第2話 私とハグともになりましょう
ハグ、しますか?
ハグとはつまり、抱き締めるということだ。抱擁とも言い換えられる。
ハグなんていうのは、恋人同士が愛を確かめ合ったり、仲間同士で喜びを分かち合ったりするときに行うものだ。
それをなぜ、このタイミングで?
ここまでのやりとりで、そんな提案がされる文脈はなかったはずだ。
「知ってますか? ハグをすると、オキシトシンと呼ばれる幸せホルモンが分泌されるんです。ストレス軽減効果とリラックス効果があるそうですよ」
「それは、聞いたことがあるけど……」
「だからきっと幸せな気分になれるはずです」
「話の方向性が見えないんだけど……」
まったくもって意味が分からない。彼女は成績上位の賢い女の子だったはずなのに、こうも脈絡のない話をされるとは思わなかった。
戸惑う綾斗に、羽菜はさらに補足をする。
「水野くんはきっと疲れているんです。だから全部投げ出したくなってしまったんです」
そこまで聞くと、ようやく話の道筋が見えてきた。
「それってつまり、俺が疲れているように見えたから、ハグで癒してあげようって話?」
「そうです」
何の躊躇いもなく肯定される。そこには恥じらいは微塵も浮かんでいなかった。
羽菜の理屈は理解できたが、承諾はできない。綾斗は角を立てないように作り笑いを浮かべた。
「いやいや、それは流石に悪いよ。俺たち付き合っているわけでもないんだし」
「付き合ってなくてもハグはできます。遠慮しないでください」
「そうは言っても、いきなりハグって言うのは……。それに白鳥さんは嫌じゃないの? よく知りもしない男とハグをするなんて」
普通の女子は、ただのクラスメイトとハグなんてしない。体育祭とか合唱コンクールとか特殊な状況下では分からないが、こんななんでもない日にハグなんてするはずがない。
綾斗はいたってまともなことを言っているつもりだったが、羽菜の理屈は違った。
「死んじゃうより、ずっとマシです」
その言葉で、羽菜が真剣なことが伝わった。綾斗の命と羞恥心を天秤にかけて、ハグをするという結論に至ったのだろう。羽菜の気持ちを考えると、胸の奥が熱くなった。
「白鳥さんは、優しいんだね」
ただのクラスメイトが、ここまで自分のことを想ってくれているとは思わなかった。
綾斗の知っている羽菜は、どちらかといえば奥手なタイプだ。異性と軽々しくスキンシップをとるようなタイプではない。
それなのに自分からハグを申し出るなんて、相当の覚悟があってのことだろう。その気持ちだけでも嬉しかった。
「弱っているときは、甘えてもいいんですよ」
羽菜の言葉が胸に沁みる。その優しさは正常な判断を鈍らせた。
もういっそ、余計なことは何も考えずに、彼女の優しさに甘えてしまいたい。
羽菜はもう一度、両手を広げる。
「大丈夫ですよ」
熱に浮かされて頭がぼんやりとしてくる。甘い蜜につられるように、綾斗はフラフラと羽菜に近付いた。
次の瞬間、羽菜の華奢な腕が綾斗の身体を包み込んだ。
ぎゅーっとほどよい力で抱き締められる。触れ合っている場所からぬくもりが伝わった。
見下ろした先には、羽菜の小さな頭がある。柔らかな髪からはほのかにシャンプーの甘い香りが漂ってきた。
女の子にハグされるなんて、初めての経験だ。心臓は破裂しそうなほどにドキドキしている。多分このドキドキは羽菜にも伝わっているだろう。
緊張は当然している。だけどそれ以上に、ほっとした。
羽菜のぬくもりに包まれていると、とてつもなく幸せな気分になった。
柔らかくて華奢な身体を感じていると、自分を守っていた鎧が一気に剥がれる。無防備になった心は、甘すぎる刺激に敏感に反応した。
ほろりと涙が零れる。緩み切った頭では、涙を止めることなんてできなかった。
ハグをしていた時間は10秒程度だったと思う。だけど体感的には、もっとずっと長く抱き合っていたように感じていた。
羽菜はゆっくりと背中に回した手を解く。名残惜しさを感じながらも、綾斗は羽菜から離れた。
羽菜はどんな気持ちでハグをしていたのだろう? そう思って表情を伺うと、羽菜の顔がほんのり赤く染まっていることに気が付いた。
羽菜は上目づかいで見つめながら、小さな手で綾斗の頬に触れる。
「水野くん、泣いてるんですか?」
羽菜から指摘されて、慌てて涙を拭った。
「ごめん! 急に泣いてキモイよね」
咄嗟に取り繕うが、涙を流した事実が消えることはない。羞恥心に支配されていると、羽菜はぱちぱちと何度か瞬きをした。
「そんなに良かったんですか?」
彼女は引いてない。そう感じ取って、安堵した。
綾斗は素直に感想を伝える。
「すごく幸せな気分になった」
言葉にするのは気恥ずかしいけど、そうとしか言いようがなかった。すると羽菜は、綾斗の瞳を覗き込む。
「もう死にたいなんて思いませんか?」
「うん、おかげさまで」
「なら、良かったです」
羽菜はふわりと微笑んだ。
事が済み、若干の気まずい空気が流れる。綾斗は気持ちを切り替えるように、明るい声で羽菜に伝えた。
「教室に戻ろうか」
そう言って屋上から出ようとする。扉に手をかけたところで、羽菜が声を上げた。
「水野くん、私とお友達になりませんか?」
「え?」
思わず振り返って、羽菜を見つめる。
「友達になるのは、構わないけど……」
戸惑いながらもそう伝えると、羽菜はふるふると首を横に振った。
「普通のお友達じゃありません。疲れたときにハグをするお友達です」
「ハグをする友達?」
「はい、ハグともです」
それは所謂、セフレとかキスフレとかいう類のものだろうか? それらと比べるとマイルドに聞こえるが、関係性としてはなかなかディープだ。はい、なりましょうと簡単に承諾できるものではない。
「そんなの不健全でしょ。クラスメイトの域を超えている」
「でも、水野くんはハグして幸せな気分になったんですよね?」
「それは、そうだけど……」
「有効性は証明できました。実践する意義はあります」
それっぽい言葉を並べているが、提案している内容はとんでもない。言葉は悪いが、頭がおかしいとしか言えなかった。
この場を切り抜ける言葉なんてひとつも浮かばず苦笑いをしていると、羽菜は真面目な表情で綾斗に手を差し伸べた。それは握手を求めているような仕草だ。
「水野くん、私とハグともになりましょう」
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