第37話 特別な人

 綾斗と羽菜は、見張りをしている教師の目を盗んでエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まると、最上階である5階のボタンを押す。


 エレベーターが上昇するのを感じながら、二人は緊張した面持ちで到着するのを待った。2階、3階を通過し、5階に迫っていく。チン、という音と共にエレベーターの扉が開いた。


 扉の外を見た瞬間、綾斗は肺の中の空気を全部吐き出すかのように深く息をついた。


「良かった。5階には見張りがいなくて」


 クラスメイトから聞いた情報によれば、男子部屋のある2階と女子部屋のある3階のエレベーターには見張りの教師がいるようだ。男女が部屋を行き来するのを阻止するためだろう。


 屋上のある5階にも見張りがいるかどうかは不明だった。生徒が脱走することは想定していても、屋上に出ることまでは想定していないかもしれない。だからこれは賭けだった。


 そして今、賭けに勝った。5階には教師の姿はなかった。安堵している綾斗の隣で、羽菜も緊張から解き放たれたかのように息をつく。


「良かったです。もし先生に見つかったら怒られちゃいますからね」


 羽菜も悪事を働いている自覚はあるようだ。屋上にこっそり忍び込むなんて、本来優等生のやることではない。


「何だかこっそり屋上の鍵を返した日のことを思い出すね」


 羽菜と一緒に悪事を働いたのは、これが初めてではない。学校の屋上の鍵を、教師にバレないようにこっそり返したこともあった。


「あの時はご迷惑をおかけしてしまいスミマセン……」


「謝らないでいいよ。あの時も言ったじゃん。俺だって屋上に忍び込んだんだから共犯だって」


 屋上での一件を、羽菜だけのせいにするつもりはない。綾斗の言葉で、羽菜は表情を緩ませた。


「綾斗くんは、優しいですね」


 エレベーターを降りてから、屋上に繋がる扉に向かう。鍵が閉まっている可能性も過ったが、扉を押すとあっさりと開いた。


「開いてるね。出られるみたい」


「わあ……なんだかドキドキしますね」


 羽菜はソワソワしながらも、期待で瞳を輝かせている。普段はあまり見せない表情だったから新鮮だった。


「じゃあ、行こうか」

「はい」


 覚悟を決めてから、綾斗は屋上に出る。コンクリートの床に錆びた鉄柵は、どことなく学校の屋上を彷彿させた。


 ひんやりとした夜風が頬を撫でる。しんと静まり返った中、視線を上げると綾斗は言葉を失った。


 夜空には満天の星空が広がっている。ビルや電線に邪魔されることなく、宝石を散りばめたような星空がどこまでも続いていた。


 都会ではこんなにたくさんの星は見られない。プラネタリウムのようだ、なんて思ってしまうのは自分が都会育ちだからだろうか? 本物の星空を初めて見たような気分になった。


「凄いです……星がこんなにたくさん……!」


 隣に視線を向けると、羽菜が興奮気味に星空を眺めていた。色素の薄い瞳は、星に負けないほど輝いている。この表情を見られただけで満足だ。リスクを冒してまで屋上に来た甲斐があった。


 綾斗はコンクリートの床が汚れていないことを確認してから腰を下ろす。羽菜も膝を抱えて隣に座った。しゃがみ込んだ拍子にシャンプーの甘い香りが漂ってきて、思わずドキッとしてしまった。


 緊張のあまり何を話せばいいのか分からない。沈黙に包まれるの中、二人で夜空を見上げていた。


 体育座りで夜空を見上げていた羽菜は、膝に回した腕を解く。するとコロンと後ろに倒れ込んだ。アッシュグレーの長い髪が、屋上のコンクリートに広がる。


「こうすると見やすいですよ」


 綾斗は呆気に取られる。まさか屋上で寝転がるとは思わなかった。


「綾斗くんもどうです?」


 仰向けになった羽菜が尋ねる。綾斗は誘われるがまま羽菜の隣に寝転がった。


 寝転がりながら星を眺めると、まるで宇宙空間に放り出されたような気分になる。星空に吸い込まれて、ふわふわと宙を漂っているようだ。


「綺麗ですね。ずっとこうして眺めていたいくらいです」


 夜空から羽菜に視線を移す。羽菜は夜空を見つめたまま、楽しそうに微笑んでいた。


 宿泊学習、満天の星空、二人きり……。これは絶好の告白シチュエーションだ。ロマンティックなムードに後押しされて、想いを伝えたくなった。


 だけど、踏み切れない自分がいる。成功することよりも、断られた時のリスクを考えてしまうからだ。


 もし断られたら、こうして隣にいることもできなくなってしまうかもしれない。無理に関係を進めようとして、羽菜がいなくなってしまうことが怖かった。


 不甲斐ない自分に嫌気が指す。こうやって肝心な時に攻められないから、恋愛対象として見られないのかもしれない。ひっそり落ち込んでいると、羽菜はようやくこちらを視線を向けた。


「私、綾斗くんには感謝しているんですよ」


「感謝?」


 思いがけない言葉に驚いていると、羽菜は嬉しそうに微笑みながら言葉を続けた。


「綾斗くんのおかげで、最近はとっても楽しいんです。学校に行くのが前よりも楽しみになりました」


 ほんの数ヶ月前までの羽菜は、クラスでの居場所を見つけられず、ひっそりと教室の隅で身を潜めていた。孤独に苦しめられた結果、学校の屋上に行くという選択をしたのだろう。


 だけど今は違う。学校に行くのが楽しいと言ってくれた。羽菜の中で考えが変わったことが嬉しかった。その変化に自分が関与しているのなら余計に。


「できることなら、ずっと傍にいてほしいです。綾斗くんは、私にとって特別な人なので」


 羽菜は目を細めて微笑む。その言葉も、笑顔も、嬉しくて堪らない。胸の奥がじんわりと温かくなって、感情が溢れ出しそうになった。


 一気に急上昇したせいで、頭がバグってしまったようだ。嬉しさが溢れかえって、普段なら踏み留まるような行動をとっていた。


 綾斗は身体を横に傾けてから、羽菜に手を伸ばす。穏やかに微笑む羽菜を捕まえて、そっと抱きしめた。


「あの……えっと……綾斗くん?」


 羽菜は驚いたように身体を強張らせている。だけど突き放されることはなかった。


 心臓が暴れまわって仕方ない。この音は羽菜にも聞こえているかもしれない。恥ずかしくて、顔を確認することができなかった。


 羽菜も突然ハグされたことに驚いているようだ。戸惑ったような声からは、いつもの余裕は感じられなかった。


 告白する勇気はまだ出ないけど、これだけは伝えたい。そうじゃないと後悔するだろうから。


「俺も、ずっと一緒にいたい」


 友達としてではなく恋人として。そこまで伝える勇気はない。だけど、自分にとっても羽菜は必要な存在で、これからも傍にいてほしいことだけは伝えたかった。


 ハッと息を飲む音が聞こえる。羽菜がどんな表情をしているのか分からない。表情を確かめるよりも先に、華奢な腕が綾斗の背中に回された。


「ありがとう、ございます」

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