ゆぅ。

第1話 出会い

「読む」ということが、僕にとって意味を持つようになるとは思えなかった。


本を読むことに専念し始めたのは、僕がカフカの『変身』との出会ってからだ。大学で当時ドイツ語を教えていた教授からこの作品を薦められた僕は、すぐに新潮文庫から出ていたこの作品を読み始めた。


読んだときの最初の印象は奇妙なもので、グレゴールという男が突然大きな虫になり、最後には家族からも見捨てられて死んでいくストーリーは、退屈ではなかったけれど、夢中になるのとも違った。


人が虫になるという筋書きは、はるか昔に観た映画『ザ・フライ』と繋がるところがあって、「少しグロテスクなところも作品の醍醐味なのかな。」とか考えてみた。


大学での授業が終わり、大学近くで借りていた部屋に入ってみると、そこに「虫」がいた。それは『変身』を読みながらイメージしていた「虫」とは、だいぶ違う様子だった。


あまりにもその「虫」の登場が突然だったので、驚きや恐怖よりも、むしろ笑ってしまう勢いだったけれど、そんな事態じゃないと自分に言い聞かせた。そんなふうに考えている余裕もあったのが、自分でも怖いくらいだった。


多分、一般的に巨大な昆虫に出くわしたなら、大体の人は飛び退いて倒れるかもしれない。自分もまた、そういうリアクションをとるべきかについて、少し考えてしまった。それほど心に余裕があった。


確かに恐怖はある一方で、どちらというと「虫」に対する好奇心の方が強かった。なので、その「虫」が実際のところ危険なのかどうかは、正直どちらでも良かった、と今は思える。とにかく、玄関に入ってすぐ目の前にある台所で洗い物をしていたその「虫」を、僕はじっと見つめてみることにした。もちろん、念のために玄関扉は開けっぱなしのままで。


足は長くて、黒色。しかもスラッと細くて長いのが気持ち悪い。なぜか二足歩行で、前の方の足で僕の皿をせっせと洗っている。おそらく一応は昆虫だからか、真ん中の二本の足は使わないでぶら下げている。


うっかり「虫」側のリアクションについて書くのを忘れていた。彼と視線(といっても、人間のそれとは少し違うのだけれど)が合ったとき、僕の口から出た言葉が「あ」とかだったのに対し、彼が発したのは、「おかえり」というものだった。それも、僕が帰ってくるのをあたかも知っているかのような様子で。


そんなヘンテコな遭遇、もしくは出会いだったから、その時の印象はあれから何年も経った今でも鮮明に覚えている。これから、この「虫」と僕がどのように関わっていくのかを、ぜひ皆さんにお教えしたい。

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