第1話 高山理子(1)

「小川未明の作品は非常に色あざやかで洪水のようであります。豊かな色彩を巧みにつかう作家の目に、日常の世界はどう映っていたのでしょうか。あなた方には小川未明の見る景色がどのように輝いていたのかを知る使命があります。この演習を終えたとき、きっとあなた方の目に映る世界は色とりどりに輝いているでしょう」

 揺蕩うように大学生活を送り続けて早三年目、要項どころか授業名もろくに確認せず、それどころか講義と演習の違いを区別しないまま適当に、同じ言語文化学コースの授業だからと舐めた態度でアタシはある授業の手続きを済ませてしまった。しかしこんな授業取るんじゃなかったとガイダンスに出席しながら心の底から後悔していた。

 日本文学演習・小川未明研究概要

 アタシの手元にあるレジュメの表紙には明朝体でそう書いてある。

 この授業を担当する恒山先生は五十半ばなのだが、その目はまるで少年のように輝いていて、それは恐らく目に映る色とりどりの何とやらのせいでそうなっているのだろうなあとアタシは頬杖をつきつつぼんやり考えた。しかし生憎アタシはといえば、恒山先生と違って小川未明なんて一度も読んだことがない。名前しか知らないし、男か女かさえも知らない。それにだ。このレジュメに書かれた大量の課題。小川未明の色彩と童話観とイメージの分析、これらをテーマにしたレポート提出と発表、ディスカッション、そして小川未明全集の全文文字起こしによる電子テキスト作り、小川未明語彙辞典の完成。小川未明の作品がどれだけ色あざやかで輝きに満ちていたとしても、これだけ大量の課題を前にしては、アタシの目に映る世界はしだいに色褪せてくすんでしまうだろう。

 アタシがレジュメにげんなりしたり睨みつけたりの変顔をし続けていたら、隣に座っていた三原杏奈がそっと耳打ちしてきた。杏奈はアタシと同じ言語文化学コースの三年生で、恒山先生のゼミに所属している。

「りこちが恒山先生の授業を取るなんてびっくりしたよ。違うゼミなのに大丈夫なの。ついてこられるの」

「大丈夫なわけないやろ」

「間違えて取ったの?」

「いや間違えたっていうか、適当に登録してしまったっていうか」

 アタシはわざとらしく溜息を大きくひとつ吐くと、杏奈の奇怪な鞄をばしんと叩いた。

 アタシは杏奈が自分の鞄を何より大切にしているのを知っていて、時折わざとこうやってからかう。杏奈は頬を膨らませてアタシを睨んだ。しかしその顔は本気というよりはどこか大袈裟で芝居めいている。これは冗談に冗談を返すアタシ達のお決まりのやり取りだ。

「それにしてもどうしよ。正直こんなんやと思っとらんかったわ。何しろ課題の量がえぐすぎるわ」

「恒山先生の授業は課題がたくさんあることで有名だからね。しかも小川未明は恒山先生が研究している作家だから、この授業は通年で行われるよ。りこちには辛いものがあるんじゃないの」 

「いやあ、完全にしくったわ。どうしよう」

 思ったよりも大きな声が出てしまった。すると、気分を害したのか恒山先生はおおんと咳払いをひとつした。

「概要プリントに書いてある課題の話ですが、ボクが特に力を入れたいと思っているのは、小川未明の全作品の電子テキスト作りです。これは未明作品に出てくる人名、地名、色彩、語彙などを調べる上で非常に大切なんですね。皆さんには手分けしてもらって、小川未明全集の本文をすべてパソコンで入力してもらいます。これは皆さんにも非常に意味のあることで、電子テキストを作るためには、本文を読むことになりますよね、そうなると自然と小川未明の内容に触れることになって……」

 今、この教室には学生が十五人いる。恒山先生は、小川未明の電子テキスト作りのためにこの十五人を三つのグループに分け、一グループにつき全集五冊を担当してもらうのだと言った。

 原則として電子テキスト作成の時間は授業内には設けず、各自授業外の時間を使って進めておくこと。パソコンを持っていない学生は総合メディア基盤センター内のパソコンを使うこと。電子テキストが完成するまでは、全集のコピーを配布するのでそれを使って演習授業を行っていくこと。三つのグループはテーマ発表やディスカッションにおいても共通なので、グループ内でしっかりコミュニケーションを取っていくこと。恒山先生はこれらの難問を実に軽い口調で言い放った。

 パソコンという単語に不安になったアタシはこそっと杏奈に耳打ちした。

「なあ、文字起こしの話やけど、アタシ、フリック入力しかできんげん。パソコンってフリック入力できるが?」

「残念だけど、パソコンではフリック入力はできないかな」

「ええ、そんなんやったらアタシ無理やわ。一文字打つのに三分はかかるわ。一グループで全集五冊って、一人あたり一冊やるってことやろ。グループの人に迷惑かけてしまうがん、アタシそんなん嫌やわ」

 とんでもないことを言われたものだとアタシは思った。アタシはパソコンを持っていない。もっと言うとプライベートな時間を大学に束縛されることも好きではない。むしろ大嫌いである。いくらなんでもあんまりなので、落胆を通り越して恒山先生に怒りすらわいてしまう。アタシは戦慄きながら、恒山先生に聞こえるようにわざと大きな声で言ってやった。

「なんや、こんなんもうめちゃくちゃやろ。レポート、レジュメ、発表、ディスカッション、これらだけでも大変なんに、電子テキスト化も時間外にやれって、無茶すぎるわ。第一これ、恒山先生が電子テキストを自分の研究に使いたいだけの話やろ。アタシ達ただの雑用要員やんけ!」

 アタシの野次に恒山先生の右眉が痙攣を始めた。まるで海岸に打ち上げられた魚のようだ。恒山先生はどちらかというと温厚な性格なのだが、今は怒るか怒らないかのラインを反復横跳びして耐えているように見える。これには流石のアタシも失礼なことを言ってしまったなと後悔した。雑用要員のくだりが特に良くなかったと思う。しかし反省したところでどうにもならない。大人しく怒られるのを待つしかないのだろうか。

 アタシの野次に感化されたのか、教室にいる学生たちもひそひそと弱音と不安を漏らし始めた。やはり皆、恒山先生の課題に思うところがあるらしい。恒山先生はもう一度おおんと咳ばらいをしたが、しかしもう、教室は始まりのときのような厳粛な雰囲気には戻らなかった。すっかり雑談の場と化してしまい、恒山先生への文句が降り始めた。

「確かにちょっと要求が多過ぎるよね」

「学習だけならいいけどさ、恒山先生に上手く利用されてる感があるよな」

「雑用要員、言い得て妙だわ」

 教室いっぱいに降り積もってしまった文句に恒山先生はすっかり困りきった様子で、どうしたもんですかねえと気の抜けた声を出した。かいてもいない額の汗を手拭いで拭き拭き、丸々太ったおなかを重そうに突き出した。右の眉はもう痙攣していない。なるほど、これならアタシが怒られることはなさそうだ。

 アタシはよしよしと満足げに笑みを浮かべたが、しかし今度は恒山先生が可哀想に見えてきた。教室は今やすっかり恒山先生対学生の図が出来上がってしまっている。

 そのとき杏奈が大袈裟に手を挙げて立ち上がった。

「先生、雑用要員を代表して私からお願いがあります!」

 学生たちがどっと笑った。

「おお、三原さん。何でしょう」

 ここで一度、杏奈はくすっと恒山先生に笑いかけた。自分は先生の敵ではありませんよ、と言いたげな愛嬌のある微笑みだ。これが杏奈の得意技だということをアタシはよく知っている。いつも通り効果は覿面で、困惑状態にあった恒山先生の表情をたちまちやわらかくした。アタシは心の中で杏奈に拍手を送った。

「先生にお願いしたいことはですね、電子テキスト化についてです。まず、スマホでの作成を許可してほしいです。パソコンだって全員持っているわけではないし、いちいち総合メディア基盤センターに行くのも大変です。県外から大学に通ってきている人もいるようですし、その人にさらに移動を強いるのは可哀想です。それに、キーボードを上手く打てる人ばかりじゃない。スマホの方が早く打てる人もいます。だから、スマホの方が早く打てる人は、スマホで打ってデータだけ共有したらいいと思います。そっちの方が早いし、私たちの負担も減ると思います」

 学生たちが杏奈の方を見た。隣の席の学生と顔を見合わせながら、囁き合いながら。しかし表情はどれも明るい。杏奈が自分達の意見を代弁してくれているのだから当然だ。

 杏奈は尚も続けた。

「それから、パソコンで地道に本文を手打ちしていくのは本当に本当に大変なので、テキストスキャナーなどのアプリも使わせてください。もっとも、私も使ったことがないので上手くいくかはわかりませんが……。とにかく、手打ちに限定せず、いいツールがあればそれを使っても良いということにしてほしいです」

「ううむ」

 恒山先生が唸った。声や表情からすると満更でもなさそうである。あと一押しといったところか。

「先生、私たちもそれなりに忙しいんです。バイトにサークル、他の授業の課題だってあります。もっと私たちに楽をさせてくださいよ。だって、これのせいで未明が嫌いな人が増えるの、先生だっていやでしょ?」

 ふふ、と杏奈が笑った。それにつられて恒山先生もふふふ、と笑った。学生たちも未明が嫌いになるという杏奈の発言にすっかり共感してくすくすと笑い始めた。和やかな笑みは静かに広がっていき、小さな池に生まれた波紋のようにゆっくりと教室の隅々まで行き渡った。

「そうね、ボクも機械まわりのことはよくわからないですからね、細かいことはこちらで定めず、電子テキストが完成すれば、何でもよしということにしましょうか。計画はグループ各自で立ててください。ボクもあれこれ皆さんに求めてしまって、ごめんなさいね」

 この言葉で恒山先生対学生の図は崩れ去った。電子テキスト化について変更されたのは些細なことで、アタシ達の負担はそれほど軽減されたわけではなかったが、恒山先生が謝罪したことで皆の荒んだ心が和らいだのである。

 それから恒山先生は席の並びから適当に三つのグループを作った。

「じゃあここに座っている人たちがグループA、その隣の列がグループB、その後ろに固まって座っている人たちがCということにしましょう。残り時間はグループごとに分かれて、今後の方針について話し合ってください。さっき言った電子テキスト化についての進め方ですとか、自己紹介とかね、親睦を深めてください。小川未明全集は見本としてここに置いておきますから。Aが一巻から五巻、Bが六巻から十巻、Cが十一巻から十五巻です。何かあればボクに聞いてください」

 杏奈を含むアタシ達は後ろの席に座っていたので、グループCに配属されたらしかった。アタシはぐるりと後方の座席を見まわし、杏奈以外のメンバーを確認する。残り三人の内二人はアタシ達と同じ言語文化学コースの山根隆と滝沢マヤだったが、残り一人は見たこともない女の子だった。言語文化学コースで月に一度開かれる討論会でも見たことがない顔だったので、おそらくは他のコースからの参加なのだった。同じコースのアタシですら怯む課題の量なのに、他所のコースからやって来るなんて相当な物好きかおっちょこちょいのどちらかだと思う。

「ねえねえ、とりあえず一旦座り直そうや。山根くんもそんな隅っこに座っとらんで、こっち来まっし。はあ、滝沢さんもどうぞ。ね、そこのあなた初めまして。どこからいらしたん?  言語文化学コースにようこそ」

 他所のコースの彼女はアタシの勢いにおっかなびっくり、まるで罠にかかった鹿のごとく震えていた。この反応からすると、彼女がアタシ達より年上ということはなさそうだ。同い年かその下か、何にせよ遠慮は要るまい。

「初めまして、三原杏奈といいます。この言語文化学コースの三年生です。恒山ゼミの人間でもあるから、恒山先生の授業でわからないことがあったら、遠慮せずなんでも聞いてくださいね。他所のコースから来てくれたんですよね? どちらに所属しているんですか?」

「あの、人間科学コースから来ました。あの、何かごめんなさい、余所者が紛れてしまって。他の皆さんは全員言語文化学コースみたいで、なんか、すいません。迷惑ですよね」

「なんでえ、迷惑なんて。そんなこと言う必要何もないわいね。どのコースの人間も自由に申し込みできるシステムねんから、誰も文句言わんわ。文句言う奴がおったら、そっちの方がおかしいやろ」

「でもわたし、文学とかそれほど詳しくなくて。レジュメの作り方とか、発表の仕方とか、ずれた発言をしてみんなの足を引っ張ってしまうかも。小川未明だって、『初夏の空で笑う女』っていうお話が何となく好きなだけで、軽い気持ちで申し込んだから全然詳しいわけでもないし」

「そんなこと言ったらアタシなんて小川未明の性別すら知らんわいね。作品だってひっとつも読んだことないわ。ええと、……誰さんですか?」

「島津です」

「何とかっていう話を読んだことのある島津さんの方が、アタシよりずっと上やわ。気後れすること一つもないわ。というわけで、これから一年間よろしくお願いします。言語文化学コース三年、高山理子です。島津さんは何年生?」

「三年です」

「ああ、よかったあ、同じ学年やったんや。ねえ、三年同士気楽にやろ。もう敬語要らんよ」

「うん」

 島津さんが笑ったので、アタシは大きな達成感を覚えた。アタシがあの、死を覚悟した鹿のようだった島津さんを笑わせたのだということが、何よりもアタシの気持ちを高揚させた。

「ねえ、ねえ、島津さん連絡先交換しよ」

 山根くんと滝沢マヤがそれぞれ簡単な自己紹介をし始めていた。アタシはそれを無視して携帯を取り出そうとバッグの中に手を入れたが、急に上の方でたんとんと変な音がしたので、反射的に顔を上げた。アタシの肩に、小さな個包装のキャンディが三つも四つも当たっていたのだった。

「飴、あげるよ。飴の雨、なんちゃって」

「え、うん」

 島津さんが急に立ち上がって、手のひらいっぱいのキャンディをどんどんアタシに落としている。さっきまで遠慮しいしい話していた島津さんが、今は百均でよく見るような、幼稚園でも見るような、うさぎさんやぞうさんや死ぬほど簡単ななぞなぞが書かれたキャンディを、傍若無人に他人の身体にぶつけている。アタシは全然言葉が見つからなくて、どんどん自分の身体にたまっていくキャンディを見つめていた。太腿の上や肩の上に乗りきらなかったキャンディがつるつると落ちていく。

 次に島津さんは山根くんと滝沢マヤにも飴の雨を降らせた。山根くんと滝沢マヤは眉間に皺を寄せ、滝行のようにそれを耐えていた。初対面で他所から来た人の厚意を、しかもこれから一年やっていかなければいけない相手を無下にはできない、しかし迷惑極まりない、といった気持ちが彼らのその皺に表れていた。

 島津さんはいそいそと杏奈の方へ行き、同じように飴の雨を降らし始めた。アタシにはもうそういう類の妖怪にしか見えなかった。杏奈はアタシ達とは違い、背筋をまっすぐ伸ばしたまま莞爾と笑っている。しかし一方でそれは、土砂降りの中傘も差さずにたたずんでいる人がにっこりと笑っているときのような奇妙な感じもあった。飴降らし妖怪が去ったあと、杏奈は肩に残ったひとつぶの飴を手で払い落したが、その手つきは雨粒を払うというよりは埃を払うときのそれに似ていた。

 それから杏奈は床に落ちた大量のキャンディをしゃがんで拾い始めた。ひょいひょいと素早く指先でつまんでいくが、とても両の掌に抱えきれないので、一旦机に置く。

 置かれたキャンディの中には透明な包装のものがあり、中が透けて見える。いくつかはどろどろに溶け、ねばついた糸が張り付いていたので、アタシは反射的に、ひ、と声を出してのけぞった。

「ねえ、島津さん、随分たくさんキャンディ持ってるんだね。びっくりしたよ。キャンディが好きなの?」

「ううん、別に好物じゃないけど、今みたいに、誰かにあげる用にいつも持ち歩いてるんだ。誰かの喜ぶ顔を見るの、わたし好きなんだよね」

「そうなんだ」

 杏奈はそう言いながら、尚もひょいひょいキャンディを拾って机の上に置いた。

 アタシはふと、島津さんのカバンを見やる。薄汚れたよれよれの布鞄だった。小学生のおけいこかばんのようなキルティング生地に、茶色い染みがついている。中にはぎっしり物が詰まっており、小さなポーチがペンケースやノート類に押し潰されているのが見えた。押しつぶされたポーチは中身が飛び出している。それが生理用品であることに気付いた瞬間、アタシの全身に鳥肌が立った。

「はは、こういうキャンディ懐かしいかも。子供のとき以来かな。うさぎさんの形とか、なぞなぞあそびとか、昔よく見たっけ。ひょっとして、島津さん小さい妹や弟がいたりするの?」

「ううん、兄弟はいないんだ。わたし一人っ子」

「児童文化サークルに入ってたりとか、子供と接するバイトしてたりする?」

「ううん」

「そうなんだね」

 杏奈がすべてのキャンディを拾い終えた。

「こんなにたくさん、ありがとう。島津さん」

 杏奈がそう言うと、島津さんは照れたように俯いた。

「気にしないで。こんなの全然大したことないから」

 アタシ達も杏奈に続いて島津さんにお礼を言った。しかしどうしても痰の絡んだようなぎこちない声にしかならなかった。

 アタシは、お人好しの杏奈が島津さんのためにキャンディをひとつ口に入れてみせやしないかと冷や冷やした。しかしその気配はない。考えてみれば今は授業中だ。杏奈が授業中にお菓子を食べるなんてことするわけがなかった。アタシはほっと息を吐いた。

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