1話 聖女の印
転生してから1週間ほど経つ。この家の教育方針がなんとなく分かってきた。
この家には私以外に子供はなく、今後新たに子供を産む予定はない。両親はお互いに男の子を欲しがっていたが私が生まれてしまい、残る希望は私を名のある貴族の息子と結婚させ跡取り婿とすることだった。
そのため立ち振る舞いやマナー教育はもちろんのこと、親への態度や
食事を抜かれるのはまだマシな方だ。母の機嫌が悪いとドレスを剝ぎ取られてネグリジェ1枚にされ、掃除などの本来メイドがやるべき仕事を1人でやらされることもある。
というか、今がそれだ。
「……はあ……」
水と洗剤を使った床掃除で丈の長いネグリジェを汚さずにいるのは至難の業だ。掃除自体は嫌いではないけれどせめてエプロンを着させてほしい。
床に残った水分をふき取り、額の汗をぬぐった。広い玄関ホールの床を綺麗にするのに2時間はかかってしまった。あとは汚れた水を捨てるだけ。
桶の水を捨てに外へ出ようとすると、慌てた様子のメイドが駆け寄ってきた。
「ヒルダ様!そのような姿で外へ出てはいけませんよ!」
「ロジーナ。ずっと見ていたの?」
「そりゃあ見てますよ。みんな心配しています。ほら、桶を貸してください」
彼女はロジーナというメイドの1人で、茶色い豊かな髪に丸い目丸い鼻が可愛らしい若いメイドだ。私と歳が近いというのもあって話す機会が多く、ここで生活をしていく上で彼女がいなければ心が折れていただろう場面も少なくない。
「今は私の仕事よ。大丈夫、めったに人なんて通らないんだし……」
「いえ、いけません。あとは私がやります!それにもう何日もまともに食事をしていないじゃないですか」
「それはそうだけど……でもお母さまに知られたらあなたが危ないのよ」
「奥様は
「そう……じゃあ、お言葉に甘えて」
桶をロジーナに任せ、玄関ホールの階段に座って彼女を待った。彼女を放って自室に戻る気はなかった。ロジーナはすぐ戻ってきた。
「お部屋に戻らなかったんですか?」
「戻っても暇で……こうして掃除をしている方がかえって楽しいわ」
「まあ、大層なことを言うもんじゃないですよ」
「いくらお行儀を良くしたってなんの役にも立たないでしょ。本を読んで勉強したり、掃除やお料理をしたほうがよっぽど誰かの助けになる。私は役に立ちたいの」
上司の利益にしかならない激務をこなしていた前世から解放されたのに、今や結婚するためだけに努力して生きているなんて……。
せっかく新しい人生を始めることができたのだから誰かの役に立ちたい。メイドや仕立て屋にだってなってもいいし、汚れ仕事だってやり切ってみせる。とにかく生きる意味が欲しいのだ。
ロジーナは哀れっぽく私を見た。
「ヒルダ様は十分よくやっています。だって、こんな格好でメイドのようなことをしている貴族はどこを探してもヒルダ様だけです!」
「ふふ、そうかもしれないわね……」
「それにしたって奥様はひどすぎるわ。あんまりです。奥様はヒルダ様のことを全然知らないのよ」
ロジーナは敬語を忘れて怒りをあらわにした。徐々に声も大きくなっている。このままだとさすがにまずい。
「ロジーナ、私は平気だからそれくらいに――」
「何を知らないですって?」
「!」
突然2階から母の声がした。見ると、2階のバルコニー手摺に母が立っていた。私とロジーナは即座に立ち上がったが、ロジーナはすぐ深く頭を下げた。その肩は震えている。
「お……奥様……」
「窓から桶を持っていくロジーナを見たわ。誰も手を出さないよう言いつけてあったのに。しかも階段に座ってお喋りするなんて……はしたない!」
「お母さま、私がお話に誘ったんです。私が最初にここへ座って――」
「黙りなさい!」
「っ……」
「そこにいること。動いてはだめよ!グライト、グライト!家政婦長!」
母は大きな声で父と家政婦長を呼んだ。騒ぎを聞きつけた他のメイドや執事がホールに集まり、私たちはあっという間に注目の的になってしまった。
間もなく母は父と家政婦長を連れて玄関に戻ってきた。父はいつも無表情の顔を怒りに歪ませていた。
「クララから聞いたぞ!メイドが家長を侮辱するなどあってはならない!」
「も……申し訳ありません!申し訳ありません!」
ロジーナはいよいよ平伏し、床に手と頭をつける勢いで謝った。声は震えていた。ここまでしても最早許されるはずがないのは誰から見ても明らかだった。
「このメイドはヒルダをそそのかして、2人で私を無知だと侮辱したのよ!こんなに悲しい思いをしたことはないわ!ああ、悔しい……!」
「ヒルダ!お前もいつか立派な淑女になると期待していたが……間違っていたようだな!母親を侮辱する娘など聞いたことがない……!」
「……」
母に不満があったのは事実なので違うとも言えずに黙っていた。だが今は私の処分よりロジータの方に怒りの矛先が向いているようで、怒り心頭の母は平伏しっぱなしのロジータに近づき、周りにアピールするように大声で言った。
「ロジータ!おまえはもうこの家のメイドではないわ!」
「そ……そんな、奥様……どうかお許しください、二度とこのようなことは……」
「このことを国中に広めてやる。おまえはもうこの国では働けない!おまえの家族もただでは済まないだろう!」
「それでは生きてゆけません……!わ、私も家族も飢え死にを……どうか、どうか……!」
あまりにも酷な宣告にロジータは顔を上げた。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。生きていけないというのは事実なんだ。
ロジータは悪い人ではない。ロジータは私に寄り添ってくれた。母の言いつけを守り、私に一切近づかなかったメイドたちの中で彼女だけが私を助けてくれた。
「……」
口が開けない。両親が怖い。罰を受けたくない。
私が黙っている間ロジータは途切れることなく母に懇願していた(命乞いに近かった)。ロジータは母のスカートに縋りついた。
「奥様、どうか……!」
「ひっ……汚らわしい!!」
母は縋りつくロジータを容赦なく蹴り上げた。
「ああっ!」
ロジータは短い悲鳴を上げて床に倒れこんだ。
「この女を追い出して!早く!」
母がそう言うと、執事とメイド数人がロジータに近づいた。
彼女を助けたい。
その瞬間、私は動き出していた。倒れたロジータを庇うように覆った。メイドたちは私に触れることができないので、ロジータを連れていくことはできない。
「な……ヒルダ!」
「ロジータは事実を述べたまで。お母さま、あなたのやり方は母としての尊厳を欠いています」
私はロジータを立ち上がらせてしっかりと肩を抱いた。ロジータは力なく泣き続けていた。
「屈辱的な姿で掃除をする私をメイドたちは助けなかった。こうなることを知っていたからです。でもロジータは違った!ロジータは勇気ある素晴らしい娘です!」
「なんですって……!」
「もしロジータを追い出すなら私も共にしてください。それができなければロジータを許して!」
母の顔はみるみるうちに赤く染まっていった。母はきっと、大衆の前で侮辱されることには耐えられないはずだ。
「な、なんて……なんてこと……!私を公然と侮辱するなんて!追い出しなさい!2人を追い出してよ!早く!」
「クララ!おまえの娘も追い出せと言うのか!?元はと言えばおまえが厳しすぎたから――」
「家を空けてばかりで私たちを放ったくせに偉そうに言わないで!さあ、早く外に出しなさい!」
母は周りの使用人にそう怒鳴った。けれど指示に従う者は1人もいなかった。執事は困ったようにクライドを見て、メイドたちは皆一様に俯いていた。
「っ……どうして……!?」
「クララ、落ち着け!皆戸惑っている。一度落ち着いて――」
「嫌よ!出て行って!出ていけこの愚図!」
「!!」
「あんたみたいな馬鹿な女っ!二度と見たくないのよ――!」
母は私たちに近づいたと思えば、右手を勢いよく振り上げた。
私はとっさに手をかざし――
辺りが一瞬白く光った。
……静寂。強く閉じた瞼をゆっくりと開ける。目の前にいたはずの母は少し遠くの床に倒れ、茫然とした顔で私を見ている。
母だけではない。この場に居る全員が私を見ていた。
「……?」
ふと右手の甲に熱を感じた。皮膚が焼けているというわけではない。ほのかに温かい。
見ると……どこかで見たことがある文様が浮かび上がっていた。
「……聖女の印……」
ロジータがつぶやいた。
ヒルダという名前と公爵令嬢という身分。金色の髪と白い肌。エメルシオンという国の名前。
どこかで聞いた覚えがあると思っていた。きっと何かの勘違いだろうと思っていた。そんなことがあるはずはないと信じていた。しかし……。
聖女の印。ヒルダ。令嬢。
間違いない。私は――
「……悪役聖女……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます