彼女が落ちていくまでの、その体が浮かび上がったたった一瞬。私はその真っすぐな瞳と目が合った。彼女は二本指を立て、おでこから魔法でも飛ばすかのように私へ別れの挨拶を送り、川へと吸い込まれていく。

 慌てて橋から元の道まで戻って、川のそばで彼女と合流する。結局、私は飛び込めなかった。その方が絶対正解のはずなのに、劣等感を覚えてしまうのは何故だろう。

 その後は歌を歌いながら町を回った。日の色はいつのまにかオレンジに変わっていて、人通りも増えてきている。私は当然歌えない。ときどき髪を染めたパリピっぽい人たちがノッてきてくれることもあるけれど、大抵の人は冷たい視線を送るかスルーしてくる。言うまでもない、当然の反応。

 それでも小夜先輩は、暗い顔をいっさい見せない。それどころか楽しさにだんだんと拍車がかかっていくかのように、頬を赤らめ、明るく笑っている。

 やがて、私たちは広場の中心にある噴水に辿り着く。学校への帰りがけ、ちょうど駅との間辺りにある広場だ。

 私は疲労感に包まれている。肉体的にというより、精神的に。今では歩くのでさえ精一杯だ。そんな私とは対照的に小夜先輩は軽い足取りで、噴水の縁へぴょんと飛び乗る。

「どうだ、橋田」

 彼女は振り返り、びしょ濡れの髪を揺らしながら両腕を広げる。夕日は彼女へと差し込んで、その肌を包む川の水を反射し、きらきらと光って見える。



「これだけめちゃくちゃやっても、私は死んでいない!」



 先輩は堂々と言い放つ。一瞬、その言葉に捕らわれそうになった。先輩の輝きは、まるで私の心までもを照らしてくるようで。

「……何回も死にたくなりましたよ」

 私は冷静に言う。すると、先輩の顔は、急にかっこよくなる。体感の話だ。なんだか笑いながらもキリッとして、錯覚してくる。私自身も吹奏楽部に所属していて、この頼もしさに何度も助けられてきたんだっけ? というような。

 彼女は指を一本突き立て、私に言う。

「私が後輩に厳しくするときはな。たった一つの基準にのっとっている」

 その言葉には、凄みがある。まるで初めから、伝える言葉を用意していたかのような。

「一生懸命かどうか。例え吹奏楽に関係なくとも、本気でやったことに対して、私は絶対に否定をしない」

「でも、それでどうやって一金を?」

「仲間たちが優秀だったのだ。しかし極論を言えばな、私は金賞なぞ取る必要はないと思っている」

 私は、どんどん彼女に引きつけられていく。



「私の母は十年前、震災で死んだ」

 突如言った。私は言葉に困る。お悔やみを言おうかと迷った直後、彼女はさらに言う。

「思えばそのときから、彼女は生き様で教えてくれていた。本気で生きろと。どれだけ迷惑をかけても、その数百倍の幸せを他人に返せと!」

 そうして先輩は、私を虜にする。

「なに沈んだ顔してるんだ。ぶつかったっていいじゃないか。恋人がいるなんて、羨ましいぞ。思いっきりやってみろ。付き合うと決めたなら、どれだけ馬鹿やっても、命を懸けて幸せにしてやれ。人生は短いぞ、橋田!!」

 そう言いながら両腕を広げ、後ろ向きのまま倒れ込み、噴水の中へと飛び込んでいく。水しぶきは高く立ち、私の方まで飛んでくる。顔や服が濡れても、まったく不快にならない。

 それどころか、私はようやく気付くことができた。どうして先輩がはちゃめちゃやってまで、私をあちこちへと振り回したのか。

 すべては、私と望のため。私がなよなよして、間違った選択をし続けて、後悔を残さないため。

 咲先輩も私に後悔をしないようにと教えてくれたけれど、その方向性は小夜先輩とは違う。

 何も気にせずに楽しむこと。幸せにしてやろうという気概を持つこと。恐らく、どちらも大切なのだ。

 私は結局、どちらも中途半端だった。だからこそイズニーでは望を悲しませたし、咲先輩の屋敷を探検したときも、みんなの下へ戻るという望をがっかりさせる選択しかできなかった。ただ、日常からはずれたくなかった。前に進むことがどうしても怖くて。そうすれば望の人生すら棒に振ってしまうことになると、わかっていたはずなのに。

 先輩たちが教えてくれた。咲先輩は楽しむ心を、小夜先輩は前に進む力をくれた。

 勇気が湧いてくる。彼女たちは私と望を想い、幸せになれるよう努めてくれていた。

 ここで応えなければ、ソウルメイトなんてやっていられない。

 私は、一歩を踏み出す。強く地面を蹴って、噴水の縁を飛び越える。

 水しぶきが上がった。次に目を開けたとき、目の前には小夜先輩がいた。私たちは二人、中心の柱から落ちる水を浴びながら、笑う。髪から下着まで、もうすべてがびしょ濡れだ。でも、心地いい。小夜先輩の特別メニューというやつに、完全にやられてしまった。

 後悔なんて、一つもないけれど。

「お前ら、何やってんだー!」

 男の人の声が聞こえる。この噴水の管理人かもしれない。私たちは、傍から見れば迷惑女子高生だ。捕まってつるし上げられたって仕方がない。

「逃げるぞ!」

「はい!」

 とびきりの笑顔の小夜先輩に連れられて、私は噴水を出る。重たい服のまま、逃げるように高校まで走る。

 幸せだった。



 そのグラウンドに戻ってくるまでの時間は、あっという間に感じた。ランニングのスタート地点には既に何十人ものジャージ姿の生徒が地面に伸びていて、その中には望も見える。

「各自、栄養と水分摂取を忘れるな!」

 小夜先輩は集団に叫んだ後、二本指を立て、私へさよならの合図を送る。そうしてまた、外周のルートへ走り去ってしまった。

「も、もう限界……」

 望は他の部員にドリンクを渡されながら、大の字で寝転んでいる。

 その顔を覗き込み、私は言う。

「望」

 私の体でできた夕日の影の下で、彼女は大きく目を開ける。

「考えたよ。初デートのプラン!」

 現時点では、即興だけれど。でも、きっと気に入ってくれる。

 すべては先輩たちのおかげだ。この初デート、絶対成功させてみせる。

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