推殺。
小野村寅太
01 推しに特定されました
第1話 生きていてくれてありがとう
生きていてくれてありがとう。
そう思える人に出会えたことは奇跡だった。
客席の人々は、マスクの下で口を閉ざしたまま、胸の内の熱狂を手のひらに迸らせる。暗闇の中で、無言の激情がパチパチとまばゆくはぜている。辰己も自分の手を壊してしまいそうなほどに、大きな拍手を繰り返す。鼓動と同じテンポで、緞帳の向こうにいるその人に届くよう、手のひらを打ち鳴らし続けた。
舞台『カンテラ』。辰己の推しである
幕が上がり、スピーカーからメインテーマが流れ出す。暗い舞台上に一つ、二つとカンテラが灯った。辰己は拍手の速度をさらに上げ、観客も呼応する。その熱気に応えるように、ライトが舞台全体を照らし出し、アンサンブル達が駆け出てきた。脇を固める役者たち、ヒロインが続き、最後に主演の乾縁治が姿を現す。
推し、今日も最高だったぞ。
炭坑から這い出たばかりの縁治の頬は薄汚れ、衣装もかなり地味だ。だが照明を受けた瞳は星のように輝き、客席中にまなざしを届けていた。一七四センチと大柄ではないが、ゆがみのない骨格と、細身ながらも鍛えられた筋肉が、主役としての存在感を放っている。
推しの格好良さを浴びて、辰己の拍手は最高速を記録する。マスクで口を塞いでいる分、感謝と感動を手のひらから音として打ち出した。職場の調理場で、キャベツの千切りをしている時より速いだろう。
舞台の中央に立った縁治が、ゆるりと目配せをすると、拍手がやんだ。辰己も拍手を止めると、手のひらがじんじんと痛んだ。
縁治は凛とした表情で正面を向き、口を開いた。
「本日はご来場いただき、誠にありがとうございます。みなさまのおかげで、無事に今日、舞台『カンテラ』の中日を迎えることが出来ました」
拍手。これは皆、短く切り上げる。縁治達キャストの話が聞きたいからだ。
縁治はわかっているとばかりにうなずき、キャストを見回した。
「中日なので、今日は……ヒロイン役のももなからコメントを貰おうと思います」
指名されたももなは、明るく自己紹介をした。
「恥ずかしがり屋のピンク担当! はじらいももなです!」
アイドルとしてデビューし、女優としても精力的に活躍している彼女は、トークも軽快で愛らしい。縁治とは昔、子供向けの特撮テレビドラマシリーズ『響心戦隊ズッキュンジャー』で共演して以来の仲で、それに搦めた話もあり、聴きごたえがあった。
話すももなをちらちらと見つつ、辰巳は縁治を見つめる。
辰己の推しは縁治だ。他にはいない。五年前に出会ってからずっと彼の舞台だけ見てきた。縁治が出ているシーンでは、彼だけを目で追ってしまうこともしばしばあった。推しオペラと言われる、オペラグラスで推しだけを見続ける鑑賞方法をとることもある。
だが、こういう場面では縁治だけでなく、他のキャストのことも見るようにしている。縁治を推しているからこそ、彼が関わる作品や人間のことも大切にしたいと思っているからだ。何より、縁治も必ず話している人を見ていた。
見ている、はずだった。
辰己は違和感に気づく。縁治がももなを見ていない。
その視線は観客席の――。
俺を見ている。
そう感じた瞬間、辰己はぞっとした。
気でも狂ったのか、俺は。
縁治は男で、いわゆるイケメン若手俳優の枠に入る。だから、現場でも女性ファンが多い。男性ファンであり、デビュー当初からの最古参でもある辰己はかなり目立つ存在だった。当然ファンだけでなく縁治からも存在を認知され、イベントでは気さくに話しかけて貰うこともある。
だが、こんな時に『俺を見ている』と感じることなどなかった。
縁治はファンに対して平等な男だ。オキニという、特に気に入って優しく対応しているファンがいたこともない。
だから辰己は、自分の感覚が信じられなかった。勘違いをした、気が狂ったと思ったのだ。推し活をこじらせすぎて、推しに執着してしまったのか。
末期だ。辰己の首筋が粟立つ。
推しを見たい、ではなく見られたいと思ったら終わりだとよくファン達は言う。
だが、それより危険なのは、推しに見られている、という狂気だ。
自分の存在が、推しにとって意味があるものだと信じ始めたファンは、もうファンではいられない。五年のファン活動の中で、そうやって身を滅ぼしたファンを何人も見てきた。
ももなが上手にコメントをまとめ、縁治に最後の挨拶を促す。縁治はふっと目線をあげ、観客への感謝を口にした。
自分から視線がはずれたのを感じて、辰己はほっとしながら耳を傾ける。
胸の奥のざわめきは消えなかった。
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