晴れ、時々『桜吹雪』

秋野 秋人

本文

『…では、今日のお天気です。今日は一日を通して概ね晴れ、しかし、所により桜吹雪が吹くでしょう。突然の桜で視界が奪われないよう、注意が必要です。』


今朝のニュースの天気予報では、またしてもこんなことを言っていた。この街では、時々、どこからともなく桜吹雪が吹くことがある。それは季節を問わず、春の日は言うまでもなく、ケヤキの緑生い茂る夏の日も、薄茶色のススキが垂れ下がる秋の日も、この世から鮮やかな色が消え、ただ真っ白な世界が広がる冬の日だって、やってくる。どうしてかは分からない。でも、みんな「どうして」なんて言わない。だって、そんなこと当たり前でしょ?みんなが皆、そう思っている。

この街に時々吹く桜吹雪は、それ自体になんとも言えぬ幸福感を纏っていて、それを見た人間ならば誰でも、わぁ、キレイ。と口々に呟く。そしてそれが流れていく様子を、みんな立ち止まって眺める。まるでいっせいに金縛りにでもかけられたみたいに。

桜吹雪は街中のみんなの視線を奪いながら、複雑な迷路の中に水を流し込むかのように、大通りから、小さな路地裏まで、隅から隅までその幸福感をばらまいていく。そうやって数十分もした頃には、もう辺り一面花びらだらけで、いつもの通学路も、さながらハリウッドのレッドカーペットだ(ピンクだけど)。その花びら一枚一枚から、ほんのりといい香りがする。子供達はそれを蹴って、散らして、なにが楽しいというのでもなく、ただはしゃぎ回る。老人達は縁側に座り、「風情だなぁ」とか何とか言いながらお茶を啜る。

そしてその花びらはしばらくすると、いつの間にか消えている。地元の清掃員が落ち葉みたいに拾い集めたのでもなく、どこか別の場所に吹かれて飛んでいったのでもなく、ただ、まるで元よりそんなもの無かったかのように、一切の痕跡もなく消滅する。そして、やはりその事を気にかける人は、誰一人としていない。



私はこの頃憂鬱だった。というのも、私は一ヶ月前、ずっと憧れだったある先輩に告白したのだが、虚しく振られてしまったのだ。「俺、もう付き合ってる人いるんだ。」なんて言われてしまって、そうであればどうしようもない。私はただそこを走り去って、一日中独りで泣いた。

それ以降、起きて、学校の支度をし、朝のニュースを見ながら朝食を食べ、リュックサックを背負って学校に行く、といういつも通りの行為でさえも、なんだかやる気が出ない。学校に向かうまでの道は余計にそうだ。歩いている間、何度か「このまま、サボってしまおうか」なんて気持ちが湧いてきたけど、でもそうしたところで、その後にやってくる面倒を考えると、結局そんなことはできずにただ下を向いて歩くだけだった。

これは後で聞いた話だが、私が一人で学校に向かっているまでの間に、あの桜吹雪がやってきていたことが何度かあったらしい。いつもは私だって、その圧巻の景色に目を奪われ、しばらくの間、それが発するなんとも言えない幸せな感情に身を委ねるのだがこの頃は、一切の興味すら持たず、ただひたすら下を向いて歩き続けていた。というより、それがやってきていたこと自体、その時の私は知らなかった。


学校に着いたら、まず彼女を探す。教室中を見回すと、隅の方、カーテンからこぼれる日差しを少し顔に浴びながら、たいてい彼女はそこにいる。そしていつも私はその瞬間、少し憂鬱が和らいでいくような感じを覚える。

「おはよ。」

と、私が近づいて声をかけると、

「おはよ。エミ。」

と、少し微笑みながら返してくれる。

彼女の名前はカンナで、中学時代からずっと一緒にいる、私の唯一と言っていい親友だ。初めて会った時から、彼女と私は驚く程に気があった。好きな食べ物も、見ているドラマも、服の趣味も。そして驚くべきことに、中学1年の時、同じクラスで隣の席になってから、高校3年の今に至るまで、違うクラスになったことがないだけでなく、座る席ですら6年間ずっとすぐそばだった。これはもう運命と言って差し支えないものだ、と私は思う。

突然だが、こんなエピソードがある。今から約一ヶ月前のある日、(私があの先輩に振られた少し後くらいの時期だった)カンナが突然学校を休んだ時があった。今まで欠席などほとんどしてこなかった彼女であったので、少し心配になって、その日の放課後に電話をかけたが、彼女は出なかった。いつもはすぐ出てくれるのに、どうしたのだろう、と私が思っていると、その日の夜に今度は彼女のほうから電話がかかってきた。

「もしもし、カンナ?」

私は声をかけるがしかし、彼女から反応はなかった。

「えっと…カンナ?おーい。」

彼女は長らく沈黙していた。しばらくの間、ただ私の声だけが響いていた。スピーカーから自分の声だけがはね返って聞こえて、それ以外は一切の音も聞こえなかったので、世界から私以外の音が消滅してしまったのではと錯覚するほどだった。

しかし、しばらくして、彼女が電話越しにすすり泣く声が聞こえてきた。

「ごめん、ごめんね。」

と、涙声で彼女が謝るのが聞こえる。

「なに、どうしたの。」

「突然休んじゃってごめんね。」

状況が飲み込めない状態で突然謝られたので私は、ひどく困惑してしまった。

「いや、そんなこと、気にしてないけどさ…」

彼女の泣いている声がどんどん大きくなっていって、流している涙の量も、それに伴って増えていっているのが電話越しでもよく分かった。

「それより、突然泣きだしたりして、どうしたの?」

と、私が困惑したように聞くと、彼女は嗚咽まじりで、時々息を詰まらせながらこう言った。

「あのね、私の家で飼ってた犬が…死んじゃったの。それで、それで…悲しくて。」

そこで彼女はついに声をあげて泣きだしてしまった。それは本当に失意の底に落ちた人間の泣き方であった。それもそのはずで、彼女が飼っている犬の話は私もしばしば彼女から聞いていたし、その話をしている時の彼女は決まってどこか楽しそうだった。故に、彼女がその子のことを深く愛していたのは知っていた。だからその子が亡くなってしまったという話を聞いて、私もまるで自分の事のように悲しくなっていた。

「そう、だったんだ…」

私はかける言葉も見つからず、ただ彼女の泣いている声を聞くことしかできなかった。やがて私は

「ごめん、電話なんてしちゃって…悲しかった、よね。私でいいなら、いつでも相談にのるから。」

とだけ言って、彼女の返事も聞かず一方的に電話を切ってしまった。彼女があんなに悲しんでいるところは初めて見た。その声を聞いただけで、私も涙が溢れそうになった。前提として、そのことは確かだったと言い張ることができる。

しかし、それと同時になぜか私は…心が救われるような感じも覚えた。私もほとんど同じ時期に憧れの先輩に振られ、憂鬱に心が囚われているところだった。そして彼女が、私と同じように悲しんでいる様子をみて…こんなことを思うのは、不謹慎かもしれないけれど…やはり私と彼女は、なにかしらの見えないもので繋がっているのだと感じた。それが何かは分からない。だけど、二人の身に同時にそういうことが起こっているという事実に対して、私は彼女との間に、神がかり的な何かを感じずにはいられなかった。

彼女はしばらく学校を休んだが、一週間くらいした頃の朝、私が登校してくると、彼女はいつもの席にまた座っていた。私は何となく話しづらい雰囲気だったためいつもの挨拶もなしに隣の席にそっと座ったが、彼女がこちらに気付くと、

「おはよ。」

と、挨拶してきた。私はなんだか申し訳ない気持ちになって、おはよう、と返す前に

「ごめんね。声、掛けなくて。」

と、謝罪の言葉が先に出てしまった。彼女はそんな私の気持ちを何となく察したようで、突然謝ったことに対しては何も言わず、

「ううん。謝るのは私の方。電話の時は、ごめんね。なんか、慰めてもらったみたいで。」

と、言った。私が一方的に電話を切ったことも彼女は全く気にしてないというふうで、むしろ謝罪までされたので、私はよりいっそうきまりが悪くなった。

「もう、大丈夫だから。」

と、彼女は言った。しかしその顔はやはりまだ虚ろげで、ここではない、どこか遠くを見ているようだった。

そこから今に至るまでに、私も彼女も結構気持ちに整理がついてきたようで、今ではもう、ある程度元の通りに話すことができるようになってきた。彼女の顔には段々と活気が戻ってきて、今までは地平線の彼方に消えてしまっていた彼女の意識も、最近は話している私に対して向けられることが多くなってきた気がする。そのことが嬉しかった。私の心をきつく縛っていた何かが、彼女と会う度に一本一本解けていく。止まっていた血液が再び少しずつ流れ始める。全身に血が巡り、暖まっていく感覚が心地よかった。

そうやって一日を過ごして学校が終われば、その心地良い感覚が残っているおかげで、登校してきた時よりも足どり軽く帰路に着くことができる。行きも帰りも、全く同じ道を通っているはずなのに。強いて違うところと言えば、帰りにはもう、一面を埋め尽くす桜の花びらがなくなっていたことくらいだ。


―ピンポーン

家に帰った後、自分の部屋で勉強をしている時にインターホンが鳴った。今、両親は仕事でおらず、家にいる人間は私だけだったので私が出なくてはならなかった。

ドアを開けると、そこには一人の男が立っていた。歳は私の父親より少し若いくらいで、身長はざっと180センチ以上はあったと思う。肩幅もかなり広く、その体躯からはある種威圧感すら感じられた。髪はまるで剥製かのようにワックスでピッチリと固められていて、そして…恐らく背骨も同じように固めてしまったのだろうか…背筋は一切のズレもなくぴんと伸びている。相手を威嚇するためにつけられているかのような、規格外に大きな目は、くっきりと見開かれていた。パッと見た感じは、営業先に商品を売り込みに行くビジネスマンといった印象を受ける。しかし、それ以上に私の目を引いたのは、その男の服装だった。着ているものは間違いなくスーツであるのだが、全身がピンク色なのだ。上着やズボンはもちろんそうだし、ネクタイやベルト、腕時計などの装飾品にいたるまで全てがピンク色で構成されていた。唯一中に着ていたワイシャツだけは白色だったが、あまりにも全身がピンクすぎるため、なんだかそれもピンク色に見えてくる。

「こんにちは、エミさん。」

と、その男は少し微笑みながら話しかけてきた。相変わらず瞳孔は開きっぱなしのままで。

「えっと…どうも。」

私は、どう考えても怪しすぎる格好をしているその男に相応しいだけの疑念の目を向けた。

「突然お尋ねして申し訳ございません。今日は少し、我々とのビジネスについてお話させていただきたく思いまして。」

と、その人は高校生の私に対して、やけに丁寧な口調で話しかけてきた。

「あ、すいません。親なら、今居ないです。」

「いいえ。ご両親ではなく、あなた自身に。」

私は困惑した。高校生にビジネスを持ちかけてくる大人など怪しすぎる。

「私に…ですか。」

「はい。」

と、その男は答える。

「すいません。そういうのは結構です。」

私がドアを閉めようとすると、

「待ってください。意中の相手に振られたその憂鬱、晴らしてみたいとは思いませんか。」

と、その男は言い放った。

私は驚きのあまり、一瞬動きが固まった。

「なんで、そのことを…」

私が驚いた顔をすると、その男は狙いすましたかのように、私に一枚のパンフレットを差し出してきた。そのパンフレットも、その男に負けないほどの主張の激しいピンク色だった。そこに書いてあったのは、『不幸を桜に変える会』という団体の名前と、中心にでかでかと書いてあった、以下のキャッチフレーズだった。


『あなたの不幸、桜に変えてみませんか?』


「なんですか、これ。」

私が聞くとその男は

「簡単な話です。」

と、説明を始めた。

「我々は、あなたのようなまさに青春真っ盛りの少年少女をターゲットに、彼ら彼女らが抱えているであろう様々な苦悩、後悔、孤独などの不幸な感情を取り去って、桜の花びらに変えてあげるという運動をしています。変えた桜の花びらは、一定以上溜まった後にこの街中に放流し、桜本来の特性として持つその華やかさで人々の心を癒すことに役立ちます。あなたも桜吹雪が吹く景色を、何度か見たことがあるでしょう?そして、それが発する幸福感を、心地良いと感じたことがあるはずです。あなたの持つ憂鬱が、誰かの心の平穏を保つための手助けとなり、そしてあなた自身は、この憂鬱な日々から脱却できる。これはまさに、ウィン・ウィンの関係というやつだとは思いませんか。」

と、その男は自慢げに語った。

しかし、私はその男の話がいまいち理解できなかった。今まで何度も見てきた桜吹雪の景色が、この男が所属している団体によって作られていたという事実は私を少し驚かせたけれど、しかしそれが余計に私を混乱させる要素になっていた。

不幸を桜に変える?わけが分からない。

「はぁ。」と、思わず気の抜けた声が出てしまう。

「どうですか。やってみたいと思いませんか。」

その男は催促するようにこちらに圧をかけてくる。ただ、そんな今すぐ決めるにはあまりにも情報が少なすぎる。そう思った私は、その男にいろいろ質問することにした。

「あの、少し質問してもいいですか。」

「はい、構いませんよ。」

「まず、なんで私がその…振られた、ってことを知ってるんですか?」

私が聞くと、その男はこう答えた。

「今の社会では、特定の条件に該当する人間…我々でいうところの、不幸を被った少年少女、という風な…を探すのは、大して難しいことではありません。そしてその人間について、より深く調査をするのも。明確な理由と、少し特殊な情報網があれば。」

「それって、監視されてるってことですか。」

私が驚いた顔をすると、

「いえいえ、そんなことはしていません。ただ、我々の後ろにはそういう情報を集めるプロがいる、そういうことです。」

と、その男は言った。高校生の私には理解し難い話だったので、これ以上聞いても無駄だ、と思った。

「そうですか…じゃあ、不幸な感情を桜に変える、っていうのはどういうことですか?その、何か特別な技術を使うとか。」

「それは企業秘密、ということで。ですが、なにか怪しげな手術を施したり、特殊な薬を飲ませたりはしませんので、健康的な被害は一切ございませんからご安心を。」

企業秘密。その言葉に私は何か物々しい雰囲気を感じた。

「でも、なにか普通じゃない技術を使うんですよね?私、お金とか全然持ってませんけど。」

「いいえ、お金は一切必要ありません。我々はただ、あなたたちのような若き才能を、たった一度の不幸で無駄にしたくないだけなのです。」

またしても「はぁ。」と気の抜けた声がでてくる。

その男は、私とその男の二人しかいないのにも関わらず「我々」とか「あなたたち」みたいな大袈裟な喋り方をする。私は女子高生の日本代表でもなんでもないのに。政治家の演説みたいだ、と私は思った。

よく理解できない話ばかりで私は困った。このまま帰ってもらおうか、とも思ったが、しかし私には、最後にひとつだけ、聞いておきたいことがあった。

「…じゃあ、憂鬱が晴れて桜になる、って言いましたけど、もしもそうしたら、私の中の思い出が…彼に振られたっていう過去が…消えてしまうってことですか。」

そう言うと、その男は不思議そうに

「あなたの中で、その思い出が残るかどうかが、そんなに大事なのですか?あなたの心を、そんなにも縛り続けている、その思い出が。」

と、聞いてきた。

「いえ、大事って訳じゃ、ないんですけど…ただ、記憶が無くなったりするんだったら、少し嫌だなって。」

私が心配そうな顔をすると、その男はこう言った。

「心配せずとも、記憶を失くすわけではありません。ただ、今憂鬱を感じているその出来事に関して、そこまで大きな感情を抱かなくなる、というだけのことです。例えるなら、そうですね…干からびたミミズ、見たことあります?あれを見た時くらいのちっぽけな、なんとなく嫌だなぁ、くらいの感覚です。」

何だそれ。と私は思った。そんなはずはない。私の彼に対する積年の思いが、道端のミミズと同レベルになるはずがない。その言葉は、なんとなく私の、彼に対する気持ちをバカにされてるような気がして腹が立った。元々その男の言う「ビジネス」とやらをそこまで信用していなかったし、協力する気も余りなかったが、その話をされていっそう興味が失せた。

「すいません、協力はできません。もう帰って下さい。」

と、私が苛立たげに促すと、その男は、そんなことは全くもって問題ないという風に、私のその視線を軽く受け流しながら

「そうですか。分かりました。ですが、お気持ちが変わることもあるかと存じますので、もしも我々のビジネスに協力していただけるのであれば、先程渡しましたパンフレットに書いてある番号の方までお電話下さい。」

とだけ言って、軽く一礼した後、そのまま去っていってしまった。私は部屋に戻ったあと、しばらくの間そのパンフレットを眺めていた。

『この気持ちが晴れるなら、そんなに楽なことはないけど…』

そして、机の引き出しの中にそのパンフレットを入れた後、なんだか今更勉強にもやる気がでなくて、そのままベッドに入って寝てしまった。


あの男が来てから、数日が経った。その間もあの男の話は、いつも私の頭の片隅にひっそりと残り続けていたけれど、それでも、私はあの男が言っていた『ビジネス』に乗る気にはならなかった。なぜなら、私の隣にはカンナが居たからだ。彼女とすごしている間は、二人三脚で、でこぼこなあぜ道を、或いは陸上競技のハードル走のような困難な道を、進んでいるような感覚になる。「せーのっ」で息を合わせながら、一つ一つ超えていくような、そんな感覚。彼女とは放課後になるまで基本的にずっと一緒だ。カンナは部活があるから、帰る時は同じではないけれど、それでも教室から出るほんの直前までずっと隣にいる。そして扉から一歩足を踏みだした時に、いつも決まって、「じゃあね、また明日。」と、お互い同時に言う。そして二人して笑い合う、までがワンセットだ。


その日は暖かい風が吹く日だった。帰ろうとした私の目の前には…彼がいた。校門の少し横、その暖かい風を前髪に浴びながら、彼はそこに立っていた。私はそこを通ろうとして、彼の横顔にドキン、とした。つい足が止まってしまう。それは以前まで…そう、彼に告白する前まで…のように、彼のその魅力的すぎる横顔に惹かれたからでは無い。私の、彼に対する羞恥心や、なんとも言えない気まずさを、彼の存在によって認めざるを得なくなったからである。『なんでここにいるんだろう。』と、つい思ってしまう。彼だって、ここの学校の生徒なのだから、そこに居ることに不思議など一切ない。でも、あの日以降、私が彼をなんとなく避けていたからか…それとも反対に、彼が私を避けていたからか…なぜだか彼がそこにいるのが、私にはとても奇妙に思えた。

彼はスマホを見ながら、誰かを待っているようだった。周りをキョロキョロ見回しては、またスマホに視線を戻し、また見回し…を繰り返している。その間、私はずっと彼のことを見ていたが、彼が視線を上げた時も、なんの偶然か、私と彼の視線が合うことは一度もなかった。もしかしたら、彼が意図的に逸らしているのかもしれないが。そこで私に浮かんだ正直な疑問は、『誰を待っているんだろう。』だった。私は校門前で列を作っている人たちから少し離れたところで彼を見つめ続けていた。うちの学校の校門は結構狭く、そこを出るまでの間は、みんな一列になって窮屈そうにしている。でもそこを出た瞬間、まるで突然飛べるようになったツバメの雛鳥のように、わっと解放されて、そして右に左に、各々の帰路へとつくのだった。


と、彼が突然私の方を見た。私は慌てて目を逸らしたが、しかし依然として彼はこっちを見つめている。なぜだろう、と私は思った。なぜ彼は私から目を逸らしてくれないんだろう。

けれど、私はすぐに気づかされることになった。彼は確かに私の方を見ていたが、決して私を見ている訳では無かった、ということに。

おまたせー。という女の人の声が後ろから聞こえた。彼は大きく手を振った。恐らく、私の後ろから来ているその人に向けてだろう。そしてその声の主は、私の横を通り過ぎ、そのまま彼の元に駆け寄って行った。女の私から見ても、綺麗な人だった。身に付けているリボンの色的に、学年は一つ上で、彼と同学年だ。しかし、その溢れ出す大人びた雰囲気、品格とすらも言える程のその一つひとつの挙措に、本当に同じ高校生かと疑うほどだった。彼はスマホをポケットにしまい、その女の人と一緒に、校門前に作られている列に並び始めた。

『俺、もう付き合ってる人いるんだ。』

という彼の言葉が、私の脳内に蘇る。彼の言葉は音の塊となって、やがて私の頭の中をあちらこちらに動き回る。壁にぶつかって跳ね返る度に、その塊は私の頭の中であまりにも大きく広がって、もはや周りの音など聞こえなくなっていた。彼が門の外へ出ようとしている。今私がいる位置と彼との距離はそう離れていなかったけれど、なぜだか彼がどうしようもなく遠く、小さく見えた。

彼を引き留めたかった。できることならあの門を、彼と一緒に通りたかった。でも、私にそんな権利はない。そして私は、彼が門を通り過ぎるのを見届ける前に、自分の教室に向かって走りだしていた。


教室に着くと、ちょっと前までの、学校が終わった後のあの賑わいとはうって変わって、異様に静けさだけが流れていた。私は自分の席に座り、窓からあの校門を眺めた。そこに彼はもういなかった。なんでここまで戻ってきたのか、私自身にもよく分からない。でも、この席に座ったら、なんだか心が少し休まる感じがした。

彼に対する私の想いは、既に整理がついたものだと思っていた。しかし、実際にその光景を目の当たりにすると、私の中の憂鬱は、無理やり押さえつけられていた分が一気に解放されたかのように、今まで経験したことが無い程に膨れ上がった。


―どうしようもなく、辛かった。


と、そこで私は、先日家にやってきた、あの男の言葉を思い出した。

『あなたの不幸、桜に変えてみませんか?』というあのキャッチフレーズが頭をよぎる。一度考え出すと、あの言葉が脳裏に焼きついて離れない。そしてあれだけ信用していなかったあの言葉に、今度は親密さすら感じていることに私は気づいた。あの言葉を、本当に信用していいのか分からない、が今の私はまさに、藁にもすがりたい気持ちなのだ。そして、私は決心した。


そうだ。この憂鬱を、晴らしてもらおう。


と、私はいつの間にか、自分が涙を流していることに気がついた。なんで泣いているのだろう、と自分でも不思議に思ったくらいだ。でも、私のこれ以降の人生で、きっとこれよりも辛い出来事は起きないだろうと確信できる。そしてこれからその出来事も、つまらない日常の一コマへと変わる。もしかしたらこの涙が、私の人生で流す最後の涙になるかもしれない。だから、今は泣けるだけ泣いておこう、と思った。


「エミ?どうしたの?なんで泣いてるの?」

扉の方から声が聞こえたので顔を向けると、そこにはカンナが立っていた。彼女は驚いた顔をしてこちらを見ている。

「あ…いや、なんでもないの。」

と、私はなんだか泣いている自分が恥ずかしくなって、顔を拭いながら誤魔化そうとする。

「ほんとに?ほんとに、大丈夫なの?」

彼女は心配そうにこちらに歩み寄ってくる。そして、私の席の隣に着くと、

「部活の道具取りに帰ったら、エミが泣いてるんだもん。びっくりしちゃった。」

と、言った。ごめんごめん、と私は少し笑いながら謝る。

「でも、ほんとに大丈夫だから。」

―そう。もう、なにも悲しくなんてない。あの思い出は…私の心をいつまでも捕らえ続けている、あの憂鬱は…これからもう、に変わるんだ。そう思ったら、なんだか今度は逆に浮かれたような気分になってきて、

「ねぇ、カンナは最近なんか嬉しいこととか、あった?」

と、彼女に聞いた。

「え、なに突然。」

「いいから、何かはあるでしょ。」

私とカンナはなにかしらの、見えないもので繋がっている。と、少なくとも私はそう思う。だから彼女の嬉しかった出来事を聞けば、私の身にも何か嬉しいことが起きる、そんな気がしたのだ。

「嬉しいことかぁ。」

彼女はしばらく悩んでいた。私は、その彼女の返答を心待ちにした。

しかし、返ってきた答えは、私を酷く混乱させた。


「あ、そうだ。私、新しい犬、飼い始めたんだよ。」

「え。…へぇ、そうなんだ。」

正直、意外だった。彼女は最近愛犬を失ったばかりで、まだそこから完全には立ち直れていないと思っていたのに。何より、カンナはあの犬こそが世界で一番、というふうにあの子を溺愛していたから、完全に立ち直った後でも、また新しく犬を飼うなんてことはしないと思っていた。

「そうなんだ…新しい犬を、ねぇ。」

と、私が呟くと

「なに、そんなに意外?」

カンナが少し笑いながら聞いてきた。

「いや、だってさ…その、ちょっと前に、カンナが飼ってた犬が、死んじゃった…じゃん。だからさ、まさかもう新しい犬を飼うなんて、思わなくて…」

私もカンナに合わせて、ぎこちないながらも少し笑いながら答えた。

しかし、そこで彼女から返ってきた答えは、よりいっそう、私を混乱させることになった。


「…ああ、そんなこともあったね。そんなことよりさ、新しく家に来た犬、すごい可愛いんだよ。」

彼女は、そう答えた。

私はそれを聞いた瞬間、凍りついたように体が固まった。

ひどく困惑した。彼女はあの犬を心の底から愛していたはずで、そしてその死は、彼女にとっての最上の悲しみであったはずなのだ。決して『そんなこと』で収まるはずがない。私の中で、世界が止まった。彼女がそんな私に構わず喋り続けているのが分かるが、それが分かるだけで、内容は耳に入ってこない。それほど彼女の言葉は衝撃的で、私の心を奪い去った。憧れの彼から言われた、あの言葉よりも、ずっと。


すると突然、窓の外の景色が、一面ピンク色に染まった。よく見るとそれは、あの桜吹雪だった。カンナはそれを眺めて、

わぁ、キレイ。と、呟いた。彼女だって、何度もそれを見ているはずなのに。

『あなたの不幸、桜に変えてみませんか?』

例のキャッチフレーズがまたしても頭に浮かんだ。そこで私はハッとした。気づいてしまったんだ。


あぁ、そうか。

彼女の悲しみは、桜吹雪に変わってしまったんだ。


彼女のところにもきっと、あの全身ピンクのビジネスマンがやってきて、そして彼女は、あの交渉…彼らの言葉で言うところの、『ビジネス』に…乗ったのだ。

彼女の悲しみは、私の憂鬱が和らいでいくと共に…私と同じように…和らいでいっているものだと思っていた、否、思い込んでいた。少なくとも、表面上はそう見えた。でも、彼女の悲しみは、私なんかでは想像もできないほど、私なんかでは拭いきれないほど、深く、激しいものだったのだ。


新しく飼い始めた犬の話をしている彼女は、心から嬉しそうだった。まさに、背中に負った重たい荷物を脱ぎ捨てた後のような、そんな身軽さが感じられた。私も今、きっと同じようなものを背負っている。そしてそれを背負いながらも、重い足取りで、ゆっくりゆっくり進んできたつもりだ。しかし、ふと顔を上げれば、彼女はとうにそれを捨て、私を置き去りにして、遥か前に進んでいた。今からでは、とても追いつけそうにない。私もそれを捨て去らない限り。

でも私の中に、それを捨ててしまおうという考えはもう、無くなっていた。さっきまでの私は、あの憂鬱こそが一番の悲しみであると思っていた。しかし、彼女を見て…苦しみを忘れ、解放された彼女の心を目の当たりにして…それを忘れてしまうことこそが、本当の悲しみであるということを思い知らされたのだ。彼女の頭は、まだあの犬のことを覚えているのだろう。しかし、彼女の心からは既に、失われていた。そして、二度と再生することは、無い。


私の目には、またしても涙が浮かんでいた。しかし、さっき流した涙と、今の涙は、全くの別物であった。この世界で、自分ひとりが取り残されたような感じがした。


「また、泣いてるよ。どうしたの?」

彼女がようやく私の様子に気づいたようで、また心配そうな顔つきでこちらに話しかけてきた。

「…いや、なんでもないの。」

さっきと同じように、そう答えた。その声は、かえってさっきよりも落ち着いていた。

「もう、大丈夫だから。」

そう、とカンナは言う。私はもう彼女の方を見ておらず、はるか地平線の先を見ていた。そっちの方向に、本当の彼女がいるように思えた。

「やば、こんな時間。部長に怒られちゃう。」

と、カンナは教室の後ろにある自分のロッカーを開き、その中をゴソゴソと漁り始めた。私も、もう帰らなければいけない時間だった。椅子から立ち上がり、教室の扉へ向かう。

「じゃあね、また明日。」

扉から一歩踏みだしたそのタイミング…いつもと、同じそのタイミングで…彼女はロッカーに目をやりながら声を掛けてきた。彼女のロッカーは扉からは最も遠い位置にあった、といっても当然、そこまで扉から距離がある訳では無いのだが、それでも、やはり彼女は遠かった。いつもは、すぐ隣で言ってくれるはずなのに。

「うん、また明日。」

と私は言って、教室を後にする。今日は教科書をたくさんリュックサックに詰め込んだので、少し背中が重かった。でも、私の歩みを遅くする程の重さではなかった。


家に帰ってきた後、部屋にある机の引き出しを開けた。その奥に、私が以前入れた通りのそのままで、あのパンフレットが入っていた。その引き出しは、窓の外から差し込んでくる日光がちょうど当たらない場所にあり、奥の方は薄暗かった。私はそのパンフレットを、徐ろにその薄暗い引き出しから取り出して、そしてそれを、やけに慎重に机の上に置いた。まるで、ショーケースから希少なダイヤモンドを取り出す宝石商のように。

例のキャッチフレーズも、やはり変わらず、中央に大きく据え付けられていた。その下に、おそらく『不幸を桜に変える会』のものと思われる電話番号が書かれている。ここに電話をすれば、私はあの憂鬱から解放される。そしてきっと、今よりずっと楽な暮らしを送れるのだろう。彼女が、そうして、ああなったように。

私はしばらくそれをじっと見つめたあと、それを再び手に取って今度は、思い切りよく、ビリビリに破いてしまった。


―もう、私には必要ない。


私は考える。カンナは、窓の外に桜吹雪が流れたその時、わぁ、キレイ。と呟いていた。しかし、私はその光景に全く心惹かれなかった。私だって以前は、もっとあの景色を純粋に、楽しんでいたはずなのに。そしてそれが振りまく幸福感を、一切の疑いもなく、享受していたはずなのに。あの男は言っていなかったが、きっとあの桜吹雪によって心が癒されるのは幸せな人間だけで、不幸を被っている人間には響かないのだろう。それは、真に手を差し伸べられるべき人間を、救ってはくれないのだとしたら、だったら、私の憂鬱を桜に変える意味も、あまり無いような気がしてきた。

そして更に一つ、気づいたことがある。

そういえば、と。そういえば、憧れの先輩から振られた、ってこと、カンナに言ってなかったかもしれない。彼女が一人で悲しみを捨て去って遠くに行ってしまった時、私は彼女に裏切られたような気分にすらなったが、しかしそれ以前の彼女も、私に対して同じような感情を持っていたのかもしれない。なぜ私だけが苦しんでいるのだろう、と。

ごめんね。と私は呟いた。一人にさせて、ごめんね。


― 私はもう、あなたの傍には居られそうにないや。

― でも、もう大丈夫、でしょ?あなたも私も、もう一人で生きていける。

― 遠く離れても、ずっと友達だから。


その紙を全て破ききった後、ゴミ箱の中に捨てようと思ったら、既にパンパンに詰まっていてもう入りそうにない。細切れにされて一箇所に集められたその紙の束を、どうしようかとしばらく悩んでいたけれど、もう、いいや。と思って、横にあった窓を開け、そしてそこから、まとめてその破片たちを投げ捨てた。


もうなにも構うことはない。


外に飛び出たそのピンクの紙の束は、一枚一枚ひらひらと舞い踊りながら風に飛ばされていく。その光景はまさに、桜吹雪が吹いているようだった。

明日の天気はなんだろう、と私は呟いた。

明日になれば分かるよ、と誰かが言った気がした。

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晴れ、時々『桜吹雪』 秋野 秋人 @Aki-To_06

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