第5-2話

「大きくてきれいな猫が、一緒にいてくれて」

 ガラス越し、新人氏はゆったりとした笑顔を浮かべている。総務部のフロアでは見たことのない表情だ。

 ――大きくてきれいな猫。

 そのとおりだ、白猫は美しかった。

「ずっと猫と?」

「はい。ふわふわで優しいんです……おふたりとも、どうやってここに? 猫ちゃんがいないと、ここには来られないかと思ってたんですが」

「いま武藤さんは失踪したことになってますよ、いなくなってそろそろ一ヶ月です」

 目を細め、新人氏は嬉しそうにした。

「そんなに? たぶん、僕がいないほうが……」

 嬉しそうな顔で、新人氏は言葉を切る。

「探しにきたんですが、調子はどうですか? どこか、違和感なんかは」

「体調もとくにおかしなところは……でも一ヶ月も経つんですか。ちょっとしか経ってない気分です」

「武藤さん、エレベーターに乗ったあと、どうしていたんですか? 専務とご一緒してたじゃないですか」

 困ったように新人氏は笑う。

「……十階に着いて、どこで三嶋さんを待っていたらいいかわからなくて、ちょっと歩いてたんです」

 ちょっと歩いたという新人氏の説明は、訊けば台車を押しぐるぐる歩きまわったということだった。

「エレベーターの横に階段にいくドアがあるの思い出して、そっちにいたほうがいいかと思って引き返して……そうしたら、どこまでいっても階段どころか、エレベーターも見つからなくなって」

 ――ずっと廊下だったんです。

 自然と紅緒はうなずいていた。

 エレベーターを降りたところで待っていてくれると思っていたが、ひとり新人氏は歩きはじめてしまったのだ。

 そして白猫の縄張りに足を踏み入れてしまった。

「台車重かったでしょう、お疲れさまです」

 新人氏の目線がかたわらに向いた。そこに台車があるのかもしれない。紅緒の位置からは確認できなかった。

「エレベーターの前で、っていえばよかったですね。まあそれはともかく、戻りましょう」

 白猫は窓ガラスの向こうから、廊下にやってきた。新人氏もそれにもおなじことができるだろうか。

「戻る……」

 暗い声だった。

「武藤くん、どうしたんですか? 不都合でも」

「戻ったところで、僕……やっていけるでしょうか」

「それって、失敗が多いからですか?」

 やわらかい言い方を紅緒は選ばなかった。気を悪くした様子はなく、彼は子供のような仕草でうなずく。

「資料の箱詰めあたりは、できてましたよね」

「それだけやりたいですけど、無理ですよ」

 それならできる自覚があるのだろう、新人氏がため息交じりにそう話す声は、はじめて聞くものだ。

「とりあえず、こっちに来られませんか?」

 如月が尋ねると、新人氏はあたりを見回す。あちらの景色がどんなものか、少しだけ興味が湧いた。

「ええと……そこで待っててもらえます?」

 新人氏が移動していく。音だけだが、台車の音も聞こえていた。

「好きに動けるものなんですね」

「こっちにも来られるでしょう、たぶん」

 闇濡れした男から、ぼたぼたと大粒の闇が落ちていった。

「武藤くん、窓のこっちもあっちも動けると思いますよ――だから、ここに来られたんですね、って垣根のない言い方をしたんでしょうし」

「どうにかしたら、道みたいなものが見えるのかもしれない……?」

「逃げもせずに猫と一緒にいたなら、なじんじゃってると思います」

「なじむ」

 逃げ回っていた人面犬は、白猫のにおいがわからなくなっていた。

 ああいうことが起こるのかもしれない。

「あの猫と相性がいいのかもしれません。たまたまここに迷いこんだか、相性のいい猫がいるから引き寄せられたか」

 同化していると見ていいのなら、新人氏は白猫とおなじように自由にここで動けるはずだ。

「お待たせしました」

 突然声が聞こえ、振り返ると真後ろに新人氏が立っていた。

 台車の横に立った彼は、一ヶ月の時間を感じさせない出で立ちだった。ついさっきエレベーターと階段に別れたような姿だ。

「いま何時ぐらいです? 時間とか日付がわからなくて……僕のスマホ、壊れちゃったんですよ」

 異界を跨いだからだ。

「いまからだと電車もないですね。フロアに戻れば電話も使えますから、ひとまずご家族に。適当な言い訳ができればいいんですけど」

「一ヶ月くらい経ってるんですよね。そうしたら……以前ひとに誘われてた勉強会に拉致されてたことにします」

「……拉致?」

「ええ。なにかの契約書にサインするまで帰してもらえないって評判で。それを知ってたので、断ってたんです。でもしつこくて」

 会社のなかでいきなり消えたのだ、そんな会を持ち出したところで通るものだろうか。だが紅緒の頭では、誰もが納得する失踪理由を思いつけない。

 事実確認がされたとき、胡散臭い会の言い分なら真実でも虚偽でもご家族は信じないだろう。

 なんとかなるよう祈るしかない。

 紅緒は他人なのだし、その勉強会には泥をかぶってもらおう。

「あと、あちらをどうするか」

 如月の頭が向いた方向――そこから重量を感じさせない物音がした。

「猫ちゃん」

 新人氏の声が弾む。

 そちらに目を向ければ、白猫が帰還したところだった。

 その口に加えられていた人面犬が放り出され、潰れた声を漏らしながら床に叩きつけられた。

 白猫は口元をもごつかせ、紅緒たちを見つめた。

「おまえら、なかよしなの」

 爛々と光る双眸が美しい。

「同僚同士って、仲良しなんでしょうか」

「私は……」

 紅緒は如月と仲良しだと口が裂けてもいいたくないが、白猫の質問の真意を考え言い淀んだ。

 のろのろと人面犬が身を起こす。疲弊しきった顔で紅緒たちを見回し、それからまた床に崩れ落ちる。

 白猫の遊び相手をしていたようだが、どこにも怪我はない。そこには紅緒も安堵している――怪異が負傷するかどうか、定かではないが。

「猫さんと武藤さんは、仲良しなんですか?」

 真意を汲み取り博打のような返事をするのではなく、紅緒は質問を質問で返すことにした。

「猫ちゃん、僕たちのこと訊いてるよ」

「俺とアラはなかよしだ」

「それはよかったです」

 仲良しになったひとりと一匹だ。その一匹のほうは、離れ離れになって孤独になることを許容するだろうか。

「たむける?」

 紅緒の鼻に自分の鼻先を近づけ、白猫が尋ねてくる。

「それはどういう……」

「たむけのにおい、これ」

 がば、と白猫の巨大な口が開いていく。

 ゆっくりと流れて見える光景に、紅緒は見事な造形だ、と感じていた。白猫のかたちはすべて美しく、牙は鋭い。あれに噛まれたなら、たやすく致命傷になりそうだ。

「あ、ぁあ」

 白猫の大きな口に、紅緒の腕が飲みこまれた。食われる、と身を強張らせたのも束の間、白猫はしゃぶしゃぶと腕をしゃぶりはじめている。

「……な、んです」

 ふふふん、と嬉しそうな、くぐもった声が白猫から聞こえた。

 制服のブラウスが、ぐっしょりと白猫の唾液で濡れていく。とくに悪臭がするわけではないが、濡れて重くなった布の感触に紅緒は眉を歪めた。

 後ろに体重をかけていくと、ずるずると白猫の口から腕が抜け出ていく。途中で歯か牙に引っかかり、音を立てて袖が破けていった。

 ぺ、と布を吐き出した白猫は、びしょびしょに濡れた袖の残骸に目を細める。

「あらぁ」

 楽しそうな声を耳に、紅緒は自分の腕を確かめる。肘から先が剥き出しになったものの、どこにも傷はついていない。

 紅緒はふたたび安堵していた。

 ――この白猫に害意はない、いまのところは。

 大型獣と戯れたとき、相手が本気でなくても大怪我をしてしまいそうだが。

「あまぁい」

 ご満悦の体の白猫は、まるで笑顔のような表情になっている。

「……あまい?」

 あまくてたむける――紅緒ははやくも乾きつつある指先に目をやった。

「大福?」

 すでに指先にはさらさらとした感触は残っていない。指先をかすめた餡子は気配もない。

「猫って餡子好きでしたよね、確か」

 如月のつぶやきは初耳だった。

 口をもごつかせた白猫は、うっとりした顔つきだ。

 総務部で和菓子をつまんでいたが、指先に残っているものだけで、これだけ恍惚とした表情になるのか。

「……あ、そうだ。私、持ってきてます」

 フロアを出るとき、紅緒はポケットに和菓子を詰めこんでいる。しまいこんでいたおはぎと大福を取り出し、紅緒は白猫の鼻先で開けていった。

「まわりだけ舐められますか? 内側は餅米ですから、身体に悪いかも」

 そんな心配をよそに、べろり、と白猫の大きな舌はおはぎを丸呑みにしていった。ビニールに入った大福を凝視しているため、紅緒はそちらも白猫に差し出す。

 大福も一口に飲みこみ、咀嚼しながら白猫は新人氏のとなりに移動していった。人面犬はだらりと床にのびている。

「アラ、いっしょにいる、なかよし」

 白猫は新人氏に密着していく。頬を肩に乗せたかと思うと、ゴリゴリとすり寄った。これまでにもおなじ経験があるのだろう、新人氏は台車を支えにその重さを受け止めている。

 白猫は新人氏の頭をがじがじと甘噛みし、その光景にどうしたものか紅緒は考える。

「……仲良しですね」

 ――仲良しは、一緒にいたくなるかどうか。

 そういったのは紅緒だ。

 白猫にとって新人氏は、そんな存在になっている。この場所に引きこまれたのが先か、白猫が気に入ったのが先か。どちらが先にせよ、新人氏が状況を悪く思っていないのはその顔つきからうかがえた。

 これを引き離すのか。

 ここに新人氏を残してはいけないのだろうか。

 新人氏が白猫を疎ましく思っていないことを知っている。異界にいることに関しても。

 現実に戻ることだけが、最良ではないだろう。

 迷って一言も発せなくなっている紅緒をよそに、新人氏は白猫のマズルを揉みしだきはじめていた。

「甘いのが好きなら、買ってきてあげるね。キャットフードはどうかな」

 白猫に食べ物を――彼のその気持ちを現実への足がかりにして、決めるのはそれからでもいいかもしれない。

 紅緒が決めることではない。

 土産を持ってまた白猫に会うときに、新人氏が決めればいいのだ。

「じゃあ猫ちゃん、ここで待ってて」

「いっしょにいく」

 白猫は両方の前脚で新人氏を抱える。爪が刺さらないように力の加減はしているらしいが、紅緒だったら動くことをためらうだろう。

「いっしょ」

「またくるよ。どうやったら来られるか、なんとなくわかるから」

「いっしょ」

 言い合いのようでいて、両者は顔を擦りつけ合ってなんだか楽しそうだ。

「三嶋さん、どうですか?」

 如月が囁いてくる。なにを、なにが、と訊き返す気になれない。

「如月さんは、ここに出入りできるんですよね」

「そう思いますか?」

「もし武藤さんがこちらで、って決めたら、連れてきてあげてください」

「俺にそんなことができると思いますか?」

 闇を頭から被っていてくれてよかった。声を聞いただけで予測できる。おそらく彼はにやにや笑っているだろうし、紅緒の癪に障るようなものだろう。

 ――この男に深入りしないほうがいい。

 如月が人面犬を抱え上げた。

「猫さん、彼を待ってる間、こちらのいっちゃんと遊んでいてください」

 声もなく、如月の腕のなかで人面犬がふるえ出した。

「……なかよしぃ?」

「やらなくちゃいけないことがあるので、ちょっとの間ですよ」

 白猫の首に腕をまわし、新人氏がなにやら話しかけている。内容は聞き取れないが、白猫は顔をくちゃくちゃにし嬉しそうにした。紅緒は少しうらやましくなっていた。

「俺ぇ? 俺? 俺がぁ?」

 泣き言をつぶやき、人面犬が如月の腕から逃れようと身体をひねりはじめた。紅緒は人面犬の身体に手をのばし、脇腹を撫でてみる。やわらかく温かい毛並みは、そこだけ取れば怪異など関係ない犬だ――涙で濡れた、疲れた中年男の顔がついているが。

「お願いします、ワンちゃん。あなたしか頼れないんです。私たちでは無理なんです」

「……そりゃあさ……うぅ……うえ……ぇん……」

 言葉尻はすすり泣きになっていたが、紅緒は聞こえないふりをする。白猫とのお遊びで、人面犬がどんな体験をしたのか。知りたくないことは尋ねなければいい。

「迎えにくるよな!? 俺のこと……なあ、ちゃんと迎えに……!」

 人面犬の後を引く声を耳に、紅緒は階段に向かっていった。


        ●


「バックれじゃなくて、拉致されてたんだって」

 更衣室で着替えていると、そんな声が聞こえた。

「拉致って……なにそれ」

「契約迫る感じのとこに拉致されてたんだって。なんか買わされるとこなのかな。あんま詳しくは」

「あー、金持ちっぽいもんね、実家」

「お金があるとこはあるとこで、なんか大変そうだよねぇ」

「大変でいいから金欲しいわ」

 名前は出てこなかったが、誰のことかはわかる。

 ロッカーを閉めるとき、片隅にある丸めたブラウスが目に入った。白猫の牙で損傷したものだ。破損があった場合は有償となると聞いている。そのうち「引っかけて破けました」と申し出なくてはならない。

 春の気配が濃厚になり、新人氏の周辺も落ち着いたようだ。

 新人氏は所属が十階の資料管理室になっている。

 彼単身の部署だ。

 単独で放置された状況であれば、新人氏は落ち着いて仕事に向き合えるらしい――それを会社の上層部のひとりである専務に進言したのは紅緒だった。彼は他人だが、祈る以外のことをしてもかまわないだろう。

 その後は上に関わっていないし、関わりようがない。

 ただ気がつけば資料管理室という部署ができあがり、新人氏専属であるということだ。 のぞけばそこは真っ赤な光に満たされ、巨大な白猫が作業台の下で窮屈そうに身体を丸めて眠っている。日々新人氏が餡子を使った菓子を差し入れ、蜜月状態だ。

 もう資料が溜まったら各部署が資料室に運ぶのではなく、資料管理室に連絡を入れると新人氏が引き取りに現れる――らしい。

 当初は試運転だったが、四月を期に正式な部署として発足していた。

 総務部もありがたいことに三名が別部署から異動してきてくれて、紅緒たちは残業まみれの日々から解放された。

 ふんすはっは。

 ずっと体内に白猫の体毛が溢れていたらしい人面犬の鼻息も、そのころには元通りになっていた。

 如月の足下から聞こえ続ける鼻息に慣れ、紅緒はまったく意識しなくなっていたが、当の人面犬の身体が透けて見えるようになっていた。

 急ぎの仕事はなかったが、その日紅緒は如月と共にフロアに残っていた。夜の八時にもなると、ほかの面々は帰宅していく。

 ほかに誰もいないとわかると、人面犬は机の影からぬるりと姿を現した。ほかのひとの目には映らないのに、そういったところは律儀である。

「やっぱり薄れてますね。成仏でもするんですか」

「ちげぇよ。こっち側にいすぎたんだな。ほんとは俺、こっちにいるもんじゃないからな」

「それは確かに」

 紅緒と人面犬が話している間に、如月が机の引き出しからいかの塩辛の入った瓶を取り出す。

「食べますか?」

 人面犬は首を横に振った。

「最近食欲ねぇんだ」

「……帰りますか?」

「あっち行きのエレベーター、俺ひとりだとボタンがどうにもなんねぇんだ。にいちゃん、途中までつき合ってくれる?」

「いいですよ。お見送りくらいします。三嶋さんは」

「無理しねぇでいいよ。まだエレベーター乗るのやなんだろ?」

 ――会社のエレベーターは異界につながっている。

 それこそいやな情報だ。絶対に乗るまいと心に誓う。

「知り合った人間があんたらで助かったよ。で、これな、礼といっちゃなんだが」

 物陰に顔を突っこんだ人面犬は、顔を見せたと思うと口に人形をくわえていた。

「ああ、これってリリちゃん人形……」

 子供向けの着せ替え人形だ。白地に青の水玉のブラウスと、赤いスカートを履いている。昔からあるし、おそらくこの先もずっとある。そんな気がした。

「私はいらないですよ、子供もいませんから」

「そういわず取っとけよ。どうせあんた、友達もいないだろ? 話し相手にさ」

 人形を話し相手に和菓子をつまむ。思い浮かべても、とくに抵抗を感じなかった。あっさり習慣化してしまいそうで、かえってよしたほうがいいかもしれない。

 ――誰かもらい手を探してみるか。

 とりあえず、で受け取ったリリちゃん人形は、紅緒の知るものと違っていた。

「これ……」

 その人形の赤いスカートからは、足が三本のぞいていた。

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