学級委員長と不良少女 Ⅷ

 私はもう知っている曲を歌い尽くして、声もれてきた。対して白銀さんは、歌いながら次の曲を予約している。器用だ。

 私は、彼女の単独ライヴを独り占めしている気分になっていた。


 ふと、テーブルに置かれていた、彼女のスマホが光る。

 歌っている途中だった白銀さんも即座に気付いてスマホを持ち上げ、私に見えない角度で画面に指を滑らせた。

 本当に器用な子だ。

 メールかな。

 彼氏かな。

 居るかどうか、知らないけれど。


 返信を済ませたのか、白銀さんはスクリーンに視線を戻し、歌い終えると、

「ごめんちょっとといれー」

 自分の得点を見る前に、彼女は足早に部屋を出て行ってしまった。


「……」


 急に部屋が静まり返る。

 長時間大音量の中に居た所為か、ひとりぼっちになった寂しさが一気に広がる。

 今、私はヤンキーだらけの路地裏の、雑居ビルに居る。知っている人は、白銀魅月という不良少女一人だけ。けれど彼女も今は居ない。


 私はストローで、烏龍茶をすする。

 薄暗い部屋の中。


 一度歌った曲でも入れようか。

 そう思ったけれど、虚しくなって、やめた。


 もう一口、多めに口に含んで、飲み込む。

 渇いた喉が冷たく潤う。じんわりと、身体に染みる。


 寒さと同時に、不安がどっと押し寄せた。

 そう言えば、入店して一度も時間を確認していなかった。慌てて腕時計を見ると、学校ではもうすぐ終礼の頃合だ。このまま居続けたら、いつもの時間に帰宅できなくなってしまう。


 帰らなきゃ。


 私は恐る恐るドアを開け、廊下に出た。

 薄暗いライトで照らされた、ボロボロの店内。

 別の部屋から、人の声が漏れている。

 音楽や歌声に混じって、繰り返し短く叫ぶような、女性の声も聞こえた。

 ぞっとした。

 たまらず、耳を塞ぐ。


「し、白銀さーん……」

 自分でも聞こえないくらい小さな自分の声で、届く筈がないけれど、私は何度も呼びかけながら、廊下の隅っこを少しずつ進んだ。

 トイレの場所を示すプレートの、矢印に従う。


 そして見付けた。

 男子トイレから出て来た、白銀さんを。


 学校の時と同じだ。

 彼女は、知らない男の人と一緒だった。


 ――いや、私はあの男を知っている。


 このお店の、受付の人だ。


 男はエントランスの方へ去り、それを見送った白銀さんが私に気付いた。


 学校の時と、全く同じ。

 深紫の大きな瞳が、真っ直ぐ私を見ている。

 睨んでいるように見えるのは気のせいだと、冷えた脳と跳ねる心臓に言い聞かせる。


「よ! いいんちょ」

 白銀さんが、笑いかける。

 あの時と同じ、綺麗な笑顔。

「……な、に、してたの?」

 声が枯れて震えた原因は、明らかに恐怖心だった。

「だ、男子トイレなんか入って……何、してたの?」

 私より背の低い彼女は、

「それ、聞いちゃう?」

 やはり困ったように、苦笑した。

 学校では、聞けなかった。


「本当に聞きたいなら言うけど」


 悪い事をしているのは明らかだ。

 聞くのが怖い。

 聞いてしまったら、私も巻き込まれたみたいで、私も悪い事をしている気がして、自分が壊れる気がした。

 ここでも、聞けなかった。

 聞かないまま、彼女を否定した。

「やめなよ……こんなの」

 喉が渇いて、声が上手く出せない。

 でも、彼女を救う為にも、言わなきゃいけないと思った。

「そんなにお金が必要なの? お小遣いじゃ足りないの? だめだよ、こんなの……先生とか、親とかにバレたら、どうする気なの……?」


「いいんちょ、パパママからどのくらい貰ってる?」


「へっ?」

「お小遣い」

「お……お昼の食費と、それから、通学の交通費! ほ、欲しい物があったら、相談して、本当に必要な物かどうか、親が勝手に判断するの」

 本当は遊行費も少し受け取って貯金しているけれど、その事は言わなかった。今は不要な情報だからだ。

「結構厳しいでしょ、うちのルール」

 けれど、それは無意味な虚勢だった。


「あたしはね、貰えないの」


「……え?」

「父親がね、クズだから。ママも父親に逆らえなくて、大変なんだ。だからあたし、ごはん食べる為に自分で稼がないといけないんだよ」

「そ、そんな……」

「ここで話したくない。部屋、戻ろ?」

 呆然と立ち尽くす私の手を、彼女はそっと引っ張った。



 *          *          *



 隣の部屋に客が入ったらしい。重低音と、複数の男の汚い叫び声がダダ漏れして来る。何杯目になるか分からない烏龍茶は手付かずのままで、グラスの水滴がテーブルを濡らす。

 白銀さんはソファの上で膝を抱き、無言でスマホばかりを見ている。


 私からの質問を待っているのだろうか。


 何をたずねるにしても、どれも内容が重くて言葉が出て来ない。

「白銀さん……」

「んー?」

 悩み悩んで悩み抜いた結果、私の口から出た言葉は。

「パンツ、見えてる」

「んー」

 白銀さんは少しスカートの位置を直して、会話終了。


 いやまだ全然見えてるんだけど。

 いや私が言いたいのはそんな事ではなく。


 やはりここは、学級委員長として私がしっかりしなくては。

 私は意を決した。


「あのね、白銀さ……」


 私の決意は、ドアのノックに出鼻をくじかれた。

「はいはーい!」

 白銀さんが嬉々としてドアを開け、入って来たのはさっきの受付の男。

 私と目が合うと、少し気まずそうな顔をした。

「お待たせしました」

 フライドポテト。そして焼き飯。

 更にから揚げ、たこ焼き、オニオンリング。

 それから、大盛の焼きそば。

 彼は手際良くテーブルに並べると、

「ごゆっくり」

 そそくさと出て行った。


「なに、これ」

「サービスだってー。ここの焼きそば好きなんだよね」


 肩が震えた。

 これは、恐れではない。

 明らかな怒りだ。


「さっきのと、関係あるの?」

「まぁね。カラオケ代も浮いちゃった。ラッキー」


 私はテーブルを両手で思い切り叩いた。

 たくさんの食器が、割れそうなほどの音で揺れる。

 立ち上がって、我を忘れて怒鳴り散らした。


「やめなよそういうの!」


 白銀さんはビクともしなかった。

 それどころか私の事なんか完全に無視して、スマホを見ながら焼きそばを食べ始めた。


「あんた自分が何やってるか分かってるの!?」

「晩ごはん代を稼いだだけだよ」

「馬鹿じゃないの!? そんな事で……!」


「『そんな事』もできないんだよ! あたしは!」


 密閉された狭い部屋で、彼女の怒声は私の鼓膜を、脳を、心臓を、激震させた。

 彼女はゆらり、立ち上がる。

 伸ばされた腕が、私の胸ぐらを――両手でそっと握る。


 それから淡々と、訥々とつとつと、機械のように。


「何もしなかったらごはん食べる事すらできないんだよ。中二でバイトなんてできないし、家に帰ったら父親に怒鳴られて、服脱がされて、殴られて、蹴られて、ママが私を庇うと、今度はママが殴られる。だからあたしは、なるべく家に帰らないようにしてるんだ。食べ物もお金も、じっとしてたらどこにも無いんだよ」


 彼女は胸の内を話してくれた。


 保健室で見た、彼女の身体を思い出した。


 涙を流しているのは、私だけだった。


「家に帰るのが、怖い」


 白銀魅月は学校を休んだ事が無い。

 それは、他に居場所が無いからだと知った。


 私だって、必死に生きて来た。

 学級委員長として、成績を落とさないように。

 必死に勉強して、ボロを出さないように。

 誰にも相談できず、孤独に戦って来た。


「私の努力なんて、私の不幸なんて……貴女と比べたら本当に、小さな事なんだ」


 どうしてこんなにも違うのだろう。

 同級生なのに。


「そんな事ないよ」

 小さくて温かい手が、私の涙をそっと拭う。

「努力とか、不幸とか、誰かと比べる物じゃないでしょ? みんな自分の人生を、必死に生きてるんだよ」


 悔しい。


 私の方が分かっているつもりだった。

 私の方が正しいと信じて疑わなかった。

 私の方が彼女をさとす予定だった。


 なのに。


 私の方が、なぐさめられるなんて。




「ほら、冷めないうちに食おうぜ」

「いらない。これは貴女の報酬でしょ」

「こんなに食べられないよ」

「でも……」

「あたしがいいんちょと一緒に食べたいんだよ! はいこれ。これも食べて! ポテトは半分こね」


 結局、押しに負けた。

 慣れない事ばかりして、お腹も空いていた。

 親には適当に理由を作ってメールを送ろう。


「白銀さんは、いつから……その、こういうのしてるの?」

「去年くらいからかな」

「怖く、ないの?」

「うん。お金くれる人は優しいし、言う事ちゃんと聞いてくれるから。立場悪いのは男の方だし」

「それはそうだけど」

「むしろお金も交渉もナシで突然近付いて来る大人の方が、あたしは怖い。何されるか分からないから」

 正論過ぎる。

 でも。


「でも……やっぱり見過ごせないよ」

「ん?」

「だめだよ。自分の身体は、大切にしないと」


 白銀さんの、焼きそばを口に運ぶお箸が止まった。

 目を丸くして、私を凝視する。

 そして、ケタケタと笑い出す。


「いいんちょ、やっぱちょっと勘違いしてる!」

「……え?」


 彼女は立ち上がり、私の隣へ。

 靴のままソファに登って、艶やかな微笑を浮かべ這い寄る。

「な……なに? どうしたの?」

 耳に息が吹きかかる。


「安心して? あたし、まだ『未経験』だから」


「ひゃぁあえぇぇぇえ!?」

 くすぐったさと内容の恥ずかしさと予想外の真実に、私の悲鳴はこの世の物とは思えない歪な音程を奏でてしまった。


「あははは! いいんちょ変な声!」

「ちょ、ば、馬鹿にしないでよ! でも、え! 私、とんでもない勘違いを!?」

「まぁ、やってる事は『一歩手前』って感じだけどね」

「はぁああ!?」

「流石にあたしだって、『初めて』は好きになった人に取っておきたいよー」

 もうだめだ。

 今更だけど、今日は一日この子に振り回されっ放し。

 情緒が滅茶苦茶にされて、狂ってしまいそうだ。


 いや、私は既に、白銀魅月という人間に狂わされているような気がする。

 だって、こんなにも――


「可愛いなーいいんちょは」

「あんたに言われてもお世辞にしか聞こえないのよ」

「えー、本当に可愛いと思うよ?」


 私にまたがり、真正面から視線が重なる。

 鼻先が触れ合うくらいの至近距離で。

 頭に来る程の、あの綺麗な笑顔で。


「可愛いよ」


 甘く優しい低音の、穏やかな声で。


 ゆっくりと、距離が縮まる。


 唇が軽く触れ合う。

 一瞬の出来事。


 一気に、熱が広がる。

 自分の鼓動が爆発する。


「――な……な、ななななっ!!」

「あはは! いいんちょ顔あかーい」


 いやいやいやいや。

 こいつ、やっぱり狂っている。


 ファーストキス、奪われた。

 しかもこんな、不良少女に。


 学級委員長の、この私が。


 この胸のドキドキは、怒りだ。悔しさだ。恥ずかしさだ。

 認めたくない。

 本気で好きになってしまったなんて。

 でも。


「あぁー、いいんちょがあたしを養ってくれたら、お小遣い稼ぎなんかしなくて済むのになー」


 わざとらしい。

 誘ってんのか?


 いいだろう。

 乗ってやろうじゃないか。


「……分かった」

「え?」


 私は白銀さんの小さな肩をむんずと掴んで、ソファに押し付けた。

 形勢逆転。


「わぁ!?」


 おでこにおでこをぶつけて、宣言する。

「い、いいんちょ?」

「養ってあげる」

「……ほぇ」


「私が面倒見てあげるっつってんのよ! この馬鹿! だから、もうお小遣い稼ぎは禁止! 分かった!?」

「ぇえ!? そんな、急に言われても……」

「返事は!?」

「は、はい!」


 周章狼狽しゅうしょうろうばいする彼女の姿は、見ていて面白かった。

 初めてマウントを取って、正直、ちょっとゾクゾクした。


 テンションまで狂った私は、漫画のような王道展開を夢想むそうして、陶酔とうすいしたようにそれをなぞる。

「それから、責任取りなさい」

「責任? 何の事……ふぁむ!?」

 とぼける彼女の口を、口で封じてやった。

 そして、こう言うんだ。


「私の『初めて』を、奪った事よ」

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