推殺。

小野村寅太

01 推しに特定されました

第1話 生きていてくれてありがとう

 生きていてくれてありがとう。

 そう思える人に出会えたことは奇跡だった。


 辰巳たつみは手を合わせ、祈るような姿で、降りていく幕を見つめる。小さく息を吐き、拍手を始めた。さざ波のような拍手が、劇場全体へと広がる。音はだんだんと重なり大きくなって、高い波となり、舞台へと打ち寄せた。


 客席の人々は、マスクの下で口を閉ざしたまま、胸の内の熱狂を手のひらに迸らせる。暗闇の中で、無言の激情がパチパチとまばゆくはぜている。辰己も自分の手を壊してしまいそうなほどに、大きな拍手を繰り返す。鼓動と同じテンポで、緞帳の向こうにいるその人に届くよう、手のひらを打ち鳴らし続けた。


 舞台『カンテラ』。辰己の推しであるいぬい縁治えんじが主演をつとめている。大正時代の炭坑での、人々のあり方や時代の流れを描いた作品だ。崩落した炭坑で、カンテラを手に仲間たちと共に生き延びようとする縁治の姿に、辰己は胸うたれた。ラストは決して明るくなく、戦争の始まりとその後の炭鉱の衰退もにじませているが、『今』を生き抜く人々の姿は変わらずまばゆい。


 幕が上がり、スピーカーからメインテーマが流れ出す。暗い舞台上に一つ、二つとカンテラが灯った。辰己は拍手の速度をさらに上げ、観客も呼応する。その熱気に応えるように、ライトが舞台全体を照らし出し、アンサンブル達が駆け出てきた。脇を固める役者たち、ヒロインが続き、最後に主演の乾縁治が姿を現す。


 推し、今日も最高だったぞ。


 炭坑から這い出たばかりの縁治の頬は薄汚れ、衣装もかなり地味だ。だが照明を受けた瞳は星のように輝き、客席中にまなざしを届けていた。一七四センチと大柄ではないが、ゆがみのない骨格と、細身ながらも鍛えられた筋肉が、主役としての存在感を放っている。


 推しの格好良さを浴びて、辰己の拍手は最高速を記録する。マスクで口を塞いでいる分、感謝と感動を手のひらから音として打ち出した。職場の調理場で、キャベツの千切りをしている時より速いだろう。


 舞台の中央に立った縁治が、ゆるりと目配せをすると、拍手がやんだ。辰己も拍手を止めると、手のひらがじんじんと痛んだ。


 縁治は凛とした表情で正面を向き、口を開いた。


「本日はご来場いただき、誠にありがとうございます。みなさまのおかげで、無事に今日、舞台『カンテラ』の中日を迎えることが出来ました」


 拍手。これは皆、短く切り上げる。縁治達キャストの話が聞きたいからだ。

 縁治はわかっているとばかりにうなずき、キャストを見回した。


「中日なので、今日は……ヒロイン役のももなからコメントを貰おうと思います」


 指名されたももなは、明るく自己紹介をした。


「恥ずかしがり屋のピンク担当! はじらいももなです!」


 アイドルとしてデビューし、女優としても精力的に活躍している彼女は、トークも軽快で愛らしい。縁治とは昔、子供向けの特撮テレビドラマシリーズ『響心戦隊ズッキュンジャー』で共演して以来の仲で、それに搦めた話もあり、聴きごたえがあった。


 話すももなをちらちらと見つつ、辰巳は縁治を見つめる。


 辰己の推しは縁治だ。他にはいない。五年前に出会ってからずっと彼の舞台だけ見てきた。縁治が出ているシーンでは、彼だけを目で追ってしまうこともしばしばあった。推しオペラと言われる、オペラグラスで推しだけを見続ける鑑賞方法をとることもある。


 だが、こういう場面では縁治だけでなく、他のキャストのことも見るようにしている。縁治を推しているからこそ、彼が関わる作品や人間のことも大切にしたいと思っているからだ。何より、縁治も必ず話している人を見ていた。


 見ている、はずだった。


 辰己は違和感に気づく。縁治がももなを見ていない。

 その視線は観客席の――。


 俺を見ている。


 そう感じた瞬間、辰己はぞっとした。


 気でも狂ったのか、俺は。


 縁治は男で、いわゆるイケメン若手俳優の枠に入る。だから、現場でも女性ファンが多い。男性ファンであり、デビュー当初からの最古参でもある辰己はかなり目立つ存在だった。当然ファンだけでなく縁治からも存在を認知され、イベントでは気さくに話しかけて貰うこともある。


 だが、こんな時に『俺を見ている』と感じることなどなかった。


 縁治はファンに対して平等な男だ。オキニという、特に気に入って優しく対応しているファンがいたこともない。


 だから辰己は、自分の感覚が信じられなかった。勘違いをした、気が狂ったと思ったのだ。推し活をこじらせすぎて、推しに執着してしまったのか。


 末期だ。辰己の首筋が粟立つ。


 推しを見たい、ではなく見られたいと思ったら終わりだとよくファン達は言う。

 だが、それより危険なのは、推しに見られている、という狂気だ。


 自分の存在が、推しにとって意味があるものだと信じ始めたファンは、もうファンではいられない。五年のファン活動の中で、そうやって身を滅ぼしたファンを何人も見てきた。


 ももなが上手にコメントをまとめ、縁治に最後の挨拶を促す。縁治はふっと目線をあげ、観客への感謝を口にした。


 自分から視線がはずれたのを感じて、辰己はほっとしながら耳を傾ける。


 胸の奥のざわめきは消えなかった。

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