第5-1話
「安全に過ごしたいですか?」
紅緒は返事をしなかった。
やたらと近くに立つ如月の表情は読めないし、目を凝らす気は起きない。きっとそれは無為だろうと確信がある。
「もしかして三嶋さんは、安全を退屈だって思ったりしますか?」
「きさらぎ駅でも異界でも資料室でも、呼び方はなんでもいいんでしょうけど、安全でも退屈でもないってことですよね、それ」
「どうでしょう」
そっと、慎重に十階の通路につながるドアを開く。もしかしたら今度は一切赤く見えないかもしれない、そう考えていたが、目の前に広がったそれは最前以上の赤さに浸っていた。
「赤いってだけで、確かに安全でも退屈でもなさそうって思いますね」
頭だけをドアの先に出し、視線を走らせ耳をすませる。
物音も動くものもなく、如月にうながされるまま紅緒はゆっくり十階に足を踏み入れた。
金属のドアは重々しい音を立て閉まっていく。
ごとりと閉じられる音がやけに大きい。
退路を失ったという喪失感がやけに強いのは、そこが異界と知りながら、のこのこやってきたからだろう。
にぎった指の先がさらさらしている。
机に残してきた大福や、紅白のすあまを思い起こす。また戻って食べるのだ。置き去りの大福が乾かないうちに、できれば戻りたい。さらにいうなら、そのとき人面犬や新人氏を連れて戻れていたらいい。
欲張りだろうか。
「こういうとき、どうしたらいいんですか?」
「どうしてそんなこと、俺に訊くんですか」
「知ってるかと思って」
左右に首を動かすと、どこまでも続いている廊下がある。消失点のある風景というのは滅多にお目にかかれるものではないだろう――紅緒が望んだわけではないが。
「そんなに物知りそうですかね、俺って」
あまり気持ちのこもっていない声だ。
あたりを見回す紅緒の先に立ち、如月はエレベーターに近づく。エレベーターを呼び出そうと、如月がボタンをガチガチと乱暴に連打する。その音に紅緒は肌を粟立たせていた。
「なにやってるんですか、エレベーターは呼ばなくても……」
――もしエレベーターがきたら、それはどこと往復しているのだろう。
――赤々とした異界につながっているのは、いったいどこなのだろう。
エレベーターが動いているのが、階数表示の点灯でわかる。それは呼び出している如月を無視し、下の階に向かっていった。
「この音」
作動音に甲高い音が混じっている。そう思ったのは束の間で、すぐにそれが駆け寄ってくる人面犬の声――悲鳴だと理解していた。
ヒイともキイともつかなかった声は、懸命に走る人面犬の姿とともに言葉に変化していく。
「おっ、おぉま、おまえらぁ!」
呼びかけてくるそれは泣き声で、汗だくの顔は涙と鼻水に彩られている。
紅緒たちの前で人面犬は止まろうとし、失敗した。盛大に床をゴロゴロと転がり、壁に衝突して崩れ落ちる。全力疾走の勢いがあったため、衝撃は強そうだ。
「……怪我は」
手を貸すか迷う間に、人面犬はよたつきながらも身を起こしていく。振り返った顔はぐしゃぐしゃだ。
「お、おまえら、どこいって……っ」
ぼろぼろと涙をこぼし、人面犬は前脚でかくようにそれを拭っていく。鼻水も垂れているが、そちらまでは手が回らないようだ。
「全然見当たらねぇから、どうしたのかと……」
「総務のフロアに戻ってましたよ」
「ワンちゃんが戻って来ないので、とりあえず探しに」
紅緒たちの返事を聞くなり、人面犬はくちびるをわななかせはじめた。
「俺のこと置いて……なんだよおまえらっ、さっさと逃げ……置き去りにするなんてよぉ!」
「逃げろっていったじゃないですか」
ドアから階段フロアに出ていくところも見ていた――はずだが、把握できていなかったのかもしれない。
「だからってよぉ、俺だけ置いてよぉ」
口だけだったと知って、紅緒はなんだか気が楽になった。
「私たちじゃ、ワンちゃんみたいにはやく動けないです。一緒にいたら足手まといになっていたと思います」
いまここにいるなら、あの白猫から逃げ切ったのだろう。
「そうですよ、いっちゃん。無事でよかった」
「もおっ」
ほんとうにそうだろうか。
逃げ切ったのだろうか。
いままさに、逃げている最中ではないのか。
「ワンちゃん、ひとりですか? あのあと、どうしてたんですか」
「おお……あれから逃げまわって、ひったすら走ってたんだぞ」
「新人さんとどこかで会えたりは」
「あいつ、このへんにいそうなんだよなぁ。におうし」
「鼻に自信はあるんですよね?」
念のため確認をする。追跡できなければ困る。ここまで足を運んでおいて、そっちは無理だ、などとなっては笑えない。
「おいおい、誰に向かって口聞いてんだ?」
「ですが……いっちゃん、大切なことですよ」
如月の低い声に、紅緒はそれに気がついた。
やけにあたりが赤い。
「如月さん、まわり……」
「深まってますね」
なにが、と紅緒は尋ねなかった。
まじまじと自社ビル内部を眺めたことなど、これまでにない。
それでも紅緒の目は、そこが様変わりしているのだととらえていた。
廊下はこんなに広かっただろうか。天井はこんなに高かっただろうか。空気はこんなに湿っていただろうか。
窓のあった場所に、こちらをのぞきこむようにする猫の双眸はいつからあったのだろう。
「あ……」
紅緒が声を漏らすと同時に、柱を思わせる巨大なものが周囲に突き立てられた。
その数は四本。
「やべぇっ」
人面犬の声は悲鳴だった。そうだろうな、と紅緒は頭の奥で応じていた。白いふわふわの毛に覆われた柱――白猫の足だ。
そのうちの一本が紅緒に絡みつく。甘いパンを思わせる見た目なのに、その先から爪が現れた。紅緒の身体にぴったりと寄り添い、動くことを躊躇うような鋭さだ。
「あわっ」
動揺した声を上げたのは人面犬だけだった。紅緒は静かに胴体に回された爪を見下ろし、如月は無言で闇を滴らせている。
「いつの間にこんな近くに……に、においがしねぇ……」
紅緒の周囲では、白い毛が重さを感じさせない動きでゆっくりと舞っている。毛からにおいは感じないが、人面犬は嗅ぎ取っていたはずなのだ。
「走らんの?」
ガラガラの濁声とともに、窓や天井や壁からぬるりと白い猫が姿を現す。
「もっと走れ。遊ぼう」
紅緒を捕捉したまま、巨大な白猫は人面犬に鼻先を近づける。ふんすはっは。舞っていた白い毛が、人面犬の口に吸いこまれる。
とっさに紅緒は口元を手で覆っていた。
もしかすると人面犬は、走り回っているうちに白猫の体毛を吸入してしまったのかもしれない。蓄積されれば、大量にもなるだろう。そのせいで白猫のにおいがわからない――考え過ぎかもしれなかったが、人面犬が呼吸をするごとに白い毛が口内に吸いこまれていた。
走って、逃げていったらどうなるか。如月が話していた。逃げ続けるのが有効だと。それはほんとうだろうか。体躯がちいさいとはいえ、紅緒たちよりずっと足がはやいだろう人面犬でも、白猫の手のひらの上だったのではないか。
おそらく白猫は、逃げ回る人面犬と遊んでいるつもりだったのだろう。
孤を描くするどい爪を見下ろしていた紅緒は、そっとそれにふれてみた。ふふ、と笑う声が頭上からする。見上げたそこには、美しい白猫の顔があった。
「いいにおい、にんげん。おまえも走る?」
紅緒の身体から白猫の前脚が離れた。
「走らないです。遊びにきたんじゃなくて、ひとを探しています」
「探すの?」
「私たちみたいな人間です」
ふふぅん、と白猫は目を逸らした。
ああこれは知っている、と紅緒は確信する。
「おまえみたいに、いいにおいするんじゃない?」
「いいにおい、しますか?」
残業続きでくたくたで、終電もとうになくなった時間である。くたくた具合に拍車がかかっている。湯船に浸かり、なにも考えずゆっくりしたい。
「たむけるにおいだ」
ぐいぐいと鼻先が押しつけられる。紅緒は後ろに下がっていった。如月も人面犬もそうだった。
下がる、下がる――エレベーターの扉を真後ろに控え、それ以逃げることができなくなっていた。
「なにか……ご存じなんですか?」
「ごぞんじ」
ふふん、と鼻を鳴らした白猫の瞳孔が、細くなり、そして丸くなる。美しい。紅緒のスカートが引っ張られた。見下ろせば、人面犬が裾に噛みついて首を振っている。
「ワンちゃん」
スカートを解放した人面犬は、苦しそうな息を吐く。
「たぶらかされるなよ!」
ぐずぐずと痰の絡んだ湿った音で人面犬は叫ぶ。
「ごぞんじだったら、そいつともっと遊べるか?」
「……ワンちゃんと?」
「ワンちゃん? そうね、そいつ。ちまちまして、楽しい」
完全に玩具扱いらしい。
「やだよ、俺もうくたくただもん、もうやだよ……走れねぇよ……」
紅緒のふくらはぎに顔を押しつけ、人面犬がか細い声を上げる。人面犬も怪異の仲間だろうに、走って逃げる以外になにかできることはなかったのか。
「遊ぶっていうなら、単純な追いかけっこですか? いっちゃんが捕まるまで?」
「いっちゃん? それのこと?」
重く響く音が聞こえる。
――エレベーターの駆動音だ。
下からエレベーターが上がってくる、それを知らせる階数表示の光を紅緒は見つけた。
「遊んでみて、いっちゃんと仲良くなれますか?」
「なんねぇよ!」
すかさず人面犬が叫んだとき、チン、と高い音がエレベーターホールに響いた。
「なかよくぅなかよくぅ」
「一緒にいたくなるかどうか、です」
如月の足が人面犬をエレベーターに蹴りこんだ。
後ろ手にボタンを押す音が如月の背後――隠れて見えない部分から、人面犬の呻き声と一緒に聞こえた。
如月は人面犬をエレベーターで逃がそうとしている。
「いっちゃん、ボタンを!」
如月が短く言い放ち、紅緒は肩越しにそちらを見る。
エレベーター内で人面犬が階数ボタンに向かってジャンプしていた。顔面でボタンを押そうとしているようだ。
どの階に向かうかわからないが、ひとまず人面犬が逃げたらなんとかなるかもしれない。どこかにいった人面犬と白猫とで、追いかけっこをしてもらえばいいのだ。
「俺も!」
巨大な白猫が突風のように奔った。
軽く許容量を超えているようなのに、白猫はエレベーターに身体を押しこんでいく。収まっていく。ひどい人面犬の悲鳴が響き渡った。エレベーターの扉が閉まっても、紅緒の耳にそれは届いていた。
悲鳴が遠ざかる。
エレベータは上昇していた。行き先が何階なのかは見届けず、紅緒と如月は背を向ける。
いまのうちに新人氏を見つけ出せないか――歩き出してみるが、前も後ろも赤い廊下が延々と続いていた。この赤さは、ここが白猫の縄張りということなのだろう。エレベーターで白猫が運ばれていったくらいでは、その影響は変わらないらしい。
「いますかね、武藤さん」
「いたらいいですね、武藤くん」
おたがいの声にはあまり真剣味がない。
如月はどうか知らないが、紅緒はとても疲れていた。
終電はもうない。タクシーで帰るのとどこかでカプセルホテルでも探すのでは、どちらのほうが安く上がるだろう。暖かくなったら、紅緒は和菓子旅行に出ようと計画していた。できる限り予算を確保しておきたいのだ。
「あ、いましたよ」
「えっ」
気がつけば、紅緒の視線は足下に落ちていた。
顔を上げると、新人氏のはにかんだ顔がすぐそこにあった。
窓の向こう、つい先ほど白猫の双眸が輝いていた場所――窓ガラス越しに新人氏が手を振っていた。
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