第8-2話
つないだ彼の手はがさつき、こちらで過ごした日々の過酷さを紅緒に告げていた。
「名乗ってもいませんでしたね。私は三嶋といいます。あなたは」
「豊田です。世間じゃ俺のことなんか言ってました? まわりに迷惑かけちゃったよなぁ」
「あそこにいたの、私は会社の同僚が行方不明になっていたからなんです。後になってみなさん見つかって」
「見つかったんですか! よかったですね」
代わりに彼――豊田はいなくなっている。
「よかったと言ってくれるひとばかりじゃなくて……インターネットを見ると、あまりいい言われ方をしていないんです。それであの件は目にいれないようにしていたんです。豊田さんのことは、チャンネルを見ているひとが会社にいて失踪を知っていて」
「そうなんですか。失踪かぁ、部屋とかどうなってるかなぁ。アパート借りてたんですよねぇ」
紅緒のあずかり知らないことだが、騒ぎになればなるほど、彼の居場所はなくなっていくのではないか。
ここに彼が留まるきっかけを思うと、返事が出てこなかった。
「お寺みたいなとこがあって、そこにみんないます。ここのひとたちって、すっごい気ぃ遣ってくれるんですよ」
足下が平坦になりはじめ、紅緒は豊田から手をはなした。
ざりざりとかかとが鳴る。
それでもここはとても静かだ。
「こっちのひとと言葉通じないんですけど、俺がわかるまでジェスチャーで教えてくれて……不安でくよくよしてると、ずっとそばで背中撫でてくれて」
墓守の姿がまぶたに浮かぶ。なにもまとわない、曲がった背にふくらんだ腹を持った姿。風体よりも、生気のない顔つきがやけに冷え冷えとしていた。
だが気遣いに満ちている。
「こっちは食べ物だってなんでもあるわけじゃないけど、死なないていどに食えてるし」
いひひ、と彼は笑った。足はふらついていないし、以前よりずっと頬もあごもすっきりしている分、健康的に映る。
異界の生活を悪くなさそうに豊田は語るが、紅緒には真似できそうになかった。
「豊田さん、ご家族と連絡を取りたいとは」
「スマホ壊れちゃって……」
「ああ、スマホ。奇遇ですね、私のスマホも壊れてしまって」
取り出した紅緒のスマホは、やはり一切の反応をしなかった。
「スマホが壊れてなくても、俺のうち自体、壊れちゃってたんです。だから連絡は……」
連絡を取ろうと思わないくらい不仲なら、もう家族などと呼ばないほうがいいだろう。
「こちらで親切な方に出会えたのは、幸運かもしれないですね」
「そう! 俺もそう思います!」
気を遣ってくれて、寄り添ってくれる。それが人間ではなさそうな相手でも、彼は嬉しそうに笑っていられる。
きっと彼が紅緒にしてくれたように手を取り、ゆっくり先導して歩くように墓守たちは物を教えてくれるのだろう。
彼はきっとここの住人に近くなっている。
ここで暮らしていけるはずだ。
以前如月は、勝手に入りこんだものへの報いのように、探索ツアーの面々を閉じこめていた。
――わたしはどうだろう。
あちらとこちら。
ほころび。
異界ではない現世で、怪異が話しかけてくる。
「それにしても、ここってどこなんでしょうね。取材と撮影兼ねて出てきてたんですよ、あのきさらぎ駅発見か! みたいな感じで……でもなんか違うみたいだし。天国と地獄、みたいなのとも違う気がして」
豊田が首を巡らせるので、紅緒もそうした。
「俺、死んでるのかなぁ」
浄土を模した庭園も、歩きやすい石畳も、そよ風を心待ちにしてしまうような木立もここにはない。
「どっちかというと、ここって地獄なのかなぁ」
紅緒もそうだが、彼は帰れるのだろうか。
帰る気があるのかないのか、まるでゆめうつつのような態度の豊田は暗い景色の先を指差す。
「もうちょっとしたら、見えてくると思います」
ここで過ごし続けたら、彼の姿はどうなるのだろう。彼の体型は変わり、衣類は劣化している。時間は経過しているのだ。いずれ墓守のものに近づく気がした。きっと彼はそれを拒まないだろう。
「地獄ではありませんよ、たぶん」
――ここで吐き出していくことは、卑怯だろうか。
「おばあちゃん、そう思いますか?」
――地獄ではない。
「じつは私、地獄に落ちたことがあるんです」
「えーっ、マジで? なんかすごいですね!」
気の抜ける感想だったが、豊田がすんなり受け入れ、流していくところがありがたい。
「地獄って出てこられるんですねぇ」
「そのあたりがちょっと、私としてもはっきりしなくて」
歩く速度を緩め、豊田は目で先をうながしてくる。
「私ね、いまでいうDV受けてて、夫に殺された――はずなんですよ」
ぽろり、とこぼれていく。
いつか口に出すこともあるのか、と思っていたものだが、話してみるとあまり重さを感じなかった。
振り返った人生の記憶。
散々だった――感想はその一点だ。
「被害者?」
「だったと思うんですが……気がついたら地獄にいて、夫殺しの刑罰を受けることになっていて。なにがなにやらわからないんです」
殴られて倒れこんだ紅緒は、首を絞められた。暴れたが、抵抗というよりただの反射だった気がする。
やっと終わる、とあのとき思った。
だが目を覚ましてみたら、紅緒は夫殺しの罪状持ちになっていた。
「こっちに来て思ったんですけど、よくわかんないこと多いですよねぇ」
燃えている同僚がいる――如月の言葉は、何度思い返してもおもしろいものだ。
紅緒は地獄で焼かれていた。
燃えているとするなら、まだ地獄の炎とつながっているのだろう。
紅緒はいまの生活を手放したくなかった。
仕事があり、暮らす部屋があり、身内のしがらみがなく、とても気楽だ。
気楽にしていいのだ、と思えるようになるまで、それなりの時間がかかった気がする。
それはごく最近のことだ。
それまでの記憶は曖昧で、ずっとどこかで働き暮らしていた気がする。一灯電社だと思うし、違う気もする。
最近和菓子を食べ歩くようになり、おいしいとかきれいとか、そういうものに気持ちを向けられるようになった。
――痛みや罵声を怖がらなくていい。
あれは地獄よりいやな暮らしだった。
紅緒が地獄で反省できるはずがない。地獄のほうが、ましだったのだから。
「でも三嶋さん、前に声かけたときだって人間ぽかったですよ。おばけじみてなかったし」
おばけ、と胸のなかで半数する。
おばけでもそうでなくても、彼は態度に違いを出さない気がした。
「そこなんですよねぇ。生き返ったわけじゃないから、この歳ですし。生まれはもっと昔なんですよ」
「俺たちが会えたこと自体、すごい奇跡なのかもしれないですね!」
明るい声だ。紅緒は笑うしかできなかった。
この異界でなければ、戯言と一笑に付されることだろう。
地獄から出てきたなど、世迷い言でしかないはずだ。異界から出られず暮らしていた豊田にしたら、とくに驚くことではないのかもしれない。
本気にされなくてもいいが、受け入れられると嬉しいものだった。
紅緒が目を前に向けたとき、遠方に建物らしきものが見えてきていた。
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