露国対外情報庁サイド-02-

 20年前ならばそこまで問題にはなってなかったかもしれない。


 今から25年前——1998年——に、南クリル諸島の一部は、日本に返還されている。


 だが、この決定——妥協、国辱と呼ぶものもいる——を巡っては当時から様々な国内勢力からの反対意見があった。


 連邦崩壊以来の国内の未曾有の経済混乱、そしてさらに追い打ちをかけたダンジョン出現による世界的な大混乱。


 この2つの大事変により、当時の国力は革命以来……いや帝政期に遡っても最低レベルにまで落ち込んでいた。


 その情勢化において、時のクレムリン首脳部は、日本の莫大な経済援助と引き換えに、これらの島の返還を認めたのである。


 シベリアのさらにその先——極東——に位置するあまりに小さな2つの島。

 

 それを差し出して、日本からの莫大な援助を得て、当座の経済混乱を乗り切るというその決定は、当時としては合理的に思えた。


 国内には分離運動の火の手があちらこちらから上がっており、これに対応するための最低限の資金すら枯渇間近といった有様だったのだ。


 イヴァンは当時の国内の混乱ぶりを思い出し、苦い思い出に蓋をするように、引き出しから酒瓶——ウォッカ——を出す。


 そして、コップに注ぎ一杯飲みほす。


 あれから四半世紀たち、全てが変わった。


 日本の唯一にして最大の脅威であった経済力も今やその陰りは決定的になった。


 反対に、我が国は再び強大になりつつある。


 人は現在からしか、過去を振り返ることができない。


 そして、人の記憶というものはえてしていい加減で曖昧なものだ。


 あれだけ苦渋を舐めてきたイヴァンにしても、ウォッカをあと数杯飲めば、当時の記憶を曖昧にすることができる。


 現在から振り返れば、むろん当時のクレムリンの決定は到底承服できない。


 我が国の兵士が血を流して獲得した土地を手放すなど愚かの極みに見える。


 そして、そう考えるのはイヴァンだけではない。


 大衆からすれば、25年前のことなどはるか昔のことだからなおさらだ。


 だからという訳ではないだろうが、ここ数年、我が国のナショナリズムは近年まれに見るほどの高まりを見せている。


 それに後押しされて、ここ数年来、南クリル諸島はただでさえ火種になりかねない状況であった。


 そこに来て、この時期によりにもよって、その火薬庫にダンジョンが出現したのである。


 旧共産主義時代に党幹部になるべく青年期にエリート教育をうけてきたイヴァンは未だに無神論的な考えが強い。


 だがそんなイヴァンにしても思わず大いなる……それを神と呼ぶかは別として……意思の存在を信じてしまいたくなる。


 イヴァンですらそうなのだから、ダンジョン出現以来、世界的に宗教熱が高まっているのも当然なのかもしれない。


 イヴァンは自身が幼少期に教わっていた正教の神父の言葉が頭をよぎる。


 神の采配か……。


 そして、片手を頭に当てて、苦笑いを浮かべる。


 まったく……わたしがこんなことを考えるとはいよいよ焼きが回ったか。


 脳裏に浮かんだ雑念を消すべく、イヴァンが再びウォッカに手をかけようとした時、テーブルに置かれた年代物の電話が鳴る。


 この電話を鳴らす者は今は一人しかいない。


 イヴァンはため息をつきながら、電話を取る。


「いったい今まで何をしていた?」


「……開口一番の言葉がそれなの? 部下が無事だったのだから、せめてフリでもいいから感激の言葉でもかけてもらいたかったのだけれど」

 

 電話口からは呆れたような女の声がする。

 

 やはりこの女……サーシャは生きていたか。


 おとなしく神の元に召されていた方が、よかったかもしれないが……。


「勘違いするな。お前はそもそもわたしの部下ではないし、我が国とも一切無関係だ」


「まったく……次の言葉は自分の保身とはね……。つくづくあなた……いやあなたたちらしいというか……」


「お前は単なる民間会社に雇われた傭兵だ。その立場をわきまえろ」


「はいはい……今はそういうことになっているんだったわね。それで……それならわたしとは一切無関係のあなたには報告をしなくてもいいのかしら?」


 サーシャはややおどけるようにそう言う。

 

 まったくこんな事態になってもまだこの態度とは。

 

 やはり異能者というのはその精神も図り難いな。

 

 いや……この女が異常なだけなのか。


「……さっさと報告しろ。いったい日本で……協会で何があった? お前の工作が原因なのだろう?」

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