第3楽章

 先日のピアノコンクール。彼女は演奏を終えた僕のところにやってきて、こう言った。


「死にたくなるくらい、素晴らしい演奏だったよ」


 その夜、彼女は学校に忍び込んで、音楽室の窓から飛び降りた。その日は綺麗な満月だった。彼女は、死んだ。


 なら、僕が今話しているのは誰なのか。これももちろん彼女だ。幽霊とか、そんな類なのだろう。驚きはなかった。いやもちろん、あれから1週間後の今日、彼女の姿を見た時はさすがに鳥肌が立ったけど。それよりも僕は、彼女に会えたことが嬉しかった。だってまだ、別れも告げられていないのだ。自分の思いすら、伝えられずにいるのだ。


「月が綺麗な、いい夜だった。あの時、私は少しだけ、ベートーヴェンに近づけた気がしたんだ。私は今でも、クラシックの中では“月光”が1番好き。あの曲は、私の全てなの。あなたのピアノに全てを奪われた、私の心」


 ずいぶん毒のある言い方をするんだな、と思った。


「ねぇ。ひとつ、聞いてもいい?」


 僕は言った。


「君は、死についてどう思う?」


 かなり間が空いた。彼女はどうやら答えについて考え込んでいるようだった。あるいはその答えを口にすることを、躊躇っているのかもしれなかった。


 やがて彼女は「きわどい質問だね」と、うっすら笑った。


「生きる意味が知りたくて、死んだんだ」


 意味が分からなかった。けど、ここで「どういうこと?」と聞くのはあまりに無粋な気がしたから、やめておいた。


「死は、みんなが言うほど悪いことかな? 私はそうは思わない。食べたり、寝たり。死はその延長線上にある。死こそ、生命の営みだと思う。生きているから死ぬ。死とは、生の象徴だ。後ろめたいことなんか、何もない。死んでみて、やっと分かったんだ」


 彼女の言っていることは難しすぎて、よく分からなかった。けれど彼女はいつの間に泣き止んで、その表情はすっきりとして見えた。


「……僕は、君が好きだった」


 彼女は驚いた様子で、こっちを見た。


「僕は、君のピアノが好きだった。君の笑う顔とか、怒る顔とかが好きだった。君の“月光”が好きだった」


「私の……?」


 彼女は掠れた声で、僕に問いかけた。


「君の“月光”は、誰のものとも違うよ。僕は初めて聞いた時、衝撃を受けたんだ。君のは、短調なのに、全然その悲しさを感じさせない。君の意見を聞いて、やっとその理由がわかったよ。君はすでに、答えを見つけていたんだ。自分の中で、“月光”がどんな曲なのか。その答えを、見つけていたんだ。だからあの演奏ができた。あの演奏は、“月光”に希望を見出した、君にしかできない演奏だった」


 僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。彼女は、呆気に取られているようだった。


、“月光”……?」


 僕が頷くと、彼女は再び、涙を流した。


「あぁ、私にも、あったんだ。自分のピアノが。……見失ってしまうところだったよ。ありがとう」


 僕は姿勢を正して、息を吸い込んだ。夜の空気は冷たかった。


「改めて言うよ。僕は、君が好きだった」


 彼女は僕を責めたりはしなかった。「なんでもっと早く言ってくれなかったの」とか、そんなことは言わなかった。ただ、「そっか」と悲しく目を細めるだけだった。

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