかったのだ。
ここは、九年前、まだ幼い朗輝と、成人したばかりだった紅月とが、初めて
そのときそうしていたように、月を見上げる。
月蝕は、まだ途中だ。もう随分と月は細く
「僕はね、紅月どの。あの日あなたが、月蝕は不吉でもなんでもないって言ってくれて、それで、変わることができたんだ。あなたの言う通り、目の前で月蝕が起きはじめたとき……世界が、がらりと変わった気がした。欠けていく月が、
「わ、たしは……そんなつもりでは」
そのときの紅月は、朗輝が――目の前にいる少年が――どんな境遇を背負っているかなど、なにも知らなかった。だからだた、何気なく言葉を発しただけにすぎない。
その頃の自分はまだ成人してすぐで、世間を知らないぶん、世人の視線を恐れることもなかった。まだ真っ直ぐに、算術好きを表に出せていた。それだけのことだった。
「うん、そうなのかもね。――それでも、あなたのあの言葉がなかったら、きっと僕は、いまでも
それは、いつかの紅月の問いへの、ようやく明かされた答えだった。
「あなたは、僕の運命のひとだ。だから僕は、あなたを選んだ」
朗輝はそう言って、紅月のほうへと手を伸ばす。あたたかいてのひらが、そ、と、頬に添えられた。
まだ紅月よりもわずかに背の低い朗輝が、やや上目に、こちらを見詰める。
「あの日からずっと、僕はあなたに焦がれ続けている。あなただけに。ほんとはさ、成人するのと同時にでも、求婚したかったんだ。――お祖父さま……陛下から正式な許可をもらうために、ひと仕事させられる羽目になったけど」
そもそも皇帝は、
かつて高家と蘇家とか昵懇であったことは周知のことで、断交が噂されているとはいえ、たしかではない。蘇家も不正に関わるようなら結婚を認めるわけにはいかない、そこがすっかりきれいになれば婚姻を認めよう、と、どうやら皇帝は、朗輝にそんな条件を出していたということだった。
「我慢できないから、せめて正式な婚約でなくても、お見合いだけはゆるしてって、ねだったんだけどね。陛下は初孫に甘いからさ」
朗輝は屈託なく笑った。
そして再び、真摯な顔つきになる。
「紅月どの。どうか、僕と結婚してください……僕の、たったひとりの、運命のひと」
黒い眸に真っ直ぐに見据えられて、紅月はたじろいでしまう。鼓動が早く、顔が熱い。朗輝はこちらの頬に手を添えているから、きっと、紅月のそんな様子に気づいているに違いなかった。
恥ずかしくて、つい、目を伏せてしまう。
「わ、たし……算術好きの、変わり者と思われて、います」
「それがなに? 僕たちの結婚の障害になること? 現に今回、役に立ちこそすれ、何の問題も生んでないよ」
「不吉な、紅月だ、と……」
「そんなこと言ったら、僕のほうが不吉な紅月だよ。皇統に生まれてるから、余計に重い意味を持つ。でもさ、考えてみれば、ふたつの凶が重なればいっそ吉に転じるんじゃない? ああ、それに、そもそも月蝕は単なる自然現象で、不吉でもなんでもないんだよね? だから、そこも、だいじょうぶ。気にしなくていいよ」
「……年上の、
「あなたが結婚しないでいてくれて、よかった。僕の成人を、待っててくれてたみたい。――まだ何かある?」
朗輝は小首を傾げた。
まるで外堀を埋めるかのように、紅月の挙げた不安要素をひとつひとつ潰されてしまっては、もう、黙るしかない。
「……殿、下」
「ん? なに?」
「わたしで、いいの……ですか? ほんとうに?」
最後に――実に往生際悪く――紅月はおずおずと問うた。
朗輝が、ふう、と、息を吐く。
「高府でも言ったよね。あなたがいい。あなたでなきゃ、厭だ。ずっと、ずっと、幼い僕にとってのあなたは、憧れの人だった。手の届かない、夜空のうつくしい月のような。――でも、いまはちがう。僕はもう、あなたに手を伸ばし、あなたにふれることができるようになったから」
ねえ、と、朗輝は紅月に顔を寄せ、間近からこちらを覗き込む。いつのまにか、両のてのひらが紅月の頬を包み込んでいた。
「結婚しよう。――
もう、吐息が交ざり合う距離だ。
鼓動がうるさい。顔が熱い。きっと目だって熱に潤んでいるし、耳殻まで真っ赤なのに違いなかった。
はずかしい――……けれども、うれしい。しあわせだ。
「…………は、い……殿下」
ついに紅月はちいさく頷いた。
その瞬間、朗輝はわずかに伸び上がって、紅月にくちびるを寄せる。
「うれしい」
相手はすぅっと目を細め、至近距離でそう囁いた。紅月がつられるように瞼を伏せると、くちびるには、朗輝のくちびるがやさしくふれた。
そのとき、天空にはまさに欠け切った紅い月が、ふたりを見守るかのように浮かんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます