ハグとも ~疲れたときにハグで癒してくれる友達ができました~

南 コウ

第一部

第1話 ハグ、しますか?

 人生に疲れてしまった。


 高校二年生の分際でそんな泣き言を言っていたら、人生の先輩方に怒られてしまうかもしれないけど、水野みずの綾斗あやとは本当に疲れていた。


 綾斗は昔から、場の空気を読み過ぎる性格だった。人の気分を害さないように、おかしな奴だと思われないように、言葉、視線、仕草などのあらゆる情報を読み取って、当たり障りのない行動を取り続けてきた。


 作り笑いは、とっくの昔に会得済み。高二にもなれば、そう簡単に剥がれることもない。


 ――菩薩ぼさつ。クラスメイトからは、そんなあだ名を付けられていた。


 常に穏やかに微笑んで、物わかりの良いことしか言わない姿が、悟りを開いているように見えるらしい。


 呼び方なんてものはどうでもいい。すでに浸透している渾名を、いまさら撤回する気も起きなかった。


 だけど、菩薩で居続けるのは結構しんどい。常に周囲の顔色を伺って生きるのは、とてつもなく疲れる作業だった。


 生きづらいと思ったことは、一度や二度ではない。そんな悲観的な感情が、綾斗を屋上へ誘ったのかもしれない。


 学校の屋上は、普段は施錠されている。生徒は立ち入ることができないはずなのに、この日はなぜか扉が半開きになっていた。


 屋上なんて滅多に入れるものじゃない。興味本位から、綾斗は屋上に忍び込んだ。


 雲一つない青空を仰いでから、ベンチが並んでいる中庭を見下ろす。その瞬間、ふとある考えが過った。


(ここから飛び降りたら、楽になれるのかな?)


 屋上から飛び降りてすべてを手放せば、この生き辛い世界から脱出できる気がした。


 綾斗は金網に手をかける。……が、すぐに手を離した。


 実行なんてできるはずがない。飛び降りた後の惨状が、ありありと浮かんでくるからだ。


 屋上から飛び降りたら、あちこちに多大な迷惑がかかる。


 飛び降り現場を目撃した生徒にはトラウマを植え付けるし、万が一落下地点に人が居たら大事故につながる。


 高校生が飛び降りたとなれば、学校にマスコミが押し寄せてくるかもしれないし、そうなれば授業に支障をきたす。受験を控えた先輩方は、堪ったものじゃないだろう。


 屋上が施錠されていなかったと知られれば、学校側の管理体制も追及される。SNSで叩かれでもしたら、学校の評判は失墜するだろう。


 考えれば考えるほど、迷惑極まりない話だ。飛び降りなんてするもんじゃない。


 頭の中で瞬時にリスクマネジメントをしている自分に気付き、少し笑ってします。

 こんな風に先々のことを考えられるうちは、まだまともなのだろう。


 大人しく教室に戻ろうとした時、アッシュグレーの長い髪が視界に入った。誰かいると気付いた次の瞬間、悲鳴にも似た叫び声が響き渡った。


「死んじゃ駄目です!」


 咄嗟に耳を塞ぐ。突然大声をぶつけられたことで、心臓がバクバクと暴れまわった。浅い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げる。


 そこにいたのは、クラスで3番目に可愛いと言われている女の子だった。


 ――白鳥しらとり羽菜はな


 透けるような白い肌と、左目の下にある泣きぼくろが特徴的で、どことなく薄幸そうなオーラを醸し出している。目立たない子だけど、よく見ると美人だというのはもっぱらの噂だ。


 そんな薄幸美人が目の前で叫んだ。普段の大人しい彼女からは、想像できなかった。


 驚きのあまり固まっていると、羽菜はこちらに歩み寄ってくる。そのまま綾斗の手首を掴み、強引に金網から引き離した。真っすぐ綾斗を見つめながら告げられる。


「生きていれば嫌なこともいっぱいあると思いますが、死んじゃ駄目です」


 その発言で、一連の行動原理が理解できた。羽菜は綾斗が屋上から飛び降りようとしていると勘違いしたのだろう。


「えっと、白鳥さん。驚かせちゃってごめんね」


 綾斗はお得意の作り笑いを浮かべる。「別に飛び降りるつもりはないよ」と言いかけたところで、言葉を詰まらせた。目の前で想像もしない出来事が起こったからだ。


 白鳥羽菜は、泣いていた。


 グレーの瞳から大粒の涙が零れて、真っ白な頬を濡らす。涙はとめどなく溢れ出して、アスファルトへ零れ落ちた。


「ちょっと、白鳥さん!?」


 突然の出来事に綾斗は頭が真っ白になる。彼女の感情が伝染して、こちらまで息苦しくなった。


「泣かないで」


 落ち着け、落ち着け、と心の中で唱えながら、泣きだす羽菜を宥める。すると羽菜はつっかえながらも、言葉を絞り出していた。


「ごめ、なさい……でも、やっぱり、死んじゃ駄目です。絶対、死んじゃ駄目です。駄目なん、です……」


「分かった! 分かったから! いったん落ち着いて!」


 綾斗はポケットに手を突っ込んで涙を拭えるものを探す。しかし不運なことにハンカチもティッシュも持ち合わせていなかった。こんな状況に鉢合わせるとは思っていなかったから仕方ない。


 成す術なく立ち尽くしていると、羽菜が自分のポケットからハンカチを取り出して涙を拭った。


「ごめんなさい……。急に……」


 羽菜は深呼吸を繰り返しながら、涙を止めようと試みていた。綾斗はその光景をただ見守ることしかできなかった。


*・*・*


 羽菜の涙が止まってから、ようやくまともな会話ができるようになる。


「びっくりしました。水野くんがそんなに思い詰めていたなんて……」


「思い詰めてたってほどでもないんだけどな……」


 その言葉に嘘はない。ふらっと屋上に立ち寄って、ふっと飛び降りてみたらどうなるのかなと考えていただけだ。思い詰めていたなんて、深刻な状態ではない。


「嘘つかなくてもいいんです。それに、こういう時は笑わなくてもいいんですよ」


 その言葉で、自分がこの場に及んでも作り笑いを浮かべていることに気が付いた。さすがにこの状況で笑っているのは不謹慎だろう。綾斗は頬の力を抜いた。


「クラスで嫌なことでもありました? いじめられているようには見えませんでしたけど」


「いじめられてなんかないよ。クラスメイトとはそれなりに仲良くやってるつもり」


「じゃあ、ご家庭で何かありました?」


「家族関係も良好。父さんも母さんも、優しい人だよ」


「それなら、恋人に裏切られたとか?」


「残念ながら、生まれてこのかた恋人らしき人はできたことありません」


「それならどうして?」


 羽菜は再び泣き出しそうな顔になる。また泣かれでもしたら大変だ。羽菜の涙を回避するため、頭に思い浮かんだ理由をそのまま明かした。


「全部投げ出せば、楽になれると思ったんだよ……」


 言葉にしてから後悔した。こんなことを言う奴はまともじゃない。


 恐る恐る羽菜の反応を伺う。幻滅、同情、憤怒、あらゆる反応を想定していたが、羽菜の反応はどれにも当てはまらなかった。


 羽菜は真っすぐ綾斗を見つめながら両手を広げる。その直後、予想外の言葉を発した。


「ハグ、しますか?」


◇◇◇


本作をお読みいただきありがとうございます。

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※本作は「彼女に蛙化現象されたから、クラスで人気の京美人を彼女にして見返してやります」とクロスオーバーしています。

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