マンホール

炭酸おん

マンホール

 妖怪。それは、日本で遥か古来恐れられてきた者達である。

 どこからか飛んできては人を襲う一反木綿、川に入った子供の尻子玉を抜き取る河童、飢えのあまり人をも食い散らかす餓鬼…。

 語ろうにも語り切れないほどの妖怪が、この世にはいる。だが、そんな妖怪達よりも遥かに恐ろしいものが、この世にはいるのだ。

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 彼は高瀬翔馬。この鷲見町に住む十六歳の男子高校生だ。

 一年前、受験勉強に明け暮れて、やっとの思いで第一志望だった鷲見第一高校に合格し、今は学校生活を満喫していた。

 楽しい学校生活、と言いたいところだったが、彼には一つ、気になっていることがあった。

 彼の通学路には、まあ当然だがマンホールがある。そのマンホールの上を跳んでいる奇妙なおじさんがいるのだ。翔馬はこのおじさんをマンホール爺と勝手に呼んでいる。

 このマンホール爺は、毎日毎日、同じマンホールの上を「0」と言いながら跳んでいた。

人気の少ない道ということもあり、翔馬は何だか怖くなり、以降は別の道を通って通学していた。

だが、何故かどうも気になって頭から離れない。翔馬はにわかに恐怖しつつも、その探求心を抑えきれず、次の朝は久々に、マンホール爺のいる道を通って通学することにした。

 今朝もやはり、マンホール爺は同じ場所にいた。相変わらず満面の笑みでマンホールの上を跳んでいる。

 しかし、前とは変わっている事が一つだけあった。彼の発する数字が「1」になっていたのだ。

 翔馬はやはり気味が悪くなり、走ってその道を通り抜けた。

 マンホール爺は、そんな事も意に介さず、ただただ笑いながらマンホールの上を跳んでいた。

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 退屈な授業が終わり、ようやく昼休みがやってきた。生徒達は水を得た魚のように活気に溢れ、友人と話をする者、読書や勉強など己の世界に没頭する者、各々が自由に行動を始めた。

 翔馬もその一人だった。彼も彼の友人達とくだらない話を楽しんでいた。


「実はさ、今日久々にマンホール爺を見に行ったんだよね」


 友人の一人から「誰か怖い話して」と頼まれたので、翔馬は今朝のことを話すことにした。


「…って感じで、ただただ笑顔でマンホールの上を跳んでるだけなんだけど、なんだか気味が悪くてさ。だからそれなりに知られてるんだろうけど」


 この周辺の地域では、マンホール爺は「笑顔でマンホールの上を跳ぶ奇人」とし割と有名だった。だが、笑いものにしつつも、やはり皆彼に恐怖心を抱いているのか、わざわざあの通りまで出向いて直接マンホール爺に会いに行く者はほとんどいない。ただただ、『マンホール爺は宇宙から来た侵略者だ』とか『マンホール爺は動物を殺してあのマンホールの下にため込んでいる』とかの突拍子もない噂話が広がっているくらいである。


「…なあ、俺さ、今日マンホール爺に話しかけてみようと思うんだよ」


 突然、友人の一人が言った。

 その友人は斎藤卓と言って、この友人グループのリーダー的な奴である。とても明るく気さくな性格なので、彼の周りにはいつもこうして人が集まる。


「お前、マジで言ってるのか? わざわざ話しかけるほどの奴でも無いだろ?」

「でもさ、何か気になるんだよ。噂話が本当かどうか、確かめてみようと思って。多分、マンホール爺に話しかけようとした奴って、俺が初めてなんじゃね?」


 卓は呑気に言った。彼も翔馬と同じで、恐怖心よりも探求心が勝ったのだろうが、彼には一度決めたら必ずやるという頑固なところがある。多分、翔馬のように気味悪がって逃げて行ったりせず、本当に話しかけるつもりだろう。


「なあ卓、一応気を付けろよ? もしかしたら本当にヤバい奴かもしれないし」

「大丈夫だよ、その時は俺が返り討ちにしてやる。なんせ俺は中学の頃、柔道の県大会で一位になったんだぞ? 俺にかかれば爺なんて腰がぬけてても倒せるわ!」


 卓はそう意気込んだ。相変わらずの彼の県大会一位への過信に、皆思わず笑ってしまった。

 卓は一人でマンホール爺に話しかけにいくようだった。友人を危険に巻き込みたくないという理由かと思ったが、どうやら手柄を独り占めしたいらしい。そういう素直じゃないところが、やはり彼らしいと翔馬は思った。

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 翌朝、翔馬が学校へ行くと、卓の席の周りにクラスメイトが集まっていた。何だか物凄く嫌な予感がし、翔馬は急いでそこに向かった。

 卓はまだ来ていないようだった。じゃあ何故こんなにも人が集まっているのか。翔馬は一番近くにいた友人に聞いてみた。


「実は、昨日の夕方から卓が行方不明になったらしい。家にも帰ってきてないみたいで、親もどこにいったかさっぱり分からないって。」


 卓が行方不明になった。それを聞いた翔馬は、ほぼ無意識に結びつけてしまった。昨日のマンホール爺のことを。

 その日の昼、卓が不在にも関わらず、いつものメンバーは綺麗に集まった。やはり皆卓の事が心配なのだろう。


「なあ、やっぱり卓ってさ…」


 その場の全員の表情から察するに、どうやら翔馬だけではないようだった。全員、同じ結論にたどり着いたのだろう。


「やっぱり卓はマンホール爺に殺されちゃったのか…?」

「殺されたとか言うな! 普通に誰かにさらわれたとか、ただの家出とかかもしれないだろ!?」


 全員混乱していた。言い合いになったが、やがてその言い合いに意味が無いと全員が悟り、自然と沈黙が訪れた。


「…やっぱりさ、もうマンホール爺に関わるのは止めた方がいいんじゃない? なんかもう、怖いよ…」


 一人が口から零れたかのように呟いた。それに皆同調していく。そして、「マンホール爺にはもう関わらない」という結論だけを残して、その日はお開きとなった。

 それからは、普通の日常が戻って来た。これまで通りくだらない会話もするし、勉強を退屈に思うし、そんなごく普通の日常が繰り返されていた。卓がいないことを除いては。

 卓の事は忘れよう、と誰かが言った。卓について首を突っ込みすぎたら、自分たちも殺されてしまうかもしれない。やがて卓の存在は無かったこととなった。

 だが、翔馬はそれが許せなかった。卓は翔馬の大切な友人の一人だった。それを綺麗に忘れることなど、彼にはできなかった。

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 卓が行方不明になってから三週間が経った。もう、クラスで卓の話題が出ることは全く無くなった。でもやはり、翔馬はこの事はうやむやにすべきではないと感じていた。

 その日、翔馬は卓の家を訪ねた。呼び鈴を鳴らすと、玄関から卓の母が出てきた。


「あの…、卓はまだ見つからないんですか?」

「はい。警察も探してはくれているのですが、何だか諦めかけているような気がしてきて」


 卓の母はかなりやつれていた。息子の安否が不安でまともに眠れていないのだろう。


「マンホール爺の所へ行くと言っていたと、卓の友人の一人から聞いて、警察にも伝えたのですが、彼らはあまり信じてくれていないみたいで…」


 卓の母は話しながら泣き出してしまった。そこには、ちゃんと捜査してくれない警察への怒り、未だ息子が見つからないことへの不安、もしかしたらと考えてしまう自分への憎悪と、様々な感情がぐちゃぐちゃに入り乱れているような気がした。


「お気持ちは分かります。僕も卓のことを調べてみようと思って、それで今、マンホール爺について調べてるんです。何か知っていることはありますか?」


 翔馬が聞くと、卓の母は涙を拭いて語りだした。


「私もここに長く住んでいるのですが、あのような顔は今まで見たことがありませんでした。現れたのも随分と最近なのですよね。あと、最近は卓以外にも行方不明者が出ているようで…。私が知っていることはこれ位です。お役に立てずすいません」

「…大丈夫です。辛い話をさせてすいません。僕も卓を探してみます。今日はありがとうございました」


 そう言って、翔馬は卓の家を後にした。

 次に彼が向かったのは図書館だった。もしかしたら、マンホール爺は妖怪か何かなのかもしれない。少なくとも翔馬には、笑いながらずっとマンホールの上を跳んでいる生き物が同じ人間には思えなかった。

 妖怪に関する色々な資料を読み漁ってみたが、やはりマンホール爺のような物は一つも見つからなかった。

 となると、後できることはもう一つしかなかった。

 マンホール爺に、直接話を聞く。

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 しばらく遠目にマンホール爺を観察してみたが、やはり笑いながらマンホールの上を跳んでいるだけで、他には何も分からなかった。

 やはり、直接話を聞く以外に方法は無いみたいだ。

 対策は十分講じてある。小学生がつけているような防犯ブザーを持ってきた。襲われても、これで助けを呼ぶことができる。

 翔馬は「10」と言いながら跳んでいるマンホール爺に近づいた。


「すいません、貴方はそこで何をしているんですか?」


 あまり刺激しないように、翔馬はマンホール爺に話しかける。するとマンホール爺は、


「これが楽しいんだよ! 君もやってみない?」


 と、気持ち悪いほど屈託のない笑みで言った。

 いきなり襲われたりとかは想定していたが、同じようにマンホールの上を跳ぶことを提案されるとは思わなかった。が、そんなくだらないことに付き合っている暇は翔馬には無かった。


「斎藤卓という高校生を知っていますか? 何か彼について知っていたら教えてください」


 翔馬は、目の前のマンホール爺が「卓を殺した」という可能性があることを分かったいながら、表面上はあくまで冷静に聞いた。ここで下手に刺激して自分が殺されてしまっては意味が無い。

 だが、マンホール爺はやはり笑って飛び跳ねるだけで、何も言おうとしない。


「…おい、ふざけてるのか?」


 その態度に怒りを隠しきれなかった翔馬は、わずかに語気を荒くする。


「うーん、君もやってみなよ! やってくれたら教えてあげる!」


 突然、マンホール爺が跳ぶのをやめて言った。そして、翔馬に場所を譲るようにして、マンホールの上から退いた。

 気味が悪くて仕方なかった。だが、やれば教えてくれるようなので、やってみることにした。

 跳ぶ。着地する。跳ぶ。着地する。

 足が地面に着く感覚と、地面から離れる感覚を何度も繰り返していった。

 マンホール爺はそれを、何も言わずに、いつもの笑みを浮かべて見守っていた。

 跳ぶ。着地する。跳ぶ。着地する。

 ただそれだけが繰り返される。マンホール爺は「もういいよ」とも言わず、黙ってこちらを見ていた。

 跳ぶ。着地する。跳ぶ。着地————


 地面が、無かった。

 マンホール爺は笑っていた。マンホールの蓋を持って。

 翔馬は何も反応できずに、マンホールの底へと落ちていった。

 暗く深い闇に体が落ちていく。周りは黒一色で、落ちているという実感はほぼ無かった。

 気が付けば、背中に強い衝撃を受けていた。頭の下がほのかに温かくなる。

 翔馬は上を見た。マンホール爺がこちらを見ていた。やはり彼は屈託のない満面の笑みを浮かべていた。

 段々と光が消えていく。自分の意識が遠のいているのか、マンホール爺が蓋を閉じたのか、翔馬にはどちらなのか分からなかった。

 そして、一面闇になった空間で、翔馬の意識は途絶えた。








 トン。

 トン。

 トン。

 トン。

「11」。

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 三週間後、下水道から異臭がするという通報を受けて、警察と市が調査を進めると、そこから約三十人程の遺体が発見された。既に白骨化しているものから、最近死亡したと思われるものまで様々だったそうだ。

 死因はいずれも、マンホールから落下し、頭を打ったことによる失血死とされた。

 その三日前、「30」と言いながら跳んでいた姿を最後に、マンホール爺は姿を消していた。


 結局マンホール爺とは何者だったのか。ただの不審者か、それとも妖怪の類なのか。真実を知るものは誰一人としていない。正体不明、それこそが真の恐怖である。

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