第8話 地獄の鬼ごっこ
「はあ、はあ、はあ、はあっ!」
夜の校舎を全速力で走る。もし鬼に捕まったら食べられる。その恐怖心100パーセントで駆け抜ける。私は足が速い方じゃない。先を行く杏ちゃんの背中を追いかけながら、一心不乱に疾走する。
「はあ、はあ、杏ちゃん、ちょっと待ってよ!」
「はあ、はあ、待ってあげたいけど、なんか足が勝手に加速するんよ!」
怖いのは皆一緒。きっとこれは生存本能というやつなんだろう。それこそ肉食動物に追われる草食動物のように。今の私たちはサバンナでライオンに追われるシマウマだ。
それでも勇気をもって。そう、身体の中に残った勇気を限界まで振り絞って、少しだけ後ろを確認する。
「はあ、はあ、杏ちゃん、もう鬼は追ってきてないみたいだよ!」
「はあ、はあ、本当に本当?」
「はあ、はあ、本当に本当!」
力いっぱい叫ぶと、杏ちゃんはようやく立ち止まる。それを追いかけていた私は、しばらくたってから立ち止まった。
「はあ、はあ、なんで豆が効かないのさ」
「はあ、はあ、本当だよね」
鬼と言えば節分だ。節分と言えば豆だ。大鏡の鬼は、怖がる物を言えば鏡の世界に帰っていくと言っていた。なのになんで効かなかったんだろう。もしかして「鬼は外」と言うのも付け加えたほうが良かったんだろうか。私の疑問が子どもの頃から楽しんできた、節分の豆まきという慣習に疑問を持ち始めた時、杏ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「あれ、葵は?」
「神隠さんなら、そこに――あれ?」
きょろきょろと辺りを見渡してみる。神隠さんの姿は見えない。
待って、冷静に思い出してみなさい楓。走っているとき、私の前には杏ちゃんしかいなかった。じゃあ神隠さんは? 神隠さんがどのくらい足が速いかは知らないけれど、スラっとしたモデル体型の彼女は、少なくとも私よりも速そうだ。つまり、私よりも前を走っていなければならない。じゃあどこに?
「もしかして、置いてきちゃった……?」
「そんな! そうすると葵、まさか食べられて……!」
「いや、神隠さんに限ってそんなことないでしょ。だってあの神隠さんだよ?」
「南無阿弥陀仏……」
「もう! 縁起でもないこと言わないで!」
神隠さんは謎が多い。けれど少なくとも、私よりずっと賢くて行動力がある。彼女ならきっと大丈夫なはずだ。私は自分に言い聞かせるように、そう何度も心の中で唱える。大丈夫。きっと大丈夫だ。
「神隠さんならきっと大丈夫だよ」
「うん、そうやな。葵ならきっと上手く逃げとる」
「そうなると問題は、あの鬼をどうするかだよね?」
「そうやな。あの鬼を追い返すか、学校を出て助けを呼ぶか。宿直の先生にも教えんと」
今この七陣小には、凶悪な人食い鬼が歩き回っている。
宿直の先生が出会ったら危険だし、もし校外に出たら大惨事だ。
「よし、じゃあまずは宿直室に……に、に」
「ににんがし? 楓、こんな時に冗談なんて……って鬼来てんじゃん!」
廊下のまだ先だけど、いる。金棒を担いだ、あの赤鬼だ。
鬼はこちらに気がつくと、まっすぐこちらに向かってくる。
「豆! 鬼は外! やっぱり効かない!」
「逃げるよ楓!」
杏ちゃんに引っ張られ、また真夜中のマラソン大会が始まる。これぞほんとの鬼ごっこだ。ただし捕まると食べられる。
「ピーナッツ!
「杏ちゃん、豆の種類の問題じゃないと思うよ! もっと鬼が怖がりそうな物を言わないと!」
迫る鬼は狂暴で、大きい。あの鬼が怖がるものなんてそうはなさそうに見える。けれど何か言わなきゃ食べられるし、思いつくものから叫ぶ。
「ライオン! 雷! ミサイル!」
「ウガアアアアッ!!」
「ピーマン! パクチー! シャコ!」
「楓、それあんたが苦手な食べ物!」
「じゃあ杏ちゃんも何か言ってよ!」
私の手を引く杏ちゃんはとたんに真剣な顔になる。これはもしかして何か閃いたの? そして自信満々に宣言した。
「大谷翔平!」
「ウガアアアアっ!!」
「なんで自信満々にそれ言えるの!?」
「大谷って怖い投手で打者だしさ……」
「怖いの定義が違う!」
いくら大谷君でも、投手と打者に加えて鬼退治の三刀流は無理だよ!
――はっ! 鬼退治! そうだ、こう言えばよかったんだ!
「桃太郎っ!」
なんで思いつかなかったんだろう。鬼退治と言えば桃太郎だ。つまり、これこそが答え。それに気づかせてくれた大谷君、ありがとう。
そして、私の言葉を受けた鬼は立ち止ま――らない。
「なんで!? 正解は桃太郎じゃないの!?」
「知らんけど違うんやろ! ああ、もう、アーモンドアイ!」
「それはなに!?」
「すごく足の速い馬!」
「私は今その馬になりたい!」
鬼を追い払う言葉は当然それでもなく、夜の鬼ごっこは続く。
はあ、はあ、さすがにもう無理だ。私は杏ちゃんと違ってスポーツが苦手なのだ。息が上がって、身体中が悲鳴を上げているのがわかる。
限界。その言葉が頭をよぎった時、正面に人影を見つけた。
「あれは……神隠さん!」
「葵!? 良かった無事で!」
暗闇にたたずむ神隠さんは、こちらを見たまま逃げない。鬼に気がついていない。いや、そうじゃない。全力で走る私たちは、すぐに神隠さんを抜き去る。
「神隠さん!」
神隠さんに鬼が迫る。あと十メートル、あと五メートル、もうすぐそこ、もう手が届く。その瞬間、神隠さんは、静かにつぶやいた。
「
その瞬間、あの凶悪さの塊だった鬼は、霧のように消えてしまった。
「さあ二人とも、帰ろうか」
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