第17話 煩悩まみれ
食事を終えてから食器をシンクに運ぶ。
ふと、時計を見ると八時半を回っていた。羽菜の言っていた通り、両親はまだ帰って来ない。
「ご両親はまだ帰らないんだね。仕事忙しいの?」
「はい。両親はどちらも教師をしているので毎日忙しいです。たくさんの生徒さんたちがお父さんとお母さんのことを必要としていますから」
その言葉で帰りが遅いことにも納得した。教師は激務と聞いたことがある。自分の学校の先生を思い出しても、その話には納得できた。
日々の授業だけでなく、部活の指導やイベント準備、トラブルが起きればその対応に追われる。膨大な業務を前にしたら、帰りが遅くなってしまうのも仕方ないのだろう。
頭のいい羽菜は、きっとそのことを理解している。だから両親の帰りが遅くても、淡々と家のことをこなしているのだろう。
羽菜はシンクの底を見つめながら話を続ける。
「私は昔から手のかからない子だと言われてました。だから一人でも大丈夫と思われているんです」
「それだけ信頼されてるってことじゃないの?」
「かもしれませんね……」
ふと、寂しくないのかと聞きたくなったが、口にするのは辞めた。そんなことを聞いたって状況が変わるわけではない。これ以上、余所様のご家庭に口を出すのは図々しい気がした。
綾斗はさりげなく話題を変える。
「洗い物、手伝おうか?」
「いえ、もう終わるので大丈夫です」
「そっか……」
そのまま綾斗は、羽菜が洗い物をする姿を眺めていた。
*・*・*
洗い物が終わった頃、綾斗は荷物をまとめる。
「そろそろ帰るよ」
鞄を持って立ち上がった時、羽菜の澄んだ瞳に引き留められた。
「今日はしなくていいんですか、ハグ」
「え」
そういえば、今日は一回もしていない。ハグをする権利はあった。
だけど家の中に二人きりという状況でハグをするのは色々マズい。学校や外でこっそりするのとはわけが違う。
「さすがにこの状況は……」
綾斗は遠慮したが、羽菜はこの状況の危険さなんて微塵も感じ取っていない様子だった。
「遠慮しなくていいです。綾斗くんには権利があるんですから」
淡々とそう告げると、羽菜は部屋の奥にあるソファーに移動した。すとんとソファーに腰掛けると、自分の隣を指さした。
「どうぞこちらへ」
隣に座るように指示してくる。あまりの状況に綾斗は固まった。
戸惑う綾斗を見て、羽菜は不思議そうに首を傾げる。
「どうしました? 早く済ませないと、両親が帰ってきてしまいますよ?」
「そうは言っても……」
その場から動けずにいると、羽菜はふわりと微笑みながら両手を広げた。
「おいで、綾斗くん」
その瞬間、理性が崩れる音がした。
(ああ、駄目だと分かっているのに……)
誘惑に負けて、綾斗はフラフラとソファーに近寄った。そして羽菜の隣で腰を下ろす。
すると羽菜は、穏やかに微笑みながら華奢の腕を綾斗の背中に回した。
ふわりとぬくもりに包まれる。羽菜の柔らかい身体が、自分の身体に密着した。
幸せ、だけどそれだけではない感情が奥底から湧きあがる。誰の目にもつかない家の中という状況がそうさせているのだろう。
(この状況は本当にマズイ……)
早く離れなければ取り返しのつかないことになると思いつつも、離れることはできなかった。それどころか、自分からも手を伸ばしてしまった。
綾斗は羽菜の背中に手を回し、より密着するように抱きしめた。
自分から抱きしめ返したのは初めてだった。いつもは羽菜から一方的にハグされていただけだったからだ。
綾斗が抱きしめ返したことで、羽菜の身体がびくんと震える。だけど突き放されることはなかった。
こちらからも抱きしめていると、羽菜の柔らかさがもろに伝わる。あばら骨に当たっている弾力のある物体も、判断能力を鈍らせるのに十分な要素だった。
熱に浮かされた頭では、つい不埒な妄想もしてしまう。
(いっそこのまま押し倒したい……)
羽菜をソファーに押し倒して、本能のままにキスをしたら、もっと深い快楽が得られる気がした。
ルールではハグ以上のことは禁止されている。だけどここまで自分に尽くしてくれる羽菜だったら、許してくれそうな気もした。キスもその先も……。
とはいえ、こんな状況になるとは想像していなかったから、何の準備もしていない。事を進めるために在るべき物も手元にはなかった。
そんな考えを巡らせていると、熱に浮かされた頭が少しずつ冷静になってくる。同時に自分の浅はかな考えに嫌気が指した。
羽菜はただ自分を癒してくれているだけだ。それなのに自分は欲望の対象としている。その事実に気付き、激しい罪悪感に襲われた。
(菩薩が聞いて呆れる。煩悩まみれじゃないか……)
綾斗は背中に回した手を解く。そしてゆっくりと羽菜から離れた。
ハグを終えると、羽菜は綾斗の顔を見ながらぱちぱちと瞬きをしていた。
「綾斗くん、目がいつもと違います」
「どういうこと?」
「瞳孔が開いていると言いますか、ギラっとしている感じがします」
「……気のせいだよ」
咄嗟にごまかして、その場を切り抜けた。
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