第11話 島津羽莉(4)

 わたしはんのんちゃんの家には暫く行かなかった。課題を理由にしてんのんちゃんの誘いを断り続けた。三原さんの言葉が胸に矢のように刺さって取れなかった。

 一週間ほど経ってからだろうか。弘見くんからわたしの携帯にメールが届いた。

『水玉シュシュ三年生もらえませんか。あきたデイジーなら持っているので交換でお願いします』

 弘見くんとは普段はアプリでやり取りしている。メールが届くのは珍しかった。しかし水玉シュシュも秋田なんとかもわたしにはまったく聞き覚えのない単語だった。

『ごめんなさい、ちょっと意味が分かりません。どういう意味ですか? ゲームのアイテムか何かですか?』

 そう返信すると、すぐに弘見くんから返事が来た。

『ごめん、間違えた。間違えて島津さんに送っちゃった。悪いけどさっきのメール削除して』

 間違いだったのか、とわたしが思った直後にまたメールが届いた。

『悪いけど、すぐに消してね。絶対に残さないでね。あと、さっき送った内容のこと絶対に調べないで』

 弘見くんが言っていることは何もわからなかったが、とりあえず『わかった。そうするね』とと文を打ち始めた。しかし打っている途中で続々と弘見くんからメールが届いたのだった。

『はいはい気持ち悪いですねそうですね。僕だって好きでこんなんになってるわけじゃねえよ。女に生まれて綺麗な服着て周りからちやほやされてにこにこ笑ってりゃ上手くいくような世界で生きてる島津さんには想像もできないだろうけどね。お前らと違って男は業を背負って生きているんですよ。夢みたいなお花畑で毎日きらきら過ごしてる女にはわかんないだろうけどさ。なあそうだろ、さっさと返事しろクソバカ女』

『返事ないんですね、そうですね。どうせこのメールも軽蔑しきった目で見てるんでしょ。高い高いお空の上からさあ、見下ろすゴミの姿はさぞ滑稽に映るんでしょうねえ。楽しいでしょうねえ。やさしいやさしい世界でかわいくうれしく毎日を過ごしているあなた達を支えているのはゴミみたいな僕たちだってこと、考えたことありますかあ。ないでしょうねえ。女に生まれただけでイージーモードである環境に心から感謝しろこのカス女』

 こんなものが矢継ぎ早にわたしの携帯電話に届き始めたものだから、わたしはすっかり気が動転して、半ば縋りつくような形でその場にいた三原さんに助けを求めた。彼女は上手く説明できないわたしを落ち着かせ、ひとつひとつ話を真剣に聞いてくれた。

「うん、わかったよ。大変なことが起きているんだね。とりあえず、メールの文面を見せてもらうね」

 三原さんはわたしの携帯を手にして弘見くんの意味不明な長文メールに目を通す。そうしている間にもメールは届き続けているらしく、わたしの携帯がぴこんと光って震えた。

「そうね、弘見くんの言ってること私にもよくわからないな。文章も支離滅裂で島津さんの返信とも噛み合わない。大量の独り言を島津さんに送って来てるだけに見える。気にしなくていいよ、こんなの。まともに取り合ったら島津さんがおかしくなっちゃう。全部消しておくね」

 三原さんは素早い手つきでメールを削除し始めた。しかしきりがないらしく、途中で切り上げて携帯をわたしに返した。

「島津さん、次に暇なときいつ? 久し振りにんのんちゃんに会いに行こうか。なんだか急に会いたくなっちゃった」

「えっ?」

 唐突な提案だった。わたしは、大嫌いなんでしょ、どうして、と口を開きかけたが、三原さんの顔を見て固まってしまった。三原さんはあの日と同じ顔をしていた。

「い、いつでも。いつでも空いてる。んのんちゃんに連絡とってみる。多分、すぐ。すぐ遊べるはず」

 わたしはすぐにんのんちゃんに約束を取り付けた。


 三原さんはその日お土産に大量のクッキーを買って持ってきた。三原さんが持参したクッキーは三人では食べきれないほどの量だった。んのんちゃんはクッキーと三原さんの両方をとても喜び、笑顔で迎え入れた。それからわたし達はクッキーとイカホロの話を大いに楽しみ、大いに笑った。

 しかしこの日三原さんはわたし達の幸福に満ちた会合からたびたび抜け出した。

「ごめんなさい、今、生理中なの。何度もお手洗いに立つことになるけど許してね。出血量が多いからほんと困っちゃうよ」

 三原さんがわざわざこんな風に説明するのはどこか不自然に思えたが、三原さんの退っ引きならない状況はわたしも同じ女としてよく理解できたので、彼女が繰り返し席を立つことを訝しむことはなかった。

 しかし三原さんが何回目かのお手洗いに立ったとき、わたしはこの家にサニタリーボックスがないことを思い出した。この家はお母さんが高齢のため、それはもう必要とされないのだった。三原さんは黙っているけれども、きっと捨てる場所がなくて困っているに違いない。わたしはクッキーが入っていた紙袋を手に握り、

「わたしもちょっと行ってくるね」

 と三原さんの後を追った。

 三原さんの姿はすぐ見つかったが、しかし三原さんはお手洗いではなく別の方向へ向かっていく。わたしは不思議に思いつつ彼女を目で追った。三原さんは弘見くんの部屋にまっすぐ向かい、すっと戸を開けて中に入ってしまった。

 わたしは慌てて三原さんを追いかけた。

「三原さん、どうしたの? お手洗いの場所そこじゃないよ?」

 三原さんはわたしの顔を見るとさっと顔を青くして、すぐにわたしの腕を引いて戸を閉めた。それから素早く内側から鍵をかけ、戸が開かないか何度も確かめた。

「島津さん、どうしてここに? 島津さんもお手洗いだった?」

「ううん。サニタリーボックス、この家にはないから三原さんが困ってると思って」

「ああ、それで来てくれたの、ありがとう。だけどね私、いま生理じゃないの。だから大丈夫だよ」

「えっ? 嘘をついたの?」

 三原さんは答えなかった。

 三原さんは狼狽えたような顔つきで弘見くんのパソコンを起動した。スリープモードだったらしくすぐにデスクトップが表示される。

「あのね島津さん、私が良いと言うまでこの部屋から出ないでね。それから大きな声や音を出すのもだめ。わかった? 島津さんがここに来たってことは、もうバレるのも時間の問題。急いで終わらせないといけないの。よろしくね」

 三原さんは弘見くんのベッドの上に放置されていたタブレットを引き寄せ、パソコン画面と交互に見ながら言った。声が緊張で少し強張っている。わたしは三原さんの行動の一切が理解できなかったが、彼女の鬼気迫る表情に頷くしかなかった。

 男の子の部屋はなんだか別世界に感じられた。部屋に漂う空気も匂いも嗅いだことのない独特のものだった。部屋にあるものは家具も服も色もすべてが乱雑ですべてが散らかっている。わたしは緊張を紛らわせる気持ちで、ベッドの枕元にあった不思議な形の物体を手に取った。見たこともない形だ。何かのオブジェにも見える。しげしげと手に取って眺めていると、三原さんのぴしゃりとした声が響いた。

「島津さん、そんなもの触ったらだめ!」

 わたしは飛び上がり慌ててそれを捨てた。物音を立てるなと言った三原さんが大声をあげるのは辻褄が合わないと思ったが、三原さんがあまりにも厳しい顔つきをしていたので何も言えなかった。

「いい島津さん。この部屋を出たら絶対に手を洗って。五十回くらい洗って」

「五十回も洗ったら手が切れてしまうわ」

「そうね、ごめんなさい。五回洗って」

 三原さんは少し焦りながら弘見くんの学習机の引き出しを開けた。一番上の引き出しから出した手帳とパソコンのメール画面を見比べている。パソコン画面には弘見くんがわたしに送った意味不明な長文メールの記録が残っていた。

「セキュリティがこれだけ杜撰なんだから多分何の捻りもないはず……。相手が弘見くんだからできることだわ」

 三原さんはぶつぶつと何か言った。

 三原さんの声は震えていて、いつもの優しく落ち着いた声からは程遠い。わたしにはこれが何による震えなのかわからなかった。弘見くんに見つかるかもしれないという緊張だろうか、それとも他人の秘密を暴くという興奮によるものだろうか。黙って見ていると、次第に声だけでなく身体も震え始めた。かすかに聞こえ始めた妙な音の正体が三原さんの歯のがちがち鳴る音だと気付いたときにはぎょっとした。

「あった……」

 三原さんは上擦った声で言った。口から洩れる呼吸が荒かった。

 三原さんはある動画ファイルをクリックした。読み込みが遅いらしく、映像はなかなか始まらなかった。三原さんは震える手で首元の鎖を引き抜く。虹色に輝くイカホロの笛が三原さんの白い手の中でがちゃがちゃに揺れた。

「ああ、お願い。お願いします。どうか……、おねがい、おねがい……」

 暫くして動画が始まった。古い映像だった。小学校に上がらないくらいの年の女の子だろうか。幼い身体の腰から下しか映っていない。白い靴下には「DAISY」と刺繍がされていた。背景に映る看板にはうっすらと「あきた」と書かれているが、三原さんの様子が急におかしくなったのでわたしは動画から目を離した。

「三原さん、三原さん大丈夫?」

 三原さんは腰を抜かして座り込んでいた。三原さんの顔は青白く、肌は粟立ち、全身が小刻みに震えていた。喉の奥から獣の鳴き声のようなものが聞こえたが、歯のがちがち鳴る音にかき消されて聞こえなかった。動画は続いているらしく音声が聞こえてくるがそれどころではなかった。三原さんはこの頃には身体を支え切れずに倒れ込んでしまっていて、彼女の両目から涙が滝のようにこぼれては耳の中に流れ込んだ。

「三原さん、ねえ、しっかりして」

 このままでは三原さんが死んでしまうと思った。わたしは三原さんの言いつけを破って戸の鍵を開けた。誰でもいいから三原さんを助けてほしかった。部屋から飛び出すわたしの目に映ったのはフリルとピンクのかわいいスカートだった。わたしは水面から空気を吸うような気持ちで顔を上げた。

「ハッカーごっこは楽しかったか、だらくそ女ども」

 相手の憎悪に満ちた目がわたしを射た。わたしは静かに項垂れた。

 相手は荒々しい足音と共に部屋に入ってきた。わたしは相手を呼び止めることができなかった。

 今目の前にいるこの人をんのんちゃんと呼ぶべきか、弘見くんと呼ぶべきか、わたしにはわからなかったからだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る