雨の日、喫茶店で。小学生のボクはサイエンティストなお姉さんと言葉を交わす。

ボクとあのひとを結ぶ音々

● 第一話・【調理の音】

1 喫茶店『林檎』・入り口/昼


         ランドセルを背負った小学生のつばさ。

         市内の端にある古風な喫茶店『林檎』の入り口に立ち。

         全体重を掛けて、重たい木製の扉を開ける。

         ギィィと扉がきしむ音。

         頭上で鐘の音がカランカランと気だるげに鳴る。


2 喫茶店『林檎』・フロア/昼


         扉の先には、木製のカウンター。

         その上には空の三角ビーカーとフラスコが並んでおり。

         実験器具に囲まれ、カウンター席に白衣の女が座っている。

         『林檎』の主である化澄かすみである。

         年齢は二十代半ば。

         黒髪を腰まで伸ばした色白の美人であり。

         理知的な雰囲気がある。

         化澄、読んでいた哲学書から目を離し。

         つばさに気が付いて。

化澄 「あっ、つばさじゃん! 待ってたよ!」

         と、椅子から立ち上がり、とびきりの笑顔。

         さきほどまでの儚げな雰囲気が吹き飛ぶ。

つばさ「化澄さん、お久しぶりです。最近来られなくてごめんなさい」

化澄 「いいっていいって! こうやってつばさの顔を見れただけで、私は嬉しいよ。小学校の帰りに寄ってくれた感じ?」

つばさ「はい。(きょろきょろと辺りを見回しながら)今日はお客さん、いないんですか?」

化澄 「あはは。正確に言えば今日『も』だけどね」

つばさ「うーん。せっかく素敵なお店なのに」

化澄 「つばさは優しいね。まぁ、気にしてないって言ったら嘘になるけど、趣味半分でやってるお店だし、これくらいがちょうどいいよ」

         化澄、カウンターの内側にまわり。

         さっきまで自分が座っていた席につばさを誘導する。

         化澄、白衣の袖をまくりながら。

化澄 「さて、今日は何を作ろうか」

つばさ「ナポリタンをお願いできますか?」

化澄 「もちろんだよ! 『宇宙ナポリタン』だね」

つばさ「……今、なんて?」

化澄 「『宇宙ナポリタン』。新作なんだ」

         化澄、うきうきとしている。

         つばさ、察して。

         困ったような笑みを浮かべて。

つばさ「いえ。のナポリタンがいいです」

化澄 「むぅ……。(ひらめいた顔をして)あ、の定義が曖昧だから、私が思うのナポリタンでいい?」

つばさ「えっと……こういうときってどう返したらいいんでしょう……。あっ、とにかく、実験的でないナポリタンでお願いします。この前食べたものみたいな、青く光ったり、口の中で炭酸みたいにはじける未知の味のナポリタンは遠慮したいです」

化澄 「えー。どうしてもだめ?」

つばさ「ごめんなさい」

化澄 「……ちぇー。まぁ無理強いして透子姉さんに怒られるのもいやだし、仕方ないか」

         化澄、唇を尖らせつつも笑って。

         普通のナポリタンの準備をする。

         フライパンなどが触れ合うカチャカチャという音。

化澄 「そういえば、外はもう雨降ってた?」

つばさ「まだですね。いつ降ってもおかしくないくらい、雲は厚かったですけど」

化澄 「そっかぁ。最近、雨多くていやになっちゃうよね」

つばさ「梅雨だから仕方ないですよ」

         【調理の音】

         油を引く音。

         ウィンナーやピーマンを小気味よく切る音。

         具材を炒める音。

         など、調理の音がしばらく続く。

つばさ「化澄さんは雨、嫌いなんですか?」

化澄 「ん、別に? ただ洗浄した実験器具が、乾くの遅くなるから面倒だなってだけ」

         つばさ、カウンターに並べられた実験器具を眺めて。

つばさ「相変わらず、いろんな実験続けてるんですね」

化澄 「まあね。研究所をやめても一応化学者だからさ。お金がかかりすぎない範囲でやってるよ」

つばさ「本当に化学が好きなんですね」

化澄 「もちろん!」

つばさ「……そんなに好きなものがあって羨ましいです」

化澄 「お、君もこっちの道に来る? 私が手取り足取り教えてあげるよ」

つばさ「えっと、遠慮します。なんだか大変そうだし」

化澄 「つれないな~。やってみたら意外と楽しいかもしれないよ」

つばさ「そう、なんですかね……。でもボクは……」

         つばさ、言いかけたとき。

         化澄、茹でたパスタをフライパンへダイナミックに投入。

         調理の大きな音で、つばさの声がかき消える。

         しばらく調理の音が続き。

         つばさ、言葉を続けるのを諦める。

         化澄、つばさの言葉を遮ったことに気づかずそのまま。

化澄 「はい、できたよ! ナポリタン!」

         と、つばさの前に料理を出す。

         つばさ、おそるおそるスンと嗅いで。

つばさ「……いい匂い」

化澄 「早く食べてみてよ」

         つばさ、不器用にフォークで麺を巻いて。

         ひとくち。

つばさ「(かすかに笑って)美味しい」

化澄 「だってつばさのために作ったもん」

         化澄、カウンターに頬杖をついてにっこり。

化澄 「喜んでもらえてよかったよ」



● 第二話・【筆記の音】

3 (2に続き)喫茶店『林檎』/昼


         カウンター席に座るつばさ、手を合わせて。

つばさ「ごちそうさまでした」

化澄 「はい。ごそまつさまでした」

つばさ「前々から思ってましたけど、化澄さんって実は料理上手ですよね。突飛なメニューばかり見るから、忘れちゃいがちですけど……」

化澄 「そう? この世にあるだいたいの料理は、レシピ通りにやれば誰でもできると思うけどな。それよりも私は、まだ誰も見たことのないオリジナルの料理を開発したいよ!」

つばさ「あはは……。その熱意が変な方向にいって『宇宙ナポリタン』が作られたんですね」

化澄 「新しいものは、常に意外な組み合わせから出来上がるのだ! そう、人生は常に実験! ……ってね」

つばさ「化澄さんはいつも楽しそうです」

化澄 「(嫌味なく素直に)うん。楽しいよ!」

つばさ「(複雑そうな表情で)………」

         化澄、つばさが使った食器を片付け。

         そのままカウンター内にあるシンクで洗い始める。

         店内に柔らかく水が流れる音。

つばさ「あの、化澄さん。ここで勉強をしてもいいですか?」

化澄 「全然いいよー。学校で宿題でも出たの?」

つばさ「いえ。宿題は終わりました。ただ、参考書を進めたいなと思って」

化澄 「参考書? 小学校って参考書あったっけ」

つばさ「中学受験をするので、その勉強です」

化澄 「あ~なるほどね。……って、つばさ受験するの!? 知らなかったよ」

つばさ「母さんがそうした方がいいって。だから最近塾にも通い始めたんです。それでここにもあんまり来れなくなっちゃって」

         つばさ、困ったように笑う。

         化澄、皿洗いの手を止め。

         顔をしかめて。

化澄 「まーた透子姉さんが勝手に決めたの? あの人、ほんっとに他人の気持ち考えずに、自分の物差しだけでバンバン物事を進めていくからなぁ」

つばさ「でも、母さんの言うことはいつも正しいですから」

化澄 「本当にそう思ってるー?」

つばさ「………」

化澄 「あっ、なにか考えてる表情だ」

つばさ「そんなことは」

化澄 「……ってか、最近透子姉さんとちゃんと話してる?」

つばさ「話してはいるんですけど……その……」

化澄 「ふむ。もしかして。モヤモヤしてる自分の気持ちをうまく伝えられなくて、話した気がしないとか? それか喧嘩したとか」

つばさ「………! 確かに今朝、少し口喧嘩になってしまったんです。でも、なんで分かるんですか」

化澄 「わかるよそのくらい。透子姉さんのことも、つばさのこともよく知ってるから」

         化澄、ため息を吐き。

         洗った皿をタオルで拭きながら。

         あえて雑な感じで。

化澄 「なんかあるなら相談しなー。別に透子姉さんにチクったりしないから」

         つばさ、それを見て口を開き。

         少し悩んで、止める。

         それから困ったように笑って。

つばさ「大丈夫です。大したことじゃないですから。心配させちゃってごめんなさい」

         化澄、苦しそうな表情をして。

         しかし一瞬で笑顔に切り替え。

化澄 「……もう! 大人に心配かけるのは子どもの仕事でしょ? だから気にしない! 何かあったらちゃんと言うんだよ」

つばさ「はい。ありがとうございます」

化澄 「よしよし、いい子だ」

         化澄、カウンター越しにつばさの頭を撫でる。

         つばさ、嬉しそうに笑う。

         そのまま、ふと自分の腕時計を見て。

つばさ「……あっ、もうこんな時間。勉強しなくちゃ」

         と、少し焦る。

化澄 「がんばれー」

つばさ「はい、がんばります」

         つばさ、ランドセルをカチャカチャと開き。

         分厚い算数の参考書とノート、筆箱を取り出す。

         参考書は進学塾のもので、明らかに難しそう。

         つばさ、それぞれを丁寧に開き。

         2Bの鉛筆でゆっくりと計算を解いていく。

         化澄の皿洗いも終わり。

         【筆記の音】

         喫茶店『林檎』に、つばさが鉛筆を滑らせる、心地よい音が響く。



● 第三話・【コーヒーを淹れる音】

4 喫茶店『林檎』/夕


         前話に引き続き。

         つばさ、カウンター席で算数の参考書を解いている。

         喫茶店の古時計が四時から五時に変わったころ。

         つばさ、筆記の手を止めて。

         自分のノートと参考書の解答ページを見比べながら。

つばさ「……んん、なんでこうなるんでしょう?」

         と、ひとりごと。

         参考書をパラパラとめくる音がしばらく続く。

つばさ「どうしてこの計算式に……?」

つばさ「この数字はどこから出てきたんでしょうか」

         など、ひとりごとが続く。

         遠いソファ席でその様子を見守っていた化澄。

         読んでいた哲学書を置いて、大きく伸びをして。

化澄 「煮詰まったの?」

         と、つばさに話しかける。

つばさ「はい……。そんなに難しい問題ではないはずなんですけど……」

化澄 「そういうときあるよね」

         化澄、立ち上がってカウンターの内側に戻り。

         サイフォンをいじりながら。

化澄 「私、コーヒー飲むけど、つばさもいる?」

つばさ「いいんですか?」

化澄 「ついでだから気にしないで。(気づいて笑い)あっ、のコーヒーだよ。安心して」

つばさ「(つばさも笑って)その心配はしていませんでした。では、お言葉に甘えていただきます」

化澄 「はーい」

         【コーヒーを淹れる音】

         化澄、コーヒーの粉を薬包紙にのせて電子秤で計ったり。

         サイフォン用のフラスコでお湯をふつふつと温めたり。

         あたかも実験をしているかのよう。

         サイフォンの道具がカチャカチャと鳴る音がしばらく続く。

         やがて、コーヒーの濾過ろかが終わり。

         あたりにコーヒーのいい匂いが満ちる。

化澄 「砂糖とミルク、置いとくね。好きなだけ入れて」

         化澄、手際よく銀製の器に入れられたコーヒーシュガーと、

         ミルク(と生クリームを混ぜた特製のもの)を出す。

         それから化澄、ジノリの緑色のティーカップを用意して。

         フラスコからコーヒーを丁寧に注いでいき。

化澄 「お待たせ」

         と、つばさの前にコーヒーを出す。

つばさ「ありがとうございます」

         つばさ、両手でカップを抱え。

         砂糖もミルクも入れずにおそるおそる飲む。

         ちびりと舌で舐め。

         きゅっと難しい表情をして。

つばさ「……ボクにはまだ、苦すぎるみたいです」

化澄 「あははっ! 可愛い表情かお!」

         化澄、ひとしきり笑って。

化澄 「ごめんね。コーヒー、飲んだことなかった?」

つばさ「ブラックコーヒーは初めてです。カフェオレは飲んだことあるんですが」

化澄 「そうだったんだ。なら、他の飲み物を用意した方が良かったね」

つばさ「いや、そんなことはないですよ。コーヒー、チャレンジしたいなって思ってたんです」

         つばさ、深呼吸してコーヒーの香りを嗅ぐ。

         それから化澄が用意した砂糖とミルクをたっぷり入れて。

         もう一口、カップから飲む。

つばさ「うん。美味しいです。香りもすごく落ち着きます」

化澄 「ふふっ。よかったよ」

つばさ「ボクも早く、ブラックコーヒーを飲めるようになりたいです」

化澄 「焦んなくていいんじゃない。どうせ大人になったら味覚は変わるんだしさ」

つばさ「え、そうなんですか?」

化澄 「そうそう。からみや苦みが美味しく思えたり、さっぱりしたものが好きになったり」

つばさ「うーん。どういうことですか? あまり想像ができません……」

化澄 「私もつばさぐらいのときは、まさか自分が秋刀魚を肴に、ビールを飲むときが来るとは思ってなかったよ。しかもからい大根おろしを薬味になんかしちゃってさ。いやあ、知らないあいだに大人になっちゃったもんだよね……」

         化澄、急に遠い目。

         つばさ、化澄の心中をよく理解できないながらも。

         フォローしようとして。

つばさ「……化澄さんは若いですよ! まだ二十(ピー音)歳ですもん!」

化澄 「こら! 生々しい数字を出さないでよ!」

つばさ「(きょとんとして)でも事実でしょう?」

化澄 「そうだけど~!」

         化澄の空しい抗議に重ねるように。

         急に激しい雨音が。

         室内にいてもわかるほどに。

化澄 「あっ、ついに降ってきちゃったか」

         化澄、先ほどの会話は忘れてけろっと。



● 第四話・【大雨の音】

5 (4に続き)喫茶店『林檎』/夕


         激しい雨音が聞こえる。

         時折、遠くで雷の音も。

         つばさと化澄、カウンター越しに会話を続けている。

化澄 「こういう雨が降ると夏だな~って思うよね」

つばさ「そうですね。急などしゃ降りと言えば、夏のイメージです」

化澄 「午前中晴れてたとは思えないような天気だよね。なんだかすごく落ち着く感じがする」

つばさ「ええ、そうですね。(ふと気づいて)……あれ? 『いい感じ』って……。さっき化澄さん、『実験器具が乾きにくくなるから、雨はそんなに好きじゃない~』みたいなこと、言ってませんでした?」

化澄 「(嬉しそうに)なーに今の。私のマネ?」

つばさ「そ、そういうわけじゃないんですけど」

化澄 「ふふっ。恥ずかしがり屋のつばさから、いいもの聞けちゃったな~。ねぇ、もう一回私のマネやってよ!」

つばさ「もうっ。からかわれるのが分かっててやる人はいませんよ」

化澄 「ごめんごめん。冗談だって。……で、なんの話だっけ?」

つばさ「(投げやりに)化澄さんは、雨が好きなのか好きじゃないのかよくわからないって話です」

化澄 「ああ! そうだったね。雨は好き半分、嫌い半分かな。湿気は嫌い、でも雨の音は好き。週の半分は雨でもいいかなって思ってる。つばさは?」

つばさ「ボクは毎日、雨でもいいです」

化澄 「へえ。雨が好きなの? それとも他の天気が嫌い?」

つばさ「雨が好きなんです。すごく」

化澄 「なんで?」

つばさ「だってみんな下を向いているじゃないですか」

         つばさ、意味もなくスプーンでコーヒーを何度も攪拌しながら。

つばさ「みんななんとなく気だるげで、誰もが自分の足元ばかりを気にして、他人には一切目もくれない。そんな雰囲気が好きなんです。みんなそうですよね?」

化澄 「………。いや、割と変わった感性じゃない?」

つばさ「えっ、そうですか?」

化澄 「うん。でもいいと思うよ。人と違うっていうのはさ」

つばさ「……ボクにも人と違うところがあるんですね」

化澄 「んー? なんだか嬉しそうだね?」

つばさ「ふふっ、そうですね。自分の知らなかった自分を知れたような気がして」

化澄 「自分探しのお年頃だ」

つばさ「どうもそうみたいです」

化澄 「ちなみに私は、今でも自分探し中だよ」

つばさ「そういうのもありなんですね」

化澄 「どんな人生だってありだと思うよ。一度思い切って仕事を辞めちゃった身からするとね。もしかしたら人生そのものが自分探しの旅なのかもしれない」

つばさ「………。なんだか勇気をもらえた気がします」

化澄 「それはよかった」

         二人、ひとしきり笑って。

         またそれぞれの作業に戻る。

         【大雨の音】

         雨は強くなったり弱くなったり。

         時々、雨がトタン屋根を打つ音が聞こえる。



● 第五話・【時計の音】

6 (4・5に続き)喫茶店『林檎』/夕


         シーン5から引き続き雨が降っている。

         しかし、先ほどよりも勢いは弱まっている様子。

         つばさ、カウンターでかなり集中して勉強を続けており。

         【時計の音】

         喫茶店に置かれた時計がカチッカチッと規則的に鳴っている。

         やがて、ぼーんと大きく時計の音がして。

         五時から六時に変わったころ。

         つばさ、大きく息を吐いて。

つばさ「そろそろ休憩にしましょう」

         と、ひとりごと。

         それから辺りをきょろきょろと見渡し。

つばさ「あれ……化澄さん?」

         と、首をかしげる。

         化澄、つばさの視界にはどこにもおらず。

つばさ「どこにいっちゃったんでしょう……」

         と、ひとりごとが続く。

         そんな時。

         喫茶店の二階からドンガラガッシャンとすごい音が。

         大きな荷物がいくつも落ちたような音。

         その音にかき消されるように、

化澄 「ぎゃーっ!」

         という化澄の叫び声。

つばさ「化澄さん!?」

         つばさ、反射的に叫んで。

         一瞬ためらいながらも。

         カウンター内に入り。

         カウンター内から二階につながる階段をトタトタと昇ってゆく。


7 喫茶店『林檎』二階・廊下


         つばさ、音のした方をきょろきょろと探す。

         慣れない足取り。

つばさ「化澄さん? 大丈夫ですかー?」

化澄 「(突き当たりの部屋の中から、くぐもった声で)つばさ?」

つばさ「はい、そうです!」

化澄 「(突き当たりの部屋の中から、くぐもった声で)こっちこっち。悪いけどちょっと来てー」


8 喫茶店『林檎』二階・化澄の部屋・夜


         つばさ、声を頼りに突き当たりの部屋へ。

         すでに少しだけ開いていたアンティークの扉。

         それを躊躇いがちに開けると。

         部屋の中で傾いている大型の本棚と。

         文字通り、部屋いっぱいに本の山が目に入る。

         本はどれも分厚い専門書。

         一冊一冊が重そう。

つばさ「この本の山はいったい……?」

化澄 「つばさたすけてー」

         つばさ、声のする方をよく見ると。

         本の山から化澄の白い右腕が伸びており。

         ひらひらと力なく振られている。

つばさ「化澄さん、大丈夫ですか!? まさか本の下敷きに!?」

化澄 「ご名答。さすが洞察力だねー。やっぱり君、化学者になってみない?」

つばさ「こんなの誰だって一目瞭然……って冗談言ってる場合ですか!」

         二人が会話している間にも、

         カーテンレールにギリギリ引っかかって、

         傾いている本棚から。

         分厚い本がまた数冊滑り落ちて。

         化澄の腕にぶつかり。

化澄 「ぎゃーっ! あいたっ!」

つばさ「今、助けますから!」

         つばさ、やや慌てつつ。

         そのまま、両手で本を一冊ずつ抱えては除け。

         抱えては除け。

         やがて本の山から、ぼさぼさの髪をした化澄が現れる。

         化澄、えへへと笑い。

化澄 「助かったよ、つばさ。このまま本の山のなかで死ぬかと思った」

つばさ「怪我はないですか?」

化澄 「ん、大丈夫。あってもアザくらいだと思う」

つばさ「それならよかったです……」

化澄 「小学生に心配させちゃうなんて、だめな大人だなぁ」

つばさ「化澄さんもボクのことを心配してましたし、お互い様ですよ」

化澄 「あはは! それもそうかぁ」

         化澄、白衣の埃を手で払って。

化澄 「本当にありがとね」

         と、つばさの目をまっすぐに見て。

         微笑みながら言う。

         つばさ、なんだかドギマギしてしまって。

         うつむきながら。

つばさ「化澄さんが無事でなによりです」

         と、当たり障りのないことを言う。

         そんなとき、つばさ、足元の本を見つけて。

つばさ「……ん? なんですかこれ?」

         と、かがんで本を拾い上げる。

         本は、ほかの専門書と比較すると

         厚さは同じながらも。

         派手な真っ赤な装丁であり異質。

         また、上質な素材であることが見て取れる。

         とはいえ、やや古ぼけて埃をかぶっており。

         つばさ、表紙を遠慮がちに叩いてみる。

         埃が舞い上がり。

         表紙のタイトルが少しだけ読めるようになり。

         そこに書かれていたのは、

         金文字で<AL……M>

         解読に難航して顔をしかめているつばさをよそに。

         化澄、本を指差して。

化澄 「わっ、そんなところにあったんだ! やっと見つけた!」

         と、嬉しそうに叫ぶ。



● 第六話・【本をめくる音】

9 (8に続き)喫茶店『林檎』二階・化澄の部屋・夜


         化澄、つばさの持っている本を指差しながら。

化澄 「わっ、やっと見つけた!」

         と、すごく嬉しそうな表情で。

化澄 「それそれ、私がさっきまで捜してたやつ! どこにあるかわからなくてさ。いろいろひっくり返してたら、本棚が倒れてきちゃったんだよね。いやあ、まいったまいった」

つばさ「整理整頓は大事ですよ」

化澄 「あはは、つばさの言う通りだね。次はちゃんと綺麗にしておくよ」

つばさ「まったくもう……」

化澄 「それ、早くこっちにちょうだい?」

つばさ「言われなくてもすぐに渡しますよ」

         と、つばさ、化澄に本を手渡す。

         化澄、それを受け取り。

         パタパタと強めに埃をはたき落とすと。

         表紙の文字がしっかりと浮かび上がる。

         <ALBUM>

         化澄、その文字列を見て。

         嬉しさをこらえきれない様子で。

化澄 「懐かしいなぁ。これは母さんが作ってくれたアルバムだよ」

つばさ「……ということは、おばあちゃんが?」

化澄 「そうそう。私と、つばさの母さんである透子姉さん――の母さんだね。つばさ、見るでしょ?」

         つばさ、力強くなんども頷く。

         化澄、にっこり笑って、アルバムを開く。

         アルバムにはカラー写真がページいっぱい。

         几帳面に貼り付けられている。

化澄 「わぁ……これ、小学生の私たちだ! ちょうどつばさと同じくらいの年かな? まだここにみんなで住んでたときだね」

         【本をめくる音】

         しばらく、化澄がアルバムをパラパラとめくる音だけが続く。

         アルバムの写真は中学校まで。

         期間こそ短いが、大量の写真が保存されていて。

         ページをめくってもめくっても終わらない。

つばさ「確か二人とも、高校生になったときにこの実家を出たんでしたっけ?」

化澄 「うん、そうそう。私も透子姉さんも県外の高校に行きたくってね。寮に入るために、母さんをこの喫茶店に残して出て行ったんだ。そのまま二人とも向こうで大学進学して。私は東京に、姉さんは地元に戻って一人暮らしと就職をしたんだよ。で、私は忙しさを言い訳に三年前までここには全く帰らなかった。責任感の強い姉さんはこまめにここに顔を出してくれてたけど」

つばさ「三年前……おばあちゃんがなくなった年ですよね……」

化澄 「うん。そうだね」

つばさ「その年、化澄さんもいろいろあったんですよね。ボク、詳しいことはあんまり知らなくて。聞いてもいいですか?」

         化澄、アルバムから目を離し。

         つばさの顔を見る。

         それからふっと笑って。

化澄 「つまんない話だよ?」

         と、語りだす。

化澄 「私はその時、大学を卒業して、東京の会社で研究職をしていたんだけど。職場環境が私に合ってなくて、すっかりメンタルを病んじゃったんだよね」

         と、化澄、淡々と続ける。

化澄 「母さんの死を聞いて、心が苦しくなった。でもお葬式が終わって姉さんと二人で喫茶店に戻ったとき、透子姉さんに言われたんだよ。『こっちに戻ってきて、一度喫茶店継いでみたら?』……って」

         化澄、アルバムを閉じて。

化澄 「すごいよねー姉さん。姉さんには何も相談してないのに、なんか私、限界だっていうのが顔に出てたみたいでさ。『ここは来たら設備は整ってないかもしれないけど、自分の好きなように仕事できるよ』って。それでまた戻りたかったら戻ればいいじゃんって言われたんだ。それがなんだかめちゃくちゃ心に残って今に至るっていうか」

         化澄、つばさを見て。

化澄 「なんか本当にそれだけなんだけど、それですっと気持ちが晴れてさ。忌引き明けには、上司に会社を辞めること伝えてた。んで、喫茶店を継ぐことにして、今に至ったってワケ」

         化澄、頬を掻いて。

化澄 「ま、辞めてから分かったことだけど、人生って案外どうにでもなるもんだよね」

つばさ「そういうものですか?」

化澄 「まじでそういうもん。なんなら収入は減ったけど、今の方が『自分の人生を生きてる』って感じするし。自分の好きな研究も続けられるし。ひとことで言うならすっきりしてる」

つばさ「『自分の人生を生きる』……」

化澄 「うん」

つばさ「ボク、今までに『自分の人生を生きる』って考えたことないかもしれません。好きなこともないし、やりたいこともないし、母さんに言われたままのことをやってきたので」

化澄 「………」

つばさ「ですが、今回母さんの言われるままに受験することになって、すごく心が変な感じになったんです。頭は全力で目的地に向かおうとしてるのに、心が追いついてないっていうか……。なんかすごく、ちぐはぐで、うまく言葉に表せないんですけど……。それを漠然としたまま母さんに伝えようとして、それで自分自身にむしゃくしゃしちゃって、ボク、母さんと喧嘩しちゃって……ああ、また要領を得ない話になってしまってごめんなさい」

         つばさ、急にぼろぼろと泣き始める。大粒の涙。

         自分でもなぜ泣いてるのかわからない様子。

         化澄、つばさを引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。

化澄 「そんなに自分のこと責めないの」

つばさ「でも……」

化澄 「無理に急がなくてもいい」

つばさ「ほかの友達は、もっとうまく、人間関係も、勉強もやってるのに……」

化澄 「んー?」

つばさ「ボクだけ置いて行かれてる感じがして……」

化澄 「大丈夫。誰も置いてってなんかしないよ。つばさは周りなんか気にせず、自分のペースで、自分の納得する方向に進んでいけばいいの」

         化澄、つばさの前髪を掻きあげて。

         おでこに長いキスをする。

         つばさ、混乱しつつも赤くなり。

         化澄、それを見て、にっこり笑う。

化澄 「万が一なにかあっても、私と、この喫茶店がつばさのことを受け止めるからさ。何度でも、好きなだけ、悩んで、行動して、失敗して、ぼろぼろになって戻っておいで」

         つばさ、唇を尖らせて。

         しかし、まんざらでもなさそうに。

つばさ「なんですかそれ、意味わかんないです」

         と、かすかに笑う。

         二人のいる化澄の部屋に、雨上がりの光が差し込む。



● 第七話・【雨上がりの水滴の音】【鳥たちの声】

10 喫茶店『林檎』・入り口/夕


         つばさ、喫茶店「林檎」の取っ手に手を掛ける。

         ギィ、と扉が軋む。

         扉を開けると。

         すがすがしい空気が舞い込んで。

         天には雨上がりの澄んだ空が広がっている。

         【雨上がりの水滴の音】

         その空を、雀たちが鳴きながら飛んでいく。

化澄 「すっかり晴れたね」

         化澄、つばさの背後から現れ。

         やや眩しそうに空を見上げる。

         そんなとき、喫茶店「林檎」にいたる道に。

         こちらに向かって、歩いてくる女性が。

         つばさの母であり、化澄の姉でもある透子である。

         化澄とつばさ、同時に透子の姿に気づいて。

         二人で顔を見合わせて「ふふっ」と笑う。

         そして、透子が到着するまでのわずかな合間。

         化澄とつばさはこっそりと言葉を交わす。

つばさ「また来てもいいですか?」

化澄 「もちろん。いつでもおいでよ」

         空では、鳥たちが晴れ間を祝うかのようにさえずっていた。


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雨の日、喫茶店で。小学生のボクはサイエンティストなお姉さんと言葉を交わす。 @sakura_ise

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