風の強い日は

@testimony5588

風の強い日は

 風が強い日は、髪を切ってもらう日だった。蒼汰が小学校に入ったばかりの頃だ。髪が摘ままれるように風になびき、そろそろ切らなきゃなあ、と思うと、近所の中学生だった亜美がどこからともなくやって来て、蒼汰の上半身にふわりと髪よけの布をまとわせるのだ。そして、これまたどこからともなく鋏を取り出し、ジョキジョキと彼の髪を切り始める。その様子がとても自然なので、亜美はいつどこにでも髪よけの布と鋏を持ち歩いているんじゃないだろうかと、蒼汰は思うのだった。

 蒼汰のお母さんは亜美のことを、亜美ちゃん亜美ちゃんと呼んでいたから、蒼汰もやっぱり亜美ちゃんと呼んでいた。二人のお母さん同士が、ご近所の仲良しなのだった。


 亜美はとても手先が器用で、散髪のでき具合はいつも完璧だった。美容師に憧れているのだと言ったことが一度あった。だから蒼汰は、亜美は将来美容師になるものだとばかり考えていた。散髪をするのは決まって、蒼汰の家の小さな庭先で、そこが二人の美容室だった。切られた髪は蒼汰がまとった布に落ち、細かいのは強い風がどこかに飛ばしてくれる。落ちた髪はまとめて捨て、あとは脱いだ布を風に向かって一振りすると、もう何もかもがきれいさっぱりしているのだった。


 そんな青空美容室は、さらに何年か営業を続けてから、店仕舞いしてしまった。亜美が大学に入り、蒼汰の町を離れたからだ。それから時々、夏休みやお正月には亜美が戻ってくることもあったし、蒼汰の家に挨拶に来たことだってあったのだけど、ゆっくり話ができるような機会はなかった。蒼汰は本物の理髪店で髪を切るようになっていた。


 蒼汰も中学校に入り、新しい環境にもすっかり馴染んだ初夏のこと、とても風が強い日だった。期末テストを終えてお昼前に帰ってくると、お客さんが来ているみたいで、玄関には見慣れない女性ものの靴が二足あった。部屋に上がってみると、お客さんは亜美とその母親だった。

「久しぶり」と亜美が笑った。蒼汰はなぜだか少し緊張して、「お、おう」と返事することしかできなかった。

 亜美はそんなことには全然構わず、

「夏なのに暑苦しい髪してるのねえ。おいで、昔みたいに切ったげる。今日は風も強いし、庭に出よう」

 そう言って振り返りもせず、すたすたと行ってしまった。お母さんたちはというと、こちらには目もくれずお喋りを続けている。仕方ないので蒼汰も庭に向かうと、いつの間にやら小さなイスが引っ張り出され、あれよあれよという間にそこに座らされた。どこに隠していたのか、首の周りにふわりと布が巻き付けられ、一瞬くすぐったかった。それからゴワゴワした蒼汰の髪を、亜美は念入りに櫛で梳かし、ジョキっと最初の鋏を入れた。


「相変わらず硬い髪。風で飛んでったら、誰かに刺さっちゃいそう」

 亜美は楽しそうに言った。散髪をする手の動きも、なんだか楽しそうに思えた。蒼汰は思い切って尋ねてみた。

「まだ美容師を目指してんの?」

「私? んー、美容師はねえ、なりたかったけど、やめにしたの」

蒼汰は少しもったいない気がした。

「なんで?」

「そうねえ、美容師よりもっとなりたいものができたから。今はそっちを目指して勉強中」

 それが何なのか、蒼汰は重ねて聞きたかったけれど、今度は亜美の方が間髪入れず質問してきた。

「蒼汰は将来何になりたいの?」

 自分は何になりたいのだろう。蒼汰は黙って考えた。考える頭の上で、亜美の手が小刻みに動く。急ぐでもなく、しかし止まることもなく、花から花に蝶が舞うみたいに。


「終わった」と小さく言って、亜美は落ちた髪の毛を丁寧に拾い集めた。それから髪よけの布を、巻き付けた時と同じようにふわりと取り、強い風に向かって一振りした。きれいさっぱり。蒼汰が考えていたことまで、風に舞って飛んでいくようだった。

 頭が軽くなって、夏の陽射しをいつもより強く感じる気がした。質問の答えを亜美は促さなかったな、と蒼汰は気付く。そこで無理にでも何かを答えていたらどうなっていただろうか。あともう少しだけ切り続けていてほしかったと、蒼汰は思った。

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