第35話 深夜の謁見

 騒ぎの隙をつくようにして無事にふたりで高府こうふを抜け出し、朗輝ろうき紅月こうげつを前に乗せて、馬を駆っている。


「高家の祝宴の日が、あなたが言ってた蝕の日と重なるって気がついて。それで最初は、月蝕で皆が房間へやに籠って人気ひとけがなくなってる間に、こっそり、高家のくらとか諸々を探ろうかなと思ってたんだ。それで、気乗りしない宴席にも、出ることにしたんだけど」


 皇都・盈祥えいしょうの中央を南北に貫く大通りを、朗輝は一路、皇宮を目指して進んでいるのだと知れた。


 大通りには人気ひとけはない。


 そも、夜も深まって、すでに寝床とこについている者も多かろうが、天の月がゆっくりと欠けていっている最中にわざわざ外へ出てくる人間など、しょう国にはおよそいないのだ。


 だが、誰もが恐れる蝕の空の下を、朗輝はまるで気にする素振りもなく進んでいた。


 秋の冷たい夜風が吹く。それでも、背中に朗輝のぬくもりを感じる分、寒いとは思わなかった。


 誰もいない路をふたりで進んでいると、なんだか世界にふたりぼっちになっているかのようだ。それなのに、怖くも、さみしくもない、と、紅月はちらりと背中の朗輝を窺い見た。


 気付いた朗輝もこちらを見て、だから視線が間近で絡まり合って、それがすこしだけ気恥ずかしくて、紅月はすぐに相手から顔を背けた。


 やがて、皇都とまちとを分かつ郭壁かくへきまでやってくる。しかし、この刻限だ。しかも月蝕である。郭壁の南門は、きっちりと閉ざされていた。


 その前に、門衛の姿が見える。誰もが室内に籠る蝕の最中だったが、さすがに、門を衛る士卒たちは、職務を投げて隠れるわけにもいかないらしい。それでも欠けかけの月へはなるたけ視線をやらぬようにうつむいて、その場に立ったいた。


 そんな門卒に、朗輝はたもとから取り出した佩玉はいぎょくを示して見せる。皇太孫の身分を示すものだ。


「これは、太孫殿下……どうぞお通りください」


「ありがと」


 本来ならば、こんな夜中に皇宮との行き来など許されはしない。だが、直系皇族である朗輝の行く手をはばめる人間など、この世には限られていた。


 紅月たちは、何の障害もなく、門を抜けることができる。


 しかし逆にいえば、臣下たる高家は――いくら名門の家柄とはいえ――深夜に郭壁を越えて皇宮へ入ることはできないということだった。ならば、ここを抜けてしまえば、もう、間違いなく安全だ。


 門中に入ると、そこは朗輝とはじめて顔を合わせた広場のあたりである。そこから見た朝堂はいま、堂府たてものいらかの上に中天かけて昇るすでにずいぶんと欠けた月を戴きつつ、その威容を黒々と誇っていた。


「このまま、陛下にお目通り願おう。――蘇家には遅くなると報せをやっておくから」


 皇族の朗輝は、皇宮内でも下馬の必要がない。彼は乗騎のままで、朝堂前の広場、朝堂院のほうへと向かっているようだった。


「へ、陛下って……ですが、この刻限に」


 朗輝の言葉に紅月は戸惑った。


 深夜も近い。皇帝はすでに日常の起居の場である長楽ちょうらく殿へと下がって、眠りについているのではないだろうか。あるいは、後宮のどこかの殿舎へ渡っている最中かもしれない。


「へいき。朝堂の、内殿にいらっしゃると思うよ。さすがのお祖父じいさまも、こんな夜中に孫をこき使っておいて、自分はやすんでたりはしないかな。あのひと、初孫の僕に甘いし」


 ふふ、と、冗談かるくちめかして言った朗輝は笑って、目を細める。そのまま、くすん、と、肩を竦めてさえみせた。


 皇宮へ入って追っ手の心配もなくなり、緊張が解けたようだ。紅月を抱え込む腕からも、それまでは心なしか入っていた力が、いまはすっと抜けていた。


「ですが」


 それでも紅月は気が気ではない。朗輝にとっては気心の知れた祖父でも、紅月にとってその人は、国の柱、皇帝陛下なのである。けれども朗輝はさっさと朝堂院まで馬を進めると、そこで下馬し、紅月に手を貸して馬から降りさせた。


 そしてそのまま、こちらの手を引いて、つかつかと朝堂の奥のほうへと回っていこうとする。


 朝議、謁見の場は朝堂の外殿に、皇帝の執務の場は内殿にある。朗輝が向かうのは内殿のほうだった。


「で、殿下」


 紅月は慌てる。


 けれども朗輝は、ちら、と、紅月を振り返って口許を笑ませただけで、また前を向いてどんどん奥へ歩いていってしまった。


「皇太子が一子・李朗輝、復命いたします」


 やがて、衛士の護る大きな扉の前で、朗輝はかしこまった。


「――入れ」


 中から張りのある、重々しい声が聴こえる。すると、扉を守る衛兵たちによって、それはゆっくりと開けられた。


 灯りのともされた広い室内の、その奥には重厚な方卓がある。そしてそこには、龍の装飾かざりのついたかんむりいただき、深い黄色のころもまとった、壮年から老年といった年齢としごろに見える男がいた。


 しょう国の国主、皇帝陛下そのひとである。


 皇帝は、ちら、と、紅月のほうを見た。


「そなたが、めいか」


 皇帝が紅月の姓名を呼ぶ。紅月ははっとして、慌ててその場に平伏し、畏まった。


 しかし、改めて我が身を思ってみれば、圭嘉けいかに乱暴を働かれ、くらに転がされていたせいもあって、いまの姿はとてもではないが皇帝と謁見できるようなものではない。ほこりまみれ、汚れた恰好は、あまりにもひどかった。


 とはいえ、ここまで連れてこられてしまったものは、もはや仕方がない。せめて国主の不興を最小限ですませられるよう、紅月は深々と跪礼きれいした。


「皇帝陛下にご挨拶申し上げます。礼部れいぶ侍郎じろうが一女・蘇明、あざなを紅月と申します」


 声は、緊張のため、わずかに震えてしまう。


「うむ。――礼は良い、楽にせよ」


 立って構わない、と、手を振って促され、しかしどうしていいかわからず、紅月は隣の朗輝をそろりと窺った。


 口許に穏やかな笑みをいた朗輝はひとつ頷き、紅月に手を貸して立たせてくれる。そのまま、こちらの手を取っているのとは逆の腕で、紅月の腰を引き寄せるようにしていだいた。


「夕方まで、珍しくこの世の終わりかというくらいに意気消沈しておったくせに……今度は深夜になって、ずいぶんと意気揚々とした表情ではないか。まったくそなたという者は。――なあ、阿月あげつ


 皇帝は朗輝をそんなふうに呼び、呆れたふうに首を左右に振った。


「私はもう成人いたしました。こどもじみた呼び方はよしてください、お祖父じいさま」


 それに対し、朗輝はにっこり笑って言う。


 皇帝に対する最後の呼称は、幼子おさなごにするように呼びかけられたことに対する仕返しで、どうやら故意わざとに違いなかった。


 皇帝もそれをわかっているのだろう、恐れ知らずの孫の言葉を受けても怒るでもなく、ちいさく苦笑する。眉尻を下げ、目を細める様は、まったき孫を慈しむ祖父の顔でもあった。


「――紅月こうげつ


 皇帝は朗輝を呼び直した。


 え、と、紅月は隣の少年を見た。

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