第8-1話

 空気を知っていた。

 あちら――異界だ。

 なにかを確かめるより先に、紅緒はそう悟っていた。

 到着し、開いたエレベーターの扉の先は、どこかの庭先らしかった。

「リリちゃんのおうちのふわふわなんですが、この近くかどうかわかりますか?」

「うん、知ってるとこだよ」

 リリちゃん人形の声は弾んでいる。見知った場所に出られたようでなによりだ。

「そうですか。よかったです」

 背後にあるはずのエレベーターの扉は消えてしまい、実際のところ紅緒としては居心地が悪い。

 そこはどこかの誰かが管理する庭、それそのものだった。

 仕切りの竹垣の向こうには手入れのされた庭木が並び、目で楽しみながら整った石畳を歩くことができる。どこにも枝葉ひとつ落ちておらず、リリちゃん人形の腕が上がった方向に紅緒は足を向けていった。

「あのね、こっちがきれいなお庭なの」

 どこかに案内しようとしている――のなら、リリちゃん人形はここの地理を理解しているはずだ。

 彼女は帰ってこられた。

 案内に従って道を折れると、急に視界がひらけた。

「ああ……お浄土が」

 ぽろりと言葉がこぼれていく。

「そうだよ、きれいでしょ!」

 浄土を模した庭園がそこにあった。州浜までしつらえられている。

 紅緒の足は庭園を前に動かなくなっていた。

 京都旅行が中止にならなかったら、紅緒は鳳凰堂を拝観させていただくつもりだった。浄土式庭園があると聞き、ぜひにと思っていたのだ。

 そのことを思うと、ただの板に変わったスマホに意識が向いてしまう。また買い換えだ。ひたすら気が重くなる。

「帰る前にね、紅緒ちゃんとお庭を見たかったの」

「ありがとうございます。見られて……よかったです。とてもきれい」

 異界のここにも、浄土式庭園がつくられている。

 それを愛で、安らげる心を持った誰かがいる。

 そして浄土を模した庭園があるのなら、ここは浄土ではない。

 会社のエレベーターとつながる場所だ、浄土であったらそれこそ笑ってしまう。

 どれほど美しい庭であっても、永遠に眺めていることはできない。

 それはリリちゃん人形との別れのときを示してもいる。

 リリちゃん人形を抱えていた手が温かくなった。

「お見送りはここまででいいんですか?」

 そこにいるのはリリちゃん人形ではなく、薄ぼんやりと白く光るものだった。簡易な人形であり、紅緒の頭に依り代という言葉が思い浮かんだ。

「リリちゃん」

 彼女の姿が、細長い白い発光体へと変わっていく。光量を抑えた蛍光灯に似ていた。

「紅緒ちゃん、ありがとう」

 彼女の言葉は、別離を含んだ儚いものだった。

 紅緒はもうちょっと先まで一緒に進むものだと、進めるものだと思っていた。

 首を巡らせてみるが、庭園と石畳のほかに目につくものはこれといってなかった。建物はあるものが、かなり遠い。自転車が欲しくなる。

 彼女の進む先、帰るべき場所を知りたくなっていた――そこが安全でよい場所なのだと、それを確かめたい。

 リリちゃん人形であった光が、紅緒の手から浮かび上がっていく。

「もうちょっと、お散歩しますか?」

「……だって、私と離れるんじゃ紅緒ちゃんがさみしいでしょ。先延ばしにしないほうがいいかなーって」

 大袈裟な口調を耳に、紅緒は未練がましいことを言った自分を内心恥じた。

「リリちゃん、私の家の場所忘れないでくださいね。もしまたあちらに来ることがあったら」

「ありがと、紅緒ちゃんまたね――」

 光が尾を引いて空を奔り、流星のようになる。

 はるか遠くに構えられた寝殿造の大きな建物に、白い流星は吸いこまれていった。

「あそこが、おうちかな」

 おうちというには、あまりに大きい。格調高さまで兼ね備えた建物のどこかに、リリちゃん人形のいうふわふわした場所があるのだろう。そして彼女はそこでくつろげる。

 すでにリリちゃん人形が残した光の軌跡すらなく、そこに紅緒はひとりきりだった。

 石畳の道、その前後にゆっくり目を向けていく。

 来た道は様相を変えている。通ってきたはずなのに、通ったはずのない竹林があった。

 リリちゃん人形の消えていった建物に視線を転ずれば、そこには高さのある建物はなく、先ほどより規模の大きくなった庭園が悠然と身を延べるようだった。

「あー……」

 風も吹かず、生き物の気配もない。誰何する気は起こらなかった。返事はないだろうと、異物である自分をやけに自覚してしまう。

 依然浄土を模した庭園の一角、再現された汀に腰を下ろし、紅緒はしばらく考えこんでいた。

 取り出したスマホは沈黙し、紅緒は何度も景色を見直しながら実感する。

「……迷子、よね」

 紅緒は帰り道を失っていた。

 しかし足を止めたまま、そこでじっとしているわけにもいかない。

 ここは浄土ではない。

 そして地獄でもない。

 とにかく動くことにした。

 何度か視線を転じ続けたが、そのたびに現れる景色が変わる。石畳の延びた先、乱雑に切り取ったもの同士を接着したような歪みがあり、そこからべつの風景――空間が現れている。

 おなじ風景が再度現れた覚えがないため、紅緒は途中から慎重になった。

 ならざるを得ない。

 うっかり見落とせば、二度と目の前に現れないかもしれないのだ。

「あのひと……」

 知っている場所が遠くにある。

 びっくりした顔をした男性が立っていた。

 彼に見覚えがあった。

「あー!」

 男性が紅緒を指差し、大きな声を上げた。

「あの、あのっ! あのときの……!」

 紅緒のほうに近づこうとし、あちらとこちらの景色が違うことにまごついている。あたりを見回す彼へと、紅緒は小走りに近づいていった。

「お久しぶりです」

「すごい、また誰かに会えるなんて思わなかった! あの、あの俺そんなこと思ってなくて!」

「ええ、すごいです。お会いできて嬉しいです」

 紅緒も驚いている。

 彼は興奮した様子だ――きさらぎ駅探索ツアーで消えた中川たちを探し、紅緒たちは出かけいった。

 そこで会った顔だ。 失踪者についてインタビューさせろ、としつこかった、マチマチャンネルのスタッフだった青年である。

 以前と違い上半身は裸で、下半身もゆるくなったズボンを無理にベルトを締めて履いているようだ。とても引き締まった体型になっている。髪がぼさぼさに伸びているが、よく似合っていた。

「あの、ず、ずっとうろうろしてたんですか? 前ってどんな格好してましたっけ? 俺、俺は……」

 彼の目が紅緒の後方をさまよった。つられて紅緒もそちらを向いたが、もう石畳と庭園の景色はどこにもない。延々と広がるのは陰鬱に暗い、きさらぎ駅の空間だ。

「いえ、ずっとではないですね。たまたまこちら側に入って……簡単にいうと、帰り道がわからない状態です」

「そうなんですかぁ。俺、ずっとこっちにいて」

 彼が涙声になり、鼻をごしごしとこすりはじめる。

 簡単に彼は状況を説明してくれた。

 インタビューを申しこもうとした紅緒が消え、自分のいる場所もわけのわからないところになってしまった――そして現在に至る。

「俺たち、変にこっちに縁があるのかもしれないですねぇ」

「どうなんでしょう。私、おばけに見えないですか? 信じちゃっていいんですか?」

 冗談めかしていうと、彼はいひ、と笑った。

「正直なとこ、なにがおばけで怖がったらいいのか、よくわかんなくって。一緒に帰れるかなぁ。帰ってどうしようかなぁ。あ、食べ物って見つけられてますか? 俺は親切なひとに会えたから、そのところラッキーでぇ」

 彼は興奮しているようだ。無理もない。あまり滑舌はよくなかったが、紅緒――にんげんと会えて嬉しいのだろう。

「そのひとに挨拶行きませんか? 悪いひとじゃないんですよ、保証できます。ちょっと見た目は怖いかもだけど」

 怖い見た目のいいひと。

 墓守を思い出しながら、紅緒は彼と歩きはじめた。どこを向いても大差ない暗い景色だが、彼は地理の検討がついているようだ。

「あ、足下気をつけてください。でこぼこのとこ、多いから」

「ありがとうございます」

 お礼をいった矢先に、紅緒は足下の段差につまづきそうになった。とっさに彼が腕をつかんでくれて事なきを得る。

「注意されたばっかりなのに……お恥ずかしいですね」

「手、つないじゃいましょうか。俺でよければ」

「そんな、悪いです」

 気遣いを遠慮してしまったのは、おそらく彼をここに送りこんだ主を知っているからだ。

「悪くなんてないですよ。俺のほうこそ、前にインタビューさせろってしつこくしてごめんなさい――おばあちゃん、いきましょ」

 紅緒のしなびた手を取り、青年は道案内をはじめていた。

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