第11-4話
「行方不明になってた方たちが、当時のことを思い出してくれるのが最短距離なのかもしれないですね」
如月の声はやけに静かだった。
「それは確かに」
――お、おぼお、おおお。
ふいに八尺御寮が声を上げた。吹き抜ける風のような彼女の声に、紅緒は息を呑む。
八尺御寮は紅緒に顔を向け、タブレットの画面を指差している。その様子からして、なにか訴えかけているようだ。
ほかの面々はともかく、如月にも彼女の声が聞こえているらしい。紅緒の肩をそっと撫でてきた。
「怖い? 大丈夫だよ」
「あ、三嶋さん、ちょっと休みますか?」
豊田が顔をのぞきこんでくる。その目が八尺御寮のいるあたりへとわずかに揺れた。姿はともかく、存在は感知しているのだろうか。
「無理しないでくださいね」
町谷と清水が気遣わしげに眉を曇らせている。
「大丈夫です、続けてください」
如月の手が肩から離れ、向かいにすわる町谷と清水へと広げられた。
「町谷さんは怖くないんですか? 全部町谷さんのところに集まってるじゃないですか」
そんなことはないのでは、と思うが、紅緒は口元を手で覆い黙っていた。まだ八尺御寮はタブレットを指差している。どうにか話ができたらいいが、その方法の有無でさえここでは如月に尋ねることはできない。
「この界隈でやって来てますから……こうなるのは覚悟の上です」
町谷のつぶやきに、となりの清水が微笑んだ。
「俺もいるだろ、とことんやろう」
「おふたりとも、長いおつき合いなんですか?」
紅緒にはふたりが仕事仲間というより、つき合いの長い友達に見える。
「あ、俺たち中学からなんです。同級生で」
「幼馴染みなんですね」
穏やかな声で話す如月の姿が、一瞬で真っ黒に染め上げられた。
闇だ。
頭の先から爪先、指先に至るまでが漆黒の泥に覆われていく。その場で彼の姿を目の当たりにしたのは、紅緒と八尺御寮だけらしい。八尺御寮の肩がびくりと跳ね上がり、如月を指差す。ほかの顔は誰も反応しなかった。
――おおおぉ、ぼぉ。
紅緒の身体が硬直していく。八尺御寮の発した声で、ビリビリと部屋にあるものが振動した。
「え、え……っ」
部屋のいたるところから、なにかが裂けるような音が聞こえてくる。家鳴りに聞こえたが、それにしては激しく数が多く、いつまでも止まない。
「ら……ラップ音が……」
――おぉ、おおおっ、ぼお。
「ラップ……?」
「そうですよ、三嶋さん」
意味がわからずくり返した紅緒に、豊田が口を開く。
「あのですね、指とか関節なんかを鳴らしたり、木が折れたり軋んだりする音が急に聞こえたりする現象なんです」
バンバンどんどんといたるところを見えない巨大な手が叩き、なにかが転げ回っているような騒音に包まれていく。
「ノックとか足音で聞こえることもある現象ですよ。怪現象が起こる現場で見られるもので……で、でもここまでのものは……マッチ、録音!」
「清水、おまえもスマホで……よかったらみなさんも録音してください、数は多いほうがいい!」
――おおおぉおっ。
八尺御寮がけだものじみた声を上げ、如月がまとっていた闇が広がっていく。
いつも滴らせているものとは違う。
にぎっていた指を広げるように闇が広がる。部屋を浸食し尽くし、そこで紅緒は彼がなにをしようというのか理解した。
急いで自分のスマホに手をのばすが、紅緒は間に合わなかった。
一瞬でそれは起き、終わった。
消えた。
闇はどこにも残っていない。
過ぎ去ったそれは、まるでエアカーテンを通過したようだった。
灼熱感をともなったエアカーテンだ。神経や骨の髄が
紅緒は頭から爪先まででそれを味わった。
身動きどころか、息をすることさえ躊躇する。迂闊に身動きをして、またあの感覚に襲われるのではないか。突然の苦痛に、骨に刻印をされたときのような感覚に囚われていた。
「あれ、つかないな。音……止まった? どう、清水は撮れた?」
ラップ音は消え、代わりに戸惑った町谷の声が上がった。
「俺のスマホ動かないんだけど……え、ちょっと待って、待って待って、エンコしてたパソコンも止まってる……!」
「はぁ!? スリープ切ってるし……うわ、動いてない!」
重なっていく狼狽した声を耳に、紅緒は眼球を動かす。町谷と清水が自分のスマホやタブレットを操作しようとしている――が、まったく動作しない。先ほどまで動いていたパソコンも停止している。
「……如月さん」
となりにいる男の闇とノイズの先にある顔と視線が合う。
「俺のスマホ動かなくなったんだけど、きみのは?」
紅緒のスマホも動かなくなっていた。
ただの板だ。
スマホだけではなかった。室内にあった電化製品のすべてが壊れ、町谷と清水が頭を抱えている。
「な、なんでこんな……」
「嘘だろ、停電? なんかの事故? 全部逝くことってあるのかよ!」
清水が天井に向かって叫ぶかたわら、八尺御寮が動かなくなったデスクトップパソコンを叩いている。
すべてが終わっていた。
慌ただしく町谷たちは動き、室内の機材をチェックしはじめた。
豊田もそれに参加し、紅緒と如月は遠巻きにそれを眺める――ふりをして、紅緒はそっと八尺御寮に会釈をした。
――おぉお……おお……。
ゆらめいたと思うや、八尺御寮がとなりに移動してきて紅緒にぴったり寄り添った。言葉として彼女の発声を聞き取れたらいいのだが、ただの音でしかない。
「全部壊れてる!」
町谷が悲鳴を上げるのと同時に、清水がカーペットに身を投げ出した。積み上がっていた雑誌が雪崩を起こし、彼を覆い隠そうとする。
「なんでだ……な、なんで……ラップ音の前までは使えてたよな」
「たぶん……うわぁ、データどうなんだろ、無事かな……た、確かめないと」
機材が一斉に壊れたなら、被害総額は大変なものだろう。保証期間内だとしても、修理対象になるのだろうか。
紅緒のスマホはこれまで買い換えになった。また、買い換えることになる。
「町谷さん……おそらく、なにかが本物だったんじゃないでしょうか」
豊田が強張った声を出すと、その場の視線がすべて彼へと向かった。
「ただでさえ町谷さんの部屋って……色々集めてるじゃないですか。動画でも写真でも、呪いの人形なんかも」
町谷たちの視線が、部屋の一角に向かう。そこにはしっかりと戸の閉まった棚がある。おそらく人形などが保管されているのだろう。紅緒のとなりで八尺御寮がそちらを指差し、首を横に振った。
「行方不明になってた俺が来て、如月さんたちの撮った動画まで持ちこんで……なんていったらいいんだろ、濃度が上がりすぎたんじゃ」
元々身内だった豊田の考えだ。町谷たちは真剣な顔をしていた。
「町谷さん、清水さん、実害が出ても……活動は」
身を起こした清水が、まったく起動しなくなったハンディカメラを手に取った。
「……機材、保障外のやつもけっこうあるから、万一修理できなかったらちょっと大変かも」
如月にはせめて居心地悪そうにしていてほしかったが、弔辞を傍聴するような神妙な顔をしているだけだった。
「スマホひとつでも、やっていけないかな」
沈黙したスマホを見つめ、町谷がつぶやいた。
「俺は……追い求めたいよ。いつか怪現象をちゃんと撮影して……あれがどういうものなのか、実体をつかみたい」
いくら電源を入れようとしても入らないスマホを、町谷はカーペットに投げ出した。
「清水、まだつき合ってくれる?」
「引き際だなんて思ってないよ。ラップ音の後に機材ぶっ壊れるなんて、俺たち近づいたんじゃないか?」
「……だよなぁ」
晴れ晴れとした顔でふたりは笑い合い、紅緒は不憫に思うのを止めた。
「僕たちにはとうてい真似できないです。どうかおふたりとも、お身体を大事にしてください。これでお暇します」
「あ……そうですね、なんだか変なことに巻きこんでしまって」
ここにいても、紅緒たちにできることはない。機材のどこかにあっただろう写真データが、きっちり破壊されているか調べるのは難しそうだ。
「彼女の顔色も悪いので、どこかで休憩します」
「またなにかあったら、お気軽に連絡ください。動画でも写真でも」
紅緒は自身の顔色が悪いのかどうか判断できないが、おそらく町谷たちが一番血色が悪い。
わけのわからない状況で、財産をごっそり失ったのだ。
良いか悪いかは横に置き、異界につながるものは処分できた。
そして――八尺御寮は紅緒についてきている。
玄関のドアが閉められ、誰からともなく足を動かしはじめていた。
●
最寄り駅に着くまで無言だったが、歩きスマホをする通行人の姿を目にすると気が抜けた。
ほっと息をついた紅緒の肩を、後ろから八尺御寮がつかんでいる。町谷のアパートからずっとそうだ。背が高く手足が長い彼女は、そうしながらもあたりをきょろきょろと見回していた。
「如月さん、あそこにほんとに引っ越すんですか? 曰く付きで有名ですよね」
豊田は動かなくなっているスマホの電源をいじり、時々上下に振っている。
「曰く付きっていうの、そもそもデマみたいですよ。ね、如月さん」
そう話していた本人に話を向ける。
「そうですね。たいしたことないですよ、あそこ。近々引っ越します」
「引っ越し祝い、なにがいいか考えておいてくださいね。でもいいなぁ、ふたり暮らしって楽しそうですよね」
「ふたり?」
「三嶋さんも引っ越すんでしょ?」
「いえ、私は引っ越しは」
「あ、俺あそこの携帯屋寄っていきます。スマホ、どうなっちゃうんだろ」
そこで豊田と別れ、紅緒はもう一度自分のスマホが点かないか試した。
無駄だった。
「……これでもう、あっちの写真は出回らないってことですよね」
「そうですね」
如月の返答は明快だ。
ではあれは、如月が故意に起こしたことだろう。
簡単といえば簡単なのだ――境界を渡れば、電気機器は壊れる。
短い時間、町谷の部屋をあちらに渡したのだ。
「ほかにやりようは」
「できることをするんです。あそこで潰しておかないと、写真が無限に複製されて人目にさらされる。阻止できてよかったですね、三嶋さん」
「私はなにもしてません。あのくらいの写真なら、ひとに見られてもただの風景写真だと思われて終わるんじゃないですか?」
暗い、山の写真。どれほどのひとが結界石に気がつくか。気がついて、その異常性を知るもの――役割に気がつくものは、どれほどいるか。
「前に如月さん、撮影したものが流出したら面倒だって言ってましたけど」
「異界につながる縁が増えるので、ほころびが増えますね、たぶん」
「たぶん」
リリちゃん人形がこちらとあちらを行き来するのは、彼女に関する噂があるからだろうか――縁ができあがり、ほころびもできあがる。
如月と八尺御寮と連れ立って歩く。
店先ににぎやかな音楽を流すスーパーを通りかかると、八尺御寮はひどく興味を引かれたようだ。ぬるりと首がそちらに伸びていく。
「それにしても、あれでいいんですか? データとか、ちゃんと壊れたかわからないですよ」
「あとで連絡して、ジャンク屋を紹介する予定です」
「ジャンク屋?」
「壊れたり調子の悪いパソコンとか電化製品とかを買い取って、修理したり分解再利用してる業者ですよ。そこでお得に買い取り手続きしてもらえるようにして、こっちで確保します」
如月の息のかかった誰かがいるのだろう。
おそらくそういった人間は複数いる。
不動産屋にもたぶんいるはずだ――会社の同僚にもいるくらいなのだから。
「もしジャンク屋に故障品の取引してもらうの、町谷さんたちに断られたら?」
「あの一帯で火災が起きますね、大きめの。残念です」
「……起きなければいいんですよね?」
「そのとおり。このあとどうしますか? なにか食べていきませんか」
「どうしましょう、
至近距離に彼女がいるため、このひとどうするの、とは言いづらい。
「私より如月さんのほうが事情通ですし……」
「それなんですが、御寮はなんというか、男と話すのをよくないと思っていらっしゃるようなんですね」
紅緒の声と同時に、八尺御寮の頭が前後している。
「よくない?」
「夫以外の男性と話すのは、ということでしょうか」
八尺御寮が何度もうなずいた。意思の疎通ができると思うと、すこし気持ちが楽になる。
「俺が話しかけるのもいやがっておられて……まあ倫理観の問題はさておき、三嶋さんには御寮をあちらまでご案内してほしいんです」
彼女を見れば、今度は首を横に振っている。
「これですよ。帰りたがらないんです、どうしてだか」
「理由があるってことですか」
せめて表情がわかればいいのだが、いまもまだ彼女の顔は記憶に残らない。
「おもてだと慌ただしいですから、とりあえず私の借りている部屋まで一緒にいっていただきます……よろしくお願いいたします」
紅緒の肩を八尺御寮の手がつかんでくる。了解と受け取り、紅緒は如月に向き直った。
「ところで如月さん、私のスマホ代出してもらいますからね」
如月は満面の笑みを見せてくる。紅緒はちいさく「払え」と続けた。
「高いですよね、そのスマホ。最新機種でなくても……」
「壊したの如月さんでしょう」
「厳密にいうと俺じゃなくて……」
「弁償してください」
「目的完遂のために必要な」
「弁償してください」
押し問答の末、近くの駅を通る沿線沿いの家電量販店で、紅緒は新しいスマホを手に入れることになった。
そこまでつき合わせることで八尺御寮の機嫌を損ねるかと危惧もしたが、どうやら彼女は電化製品に興味があるようだ。
空腹を抱えた紅緒と如月は足が棒のようになるまで、彼女の気の向くまま家電量販店のフロアをくまなく歩き回ることになったのだった。
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