第150話 全てが逆の男

 ラーピース・メビウスタが竜のもとに辿り着くのに、どれくらいかかっただろう。その頃には、ラーピースの息が少し上がっていた。竜はとうの昔に地面に倒れており、半開きになった眼で、彼のことをしかし、きちんと認識していた。出し抜けに腕を上げ、ラーピースを叩き潰しにかかるのは見事だったが、竜の爪はラーピースに掛からなかった。彼の周囲に充満する煙が爪を阻んでいた。


 はあ。


 ラーピースは疲労交じりの息を吐く。その勢いだけで、爪を絡ませた煙がすうう、と移動し、その先にある竜の爪を持ち上げる。竜はもう、口腔内はおろか、きっと肺や気管にすら煙が絡まっている様子で、死に絶えであった。


「どけよ。邪魔だ」


 煽るようにラーピースは剣を振るった。こうしてみると、肉厚で幅の広い剣を買ったのは正解だった。扇のように使える。煙はどっしりと、しかし素早く移動して、竜の顔面や上半身に絡み、剣に煽られるまま、竜の巨躯すら押し退けて見せた。


 竜は悲鳴すら上げられなかった。ふと、気になって、ラーピースは竜の鱗に向かって剣を振ってみる。ごきん、という音がして、剣が真っ二つに折れた。これは勝てない、と素直に思った。


「あんたの勝ちだよ。よかったな」


 だが、今はそれが問題ではない。竜を退かした先に、直径十メートルほどの穴が開いていた。多分、これだろう。覗くと、その竪穴の壁に沿って、螺旋状に階段が敷かれている。いつの時代に作られたのかわからないが、丁寧に石を積んで作られているのがわかる。問題は深さだが、これは考えない方がよさそうだった。そうして、彼は地下に足を踏み入れる。


 穴の中はひたすらに暗く、そして黴臭かった。その上、随分と埃っぽい。ラーピースは無意識のうちに口を外套で覆って歩を進めた。


 ――どれくらい潜っただろうか。もう随分深くに来たのに、呼吸ができるのが不思議だった。


 そうなって漸く、ラーピースはここが、呼吸ができる空間であり、空気が循環できて、つまり風があるのに気付いたのだ。地下から、風が弱く吹き続けている。一体どういう仕組みなのか。しかし、それは魔法があって、王政がいまだに跋扈し、熊の代わりに不気味な魔物がうろつく世界にいることがわかったときから気にしないことにしている。


 おれは、この世界のレールに、乗るべきなのだ。


 気づくと、彼の手はコートの胸ポケットをまさぐっていた。もう前世で二十年以上慣れ親しんだ行動は、後世にあって、同じくらいの年数を経ても習慣として消えなかった。ココア・シガレット老人からもらった棒切れを取り出し、噛んでみる。ただの木の棒故、なにも脳に沁みるものもない。ただ、ふと、壁に松明があることに気づいた。それが、目の前でぼう、と燃え上がる。慰み程度に、棒の先に火でもつけてみるかと思った時、


『ここに、お前が至ったか』と声がした。


「そのさ、前から思ってたんだが、そういう脳みそに直接語り掛けてくる系のやつ、滅茶苦茶むかつくんだが」


 ラーピースの手が震えた。全身からうっすらと煙が宿るのを感じる。


『作ることに絶望し、望みを絶った乃公の最後の七人の果てが五つ死んだ。残り二つ。そして、古く、力を失した乃公の果てがここに至った』


 もとより光源に乏しい地下世界にあって、それなのに、辺りが暗くなったとラーピースは感じた。ただ、目の前の松明だけが煌々と光って見える。


『七つの果てが死んだとき、この世界は乃公の知っているものとは大きく変わっているだろう。その時こそが、再び乃公が世を作り直すとき。愚かな魂たちが、問いに正しく答えることもあろう。しかして、客人、お前は、どう思う。お前がここに至ったのも、偶然ではなく、乃公が期待した可能性の一つが実を結んだのだ』


「何の話だか分からん」


 ラーピースは呆れながら言う。


『お前の役目は、乃公が今まで行った誤りの清算。乃公は今まで、作ったものに与えてきたが、それが誤りとしたら、逆はどうか。逆故に、今度は、乃公はこの世に、逆を呼んだ』


「逆?」


 ラーピースの唸るような声が地下に反響した。


『作った者に与えるのではない。異界で生まれたものを呼び、それから奪った』


 その言葉に、ラーピース・メビウスタ、否、■■■■は思い当たるものがあった。


「煙草がこの世界にないのは、てめえのせいか!」彼は己に話しかけるものの影を探したが見当たらない。あるのは松明の明かりだけであった。


『作った者に与えてもそれらはやがて世を偽証し勝手に不幸に沈む。世に幸福は顕れぬ。疑問であった。故に、乃公は作らず、異界から呼び、それから大事なものを一つ奪ってみた。奪われたことを忘れぬよう、お前には常に他者との壁となる煙を与えた。元よりお前は、他者故な』


「神様だか何だか知らんが、やってることが滅茶苦茶すぎてイラつきすぎて血管切れそう」


 ラーピースはその場でしゃがみ、ストレスで脳がちかちかと明滅する感覚に襲われた。


『さあ、乃公はお前に一つ報いよう』

『さあ、お前の行動に報いよう』

『ここを訪れ、乃公の声が聞こえるならば、お前にも願いがあると知れる』


『願いを語れ。乃公が権能の内二つは未だ人の世にあり、しかし、お前の姿形から真偽を知るのは造作もない。真実を口にせよ』


 ただの真っ赤な火の玉となった松明の炎が、ごう、と唸ってラーピースを包んだ。その炎の中、ラーピースはゆっくりと息を吸い、そして言葉を発した。

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