序章 日本国戦後記

 西暦1945年8月15日。その日、日本全土に玉音放送が流れた。


 後の世の学者や研究者は、『日本の帝国主義がアメリカの民主主義に敗北した瞬間』だと評したが、その数週間後に東京に進駐してきたのは、戦争相手であるアメリカでは無かった。


 本来であればM4シャーマン中戦車の車列が列を成して進んでいたであろう道路を走るは、ソビエト連邦赤軍の誇る主力戦車、T-34/85中戦車。高性能なディーゼルエンジンのもたらす機動力と、傾斜を付ける事により敵の砲撃を弾く事の出来る装甲からくる防御力、そして対空砲をベースとした85ミリカノン砲から繰り出される攻撃力。その全てが日本軍の戦車を圧倒しており、市民はその威容と数に震え上がった。


 その数週間後、ようやくアメリカも進駐軍を派遣してソビエト連邦より武装解除及び監視の任を引き継ぐ事となったのであるが、その時に派遣出来た戦力の多くが旧式の車両なり装備であり、それが却って米軍に弱々しいイメージを持たせる事となったのである。


 何故こうなったのか。それは昨年の10月下旬、フィリピンにおける大決戦に起因する。マリアナ諸島の失陥によって後が無くなってきた日本海軍連合艦隊は、フィリピンにて起死回生を図るべく、攻撃を仕掛けてきた米軍の大艦隊に向けて突撃を敢行したのであるが、これが大成功。


 レイテ沖にて上陸を試みていた陸軍及び海兵隊は壊滅し、総司令官のダグラス・マッカーサー元帥も一時的に行方不明になる程の損害を受けたのである。それはアメリカの戦略を大きく狂わせ、対する日本はある程度の余裕を整えた上で本土防衛に望むる事を可能としたのである。


 そして7月の沖縄近海における『伊江島沖海戦』にて、日本海軍は米海軍の主力艦隊を壊滅させる事に成功したのであるが、それは帝国海軍最後の徒花に過ぎなかった。


 文字通り矢尽き刀折れるまで戦った日本は、ソビエト連邦が仲介を行う事を条件に、連合国に対して降伏する事を選択。そして玉音放送の後にポツダム宣言の受諾を通告したのである。


 それから2年程は、戦勝国たるアメリカの指導下で非軍事化と民主化、そして経済再建が成される事となったのであるが、アメリカの安全保障に関する誤算はすでに始まっていた。


 まず日本に自衛能力を持たせる事を忌避していたアメリカ政府や軍は、日本進駐と同時に即座に展開した朝鮮半島において、新たに高麗共和国を建国。彼の国に対して多大な軍事支援を行ったのであるが、それが日本政府とソビエト連邦に対して不信を抱かせたのである。


 ソビエト連邦は来たるべきアメリカ合衆国との衝突に備え、出来る限り軍事力を温存する形で外交政策を進めていた。インド方面から支援を受けている中華民国と、ソ連の支配下にある共産主義勢力の内戦が長引き、満洲全土の掌握に手を拱いている最中に、前から狙っていた朝鮮半島をアメリカに取られ、対東アジア進出政策に楔を打たれる形となったクレムリンは、日本政府と手を組む事とした。


 この頃の日本は、統制派に近しい立場と思想を持ち、アメリカ式民主主義と資本主義のメリットを評価しつつも、ソビエト連邦に幾らかシンパシーを覚えていた者達が結成した『日本新社会党』と、それを中心とした連立政権によって行政が運営されており、しかし共産党を軽んじず、ソ連側からの要求にも幾分か応じていた事から、スターリンからの信頼を得ていた。


 斯くして西暦1949年、日本政府は連合軍最高司令部のオブザーバーとして、マッカーサー元帥に並ぶ立場にあったイワン・ジューコフ元帥からの書簡に応じる形で、ソ連からの支援を基本とした再軍備を宣言。日本国憲法の第9条も早速改憲され、その他複数の法案可決を経て、日本防衛軍が組織されたのである。


 マッカーサーは後に回顧録にて、『ハリーとアイクは大きな過ちを犯した。軍事に関して、余りにも日本を軽視しすぎた結果、コリアの民主主義の守護者達は、シナの人民解放軍と極東の島国の防衛軍という、コミュニストの手先に挟まれる事となったのである』と述べている。実際、防衛軍組織後には米軍は函館沿岸を租借し、在日米軍基地を設置。戦艦や空母も配置する事によってソ連軍の極東方面戦力を牽制する事となったのであるが、その頃には防衛軍の装備と戦術体系は、すっかりソ連軍式となっていたのである。


 さて、ソ連からの各種支援の下に組織された日本防衛軍であるが、1951年に勃発した朝鮮戦争では専ら中立に徹した。アメリカは沖縄に大規模な補給拠点を置き、強制的に工業化させる事で高麗共和国を支援する一方、日本は表向きは誰の味方もしない一方で、アメリカには航行安全海域を提供し、対する朝鮮の共産主義勢力には、組織時に保有していた装備の提供という形で恩を売っていた。


 その際『スクラップ』の名目で分解された装備が日本から放出されていたが、直ぐに組み立てれば使える様な状態であった事や、提供した総量が、組織時の保有数よりも多かった事は、ペレストロイカの後に判明した事実の一つである。実際この頃には、ソビエト連邦に対する工業製品の輸出、立場的には東側に近い一方、アメリカの一強を好まない国々との貿易は日本の経済を発展させるのに十分足るものがあった。アメリカも経済面ではソ連にすり寄られるのを防ぐべく、様々な経済協定やら貿易協定で日本を縛ろうとしていた。


 新社会党と自由党、そして民本党の三大政党が織りなす政治体制は、東西のシーソーゲームに対して一見脆弱な様に見えたが、実際のところは資本主義の象徴たるアメリカと、共産主義の権化たるソビエトの狭間で、如何に独立主権を守るかに苦心しながら、平穏を守る事に注力していた。アメリカは沖縄を州や自治区ではなく『琉球共和国』として独立させ、ソ連は樺太と千島列島を自国領にして軍を張り付けていた。


 例えばベトナム戦争では、南ベトナムからの難民を受け入れたり、南に物資供給を行うなどの支援政策を行っていたが、米軍が撤退を決断すると、それに合わせて支援を縮小。だが難民の受け入れは止めず、西側諸国への貢献を行動で示したのである。


 その後、カンボジア侵攻と中越戦争では、共産主義政権の国となったベトナムに対して大規模支援と派兵を決定。『文明破壊と大虐殺』の重罪を犯したクメール・ルージュと、『不当な侵略行為』に走った中国に対して正義を示したのである。


 さて時は流れて1995年、結末は訪れた。モスクワでの軍事クーデターを契機に起きたソ連崩壊と、琉球共和国における反米独立戦争、そして台湾国民党政権の志那本土への凱旋。一連の事態に対する日本国の行動は速かった。


 『国土奪還戦争』の名称で呼ばれる大戦争は、日本国防衛軍のその精強無比を証明してみせた。国産の装甲車からなる機甲師団は樺太を取り戻し、混迷が巻き起こる沖縄には久方ぶりに日章旗がはためいた。


 斯くして、日本国は沖縄と樺太、千島、そして台湾を取り戻し、東アジア最大の島国としての地位を確立させたのである。そして21世紀を迎え、日本は真っ当な平和を享受していた。日本車は東南アジアのモータリゼーションに大きく貢献し、西側規格によって製造された家電製品も、価格の高騰によりうまみを無くしたアメリカ製品を押しのける形で流行り、経済面で周辺国を凌駕する事となったのである。


 そして西暦2025年の8月15日。日本国とそこに住まう1億8千万の人々は、いつも通りの平穏な日常を過ごそうとしていた。だが突如として、その平穏は崩れる事となったのである。

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