空を見上げて

鈴乱

第1話



 通りがかりに、彼を見つけた。


 廊下の途中で、空を見上げていた。


『おや、こんな時間に珍しい』


 深夜、すでに家の者は全て寝静まった後だ。


 静かに彼に近づいてみるが、彼は空を見上げたまま、微動だにしない。


「何を、見ているんですか?」


 そばに寄ってそっと尋ねると、彼は空を見上げたまま、答える。


「月を……、満月を」


 彼の視線を追って、私も空を見上げる。


 そこには、煌々と照り輝く、満月が浮かんでいた。

 

 空は晴れて、月の光が周囲をいつもより強く照らし出している。


「……綺麗ですね」


「あぁ……」


 彼の返答はどこか心もとない。

 どこか、宙を漂うように、夢でも見ているように、現実感がなかった。


「こんな時間に、どうして月を?」


 私は尋ねる。


「……胸が騒いだ」


『あぁ、そうか』


 彼は人間ではない。それゆえに月の巡りが、彼の体に影響を与えるのだと、以前話を聞いたような覚えがある。


「何か、不安なことでも?」


 彼が薄く笑って、首を振る。


「いいや。ただ、少し気になっただけだ」


 嘘だろうな、と思う。


 彼の心には何かつっかえているものがあるのだろう。

 

 長い付き合いの私にも言えない、何かが。


『相変わらず、誤魔化すのが下手ですねぇ』


 私は心の中で苦笑する。

 

 言おうとしないなら、今はそっとしておこう。


「今夜は冷えますよ」


「そうか」


「まだここにしばらくいるつもりですか?」


「あぁ」


「何か、上着でも持ってきましょうか?」


「いや、いい」


「そうですか」


 彼に並んで、空の月を眺めながら、会話を交わす。


 真ん丸の月は、優しく私と彼を照らし出す。

 

 風は凪いで、虫の声が時折聞こえてくる。


 

 月を眺めていると、不思議と心が鎮まるような心地がする。


 日常の喧噪から離れて、ただただ、静かな時が流れていく。


 しなければならないことがすべて、後ろへ消え去って、ただただこの時を感じる。


『言葉なんて、要らないのかもしれません』


 つい、人の世話を焼いて、声をかけて、気を遣う。


 そんなのが習性のように染み付いてしまっているけれど。


『ただそこにるだけの月は、こんなにも私の心を落ち着かせるのだから』


 彼にとって、心をざわつかせる月は、私にとって、心を静かにするものだ。


 彼と私にとっての月は、きっと意味合いが違う。見えているものも感じているものも、きっと違う。


 それでも、こうして、そばにいて、同じものを目に映し、ただ佇んでいるこの時間は、彼にとっても私にとっても、価値のある時間だと思うのだ。


 『種族が違えど、思いは違えど、共に在るこの時が、どうか続いていきますように』




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空を見上げて 鈴乱 @sorazome

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