#3 殺人ラブホテル

3-1 ろくでもない女

 薄暗い照明の店内に、淡くBGMが流れている。聴き覚えのあるような、だけど名前も知らない洋楽だ。

 店に二セットあるビリヤード台の片方では、三人組の男性たちがゲームに興じている。いずれも中年で、仲間うちだけで楽しんでいる雰囲気の。衝き合って弾かれた玉がテーブルのポケットに落ちる音が、やかましく空気を掻き回す。


 私はそれを尻目に、ダーツのスローラインに立っていた。

 身体を斜めに開くミドルスタンスで、ゆったりと構えを作る。軽くテイクバックしてからのリリース。ダーツは直線に近い放物線を描いて、中心ブルに刺さった。

 続く二投目はボードの上の方にある二十のトリプル。三投目は左下の十九のトリプル。

 敢えてバラバラの位置を狙った。以前、先に放ったダーツの後部に別のもう一本を命中させ、二本とも壊してしまったことがあるからだ。


 店内に客は少ない。マイペースにソロプレイするため、そういう時を選んで来ている。

 きっかり一時間、一台を独占して投げられるだけ投げ、カウンターに着いて酒を注文する。割といい気分だった。


 少し離れた席で女性が一人、カシスオレンジか何かを呑んでいた。いつの間に来店したのかも知らない。

 私は特に気にすることもなくタバコをふかしていた。頼んだジンフィズが目の前に置かれたころ、彼女の方が移動してきた。柑橘系の香りを、ふわっと漂わせながら。


「隣、いい?」

「……どうぞ」

「ダーツ上手いね。プロの人?」

「いや、単なる趣味」


 趣味というか、これはただの鍛錬だ。勘が鈍らないようにするための。


 彼女がすぅっと目を細める。その視線の端に私のタバコの箱があるのが分かる。黄緑色の、ピアニッシモ。


「女子だったんだ」

「……がっかりした?」


 低く吐息を絡めた声で問えば、彼女の瞳がわずかに色付いた。何だかちょっと楽しくなってしまう。


「綺麗な男の子だなって見てた。正直逆ナン狙いだったけど」

「ははっ、正直だね」

「せっかくだから、一杯一緒にいい?」

「もちろん」

「良かったぁ」


 蕩けるまなざし。唇はくっきり紅い。緩く巻いた髪に、きれいめコーデ。同年代くらいか。


「あなた独特の雰囲気あるから、モデルさんとかかなとか思ったんだけど」

「そういうのじゃないよ。ちょっと忍んでる身ではあるけど」

「何それ、忍者みたいな言い方」

「まぁ忍者かもね」

「適当じゃん」


 彼女は軽やかに笑った。ギリギリ嘘は言っていないけど、冗談と受け取ったらしい。それ以上にはこちらの身分を追求してこなかった。

 見えない境界線。それを互いに良しとできる、悪くない相手だ。ぽつぽつ交わす、踏み込まない会話がちょうどいい。


 新しい酒をオーダーした彼女は、気怠げに溜め息をつく。


「実はあたし、付き合ってた彼と別れたばっかりで」

「それで一人酒?」

「そうそう。既婚者だったんだけどねー、奥さんにバレて、ちょっとゴタゴタして」

「そりゃ災難だったね」

「でしょ? なんかもう、疲れちゃって。ヤケクソで適当に一晩遊べる相手でも探そっかなって思ってたんだ」

「やめなよ、ろくなことにならない」

「ろくでもないことになりたい気分なのよ」


 私は新しいタバコに火を点けた。ふぅっと一筋、煙を吐く。


「じゃあ、私で良ければ」


 息を呑む音。


「……本気で言ってる?」

「さぁ?」


 淡い微笑を返せば、にわかに真剣味を帯びた彼女の瞳が揺れる。

 サーブされたモスコミュールのグラスの縁では、生のライムが弾けていた。


 物心ついたころから私は自分を女だと思っていたし、憧れた異性も身近にいた。ただ、その感情が何だったのか、今となってはもう分からない。遠い日の話だ。

 気付いた時には、身体と心の間に磨りガラスのような隔たりがあった。どれだけ呑もうと誰と寝ようと、快楽は肉体のものでしかなく、頭は常に醒めていた。


 どんな欲求を抱えても、己のコントロールを放棄するわけにはいかない。


 誰にも夢中になれないけど、逆に誰が相手であってもそれなりには振る舞える。

 特定の相手は作らない。負の念を溜め込む私の内側は、入ってきたものを心身ともに蝕んでしまう。

 そう考えると、例えワンナイトでも同性相手の方が幾分か気楽だった。



 無機質な匂いのシーツが爪先を冷やして、目が覚めたのは午前五時すぎ。

 名前も知らない彼女はまだ眠っている。

 不特定多数の煙が染み込んだ壁の色も、橙色の常夜灯の下では有耶無耶だ。

 ほとんど無意識の動作でタバコを手に取る。安物のライターが一瞬、仮初みたいな闇を爪弾いた。

 私の吐き出すシトラスの煙は、何一つ塗り替えることができない。私自身も塗り替えさせない代わりに。


 先に精算を済ませて一人で退出しようと思っていたら、彼女が起きてしまった。目が合うなり、甘ったるい呟きが耳を掠める。


「……良かったぁ。まだいたぁ」

「いるよ……さっき起きたとこ」

「何だかあなたって、闇に透けてるような感じがするから。目を覚ましたら影も形もなくなってるんじゃないかって思ってた」


 最近、似たようなことを言われたばかりだ。

 私は肩をすくめる。


「どう? ろくでもない気分は」

「えっ……」

「そろそろ出た方がいい」


 身体はもうすっかり冷えていて、昨夜の微熱すら幻みたいに思える。

 二言三言を交わして、さっさと身支度を整えた。きっちり割り勘で料金を支払い、ホテルを出たところで別れる。


「ありがとうね、楽しかった」

「こちらこそ」

「ねぇ、あたしたち、また会えるかな?」

「どうだろう」


 私は曖昧に笑んだ。最後の最後、真正面から彼女の双眸を見据え、視線を

 ほんの、三秒程度。

 まるで氷が溶けるみたいに、私と彼女の視線の焦点が合わなくなる。

 簡単なことだ。これでもう、私のことを思い出せないはず。

 彼女は不思議そうに辺りを見回し、首を傾げながら駅の方へと歩いていった。

 きっとこのままいつも通り出勤して、何事もなかったかのように日常へ戻っていくのだろう。結局、何をしている人なのかも知らないままだったけど。


 ……というか。

 実を言うと、私の帰る方向も彼女と同じだった。

 こういう時は割と気まずい。近くのコンビニで適当に時間を潰してから、駅前のバス停へと向かう。

 何かちょっと、急に間抜けな感じになってしまった。どうせなら最後までハードボイルド決めてる自分に酔わせてほしいんだけど。


 本当に、ろくでもない。


 まだ乗客の少ないバスに揺られて自宅へ戻り、だらだらと時間をかけて温いシャワーを浴びたところで、スマホに着信があった。

 『大黒だいこく不動産』の表示。すぐに受話ボタンをタップする。


「はい、無量むりょうです」

『お世話さまです、大黒です。すいませんねぇ、朝早くから』

「いえ、いつもお世話になっています」

『どうもどうも。あのですねぇ、実はまた一件、ご依頼したい物件がありまして——』


 今日はお父さんの方だ。

 朝早く、とは言っても午前九時すぎ。店の営業時間が十時からだから、その前に用件を済ませたいのだろう。


「分かりました。すぐ伺います」


 今回は先に有瀬ありせくんへLIMEを送っておいた。


【無量】仕事の依頼が入りそうです。今から詳細を聞いてきます。また三日程度の日程になると思います。


 既読が付くのを待たずに、私は大黒不動産へと車を走らせた。



「あぁ、無量さん。すいませんねぇ、さっそく資料を見ていただけますか」


 柔和な笑顔の大黒氏が、カウンターの上で物件の資料を差し出してくる。


「これは……」

「今回は賃貸物件じゃないんですよ。少し変わったケースでして」

「ラブホですか」

「ラブホですねぇ」


 そう。資料に載せられた写真は、どう見てもそういうホテルだった。


「物騒な殺人事件が起きたせいで、悪評が立ってしまったホテルです」


 聞けば、一年ほど前に全国ニュースにもなった事件だった。さわりを聞いただけでも何となく厄介そうだ。


「女性にこういう物件の案件を頼むのも申し訳ないんだけどねぇ。特別な事情で入った依頼だし、隣の県まで行っていただくことになるもんで、いつもより報酬をお出ししますよ」

「やらせていただきます」


 ひとしきり概要を聞き、店を後にするころ、スマホからLIMEメッセージ着信の音がした。


【★あんご★】にちかさん♡♡♡お疲れ様です!予定だいじょうぶですよ!今回も楽しみです!がんばります!!


 ご機嫌なスタンプが連続して三つ。

 能天気なアシスタントの顔が思い浮かぶ。


 ……今回の依頼、有瀬くんと一緒にラブホへ行くことになるんだ。

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