2-8 断罪

 不穏な宣言の後、赤いナイフが再びセーラの胸元に突き付けられる。その切っ先に力が加わり、彼女の服に、肌に食い込んでいく。


「いやっいやぁあっ!!」

「やめろ!」


 咄嗟に駆け付けて手を伸ばすが、私の手は盛大に空を切った。浮力を失った赤いナイフが落下して床に跳ね返る。


「へへっ、こっちだよ!」


 血塗れのナイフを捨てたフュンフは完全に不可視の存在と化し、視覚では捉えることが出来なくなってしまった。声と気配だけが弄ぶように辺りを移動する。

 私が惑っていると、動いたのはツヴァイだった。彼はシチューの入った寸胴鍋を持ち上げるや、虚空に向かってその中身をぶちまける。


「熱っつ!」


 短い叫びが上がった。どろりと乳白色の固形混じりの液体が人型を象っていく。透明化したフュンフの姿が見事に炙り出されていた。


「そこか!」

「ちくしょおっ!」


 私の掛け声とフュンフの悪罵はほぼ同時だったろう。居場所が判明した彼の元へ、私は体当たりする勢いで突進した。その場に押し倒し、馬乗りになる形で動きを封じる。

 その内にフュンフが〝透明化〟を解いた。彼はまた新たに武器を入手していた。今度は小ぶりながらに鋭利な果物ナイフだ。それを握り締めて暴れる彼を止める為、私は覚えたての能力を発動し、〝電撃〟を放った。

 軽く痺れさせる程度の、弱い威力。それでも効果はあったようで、フュンフは叫声を上げながら脱力した。その隙に、果物ナイフ取り上げる。


「観念しろ」


 束の間の沈黙。その後フュンフは、おもむろに口元を綻ばせた。


「ふ……ふふっ」

「何がおかしい」

「トドメを刺せよ。そうだな、それがいい」

「なっ」


 思いもよらない発言に、私は目を剥いた。


「今らないと、後で後悔するぞ。僕は諦めない。お前達を皆殺しにして、僕が唯一の救世主メシアになるんだ!」

「考え直せ。そんなの、研究所の奴らも許さないだろう」

「どうかな? 彼らが求めているのは、強い吸血鬼だよ。僕が皆を殺せば、僕が最強だ。強ければ許されるんだ! 現に今、僕らの行動をている筈の彼らが、何故何も干渉してこない? 彼らは手をこまねいて待っているのさ。最強の吸血鬼が生まれる瞬間をね!」

「そんな訳があるか! 目を覚ませ!」

「いやなこった!」


 襟首を掴んで軽く揺さぶっても、私の説得はフュンフには届かない。


「さぁ、れよ! 善人ぶったいい子ちゃんのアンタに、果たして〝仲間〟を殺すことが出来るのか、見ものだなぁあ!?」


 挑むように言って、フュンフは壊れた音楽再生機の如く引き攣った笑い声を上げた。

 ――どうすればいい?

 無論、仲間を手に掛けたくなどない。だが、このまま彼を放置しておいたら、いずれ深刻な被害を生まないとも限らない。

 更生させる? どうやって? 彼は私の話など聞く耳持たないだろう。やはりらねばならないのか。それしか方法は無いのか?


「その必要は無いよ」


 困惑し、目まぐるしく思考を巡らせる私の意識を引き戻したのは、そんなツヴァイの一言だった。

 彼はゆったりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる。その表情は至極冷静で、放つ言葉も実に落ち着いたものだった。


「フュンフ。君の気持ちも分からなくはないよ。こんな不平等な世界、呪いたくもなるよね。それでも誰かに必要とされたくて、〝特別〟という言葉に縋ってしまうんだ」


 ――特別な、存在。


 初めてフュンフの声を聞いた時のことを思い出す。

 彼はその言葉を受けて、それまで俯かせていた顔を上げ、一心に画面を見つめていた。感じ入るように、歓喜するように……。

 あの時感じた胸騒ぎの正体は、今の状況を予感するものだったのかもしれない。


「君にとって、吸血鬼の力は……その〝透明化〟の力は、君を特別たらしめる大切なものだったんだよね。それをあんな風に馬鹿にされ、無惨にも尊厳を踏み躙られたんだ。そりゃあ、怒りたくもなるよね」


 静かに語り掛けるツヴァイの声に、フュンフもどこか毒気を抜かれた様子で、無言で彼の顔を見上げていた。


「でもね」


 不意に、ツヴァイの纏う空気ががらりと変わった。冷たい、凍てつくような声音。


「君はやり過ぎたね。アイちゃんを汚そうとするのなら、俺が許さない」


 ツヴァイの紫電の瞳が鮮やかな真紅に変じる。紅い、血の色――〝吸血鬼ヴァンパイア〟の瞳。

 吸い込まれそうな深い色彩の中、妖しく揺らめく光を湛えて彼は告げた。


「――死ね」


 直後、びくりと小さく跳ねてフュンフは無表情に首肯した。そうして、唖然とする私の手から果物ナイフを奪い返す。


「待っ」

「アイちゃんは離れてて!」


 ツヴァイが鋭く言い放った。その赤眼と目が合うや、私は金縛りに遭ったように硬直した。かと思いきや、私の意思とは無関係に身体が動き、フュンフから距離を取る。

 どうなっている? これはまさか、ツヴァイの……。


 思う間も無くフュンフは手にした果物ナイフを、一切の躊躇も見せずに己の胸元へと突き立てた。深く、深く、刃が埋まっていく。やがてそれは禁忌の領域にまで達すると、お定まりの破壊を誘った。

 炸裂する身体。飛び散る血肉。フュンフが、フュンフでない〝物〟へと姿を変えていく。特別を望んだ彼の、あまりにも呆気ない最期。

 新たな惨劇の発生に、私もセーラも瞬きすらも出来ずにただ茫然とその場に立ち尽くしていた。


「アイちゃんが手を汚す必要は無いよ」


 静まり返った重苦しい空気の中、ツヴァイがそっと呟く。振り向いた彼の瞳は、もう元の紫電に戻っていた。


「そういうのは、全部俺が代わりに引き受けるから」


 微かに笑みを刻むその目元には、どこか自虐の色と確かな恍惚が混ざり合っていた。

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