第四話
彼女は改めてジャージを着直す。
財布を高そうなバッグから取り出し、チープなボディバッグに入れ、それをかけて玄関方面へ向かう。
ガチャ、とドアは音を立てて彼女を外へと放る。
次にガタン、という音と共に訪れた完全なる沈黙。
彼女は、なぜ変わってしまったのだろうか。
彼女は、何をしてこうなってしまったのだろうか。
彼女は、今はもう一人なのか。
あの日、何があったのだろうか。
自分の身体から、雫が重力に倣って流れる、落ちる。
ボッ、と音を立てて。
彼女がわからない。
辛い。
そんな苦悩の間に、再度ドアは開き、彼女は帰ってくる。
「ただいまー…」
その声と共に、二秒程度彼女の時が止まるような間が訪れる。
いつもなら聞こえてくるはずの彼のおかえりは、あの時からなくなった。
静かすぎる室内に、ビニール袋がソファ前のテーブルの上に置かれるシャサ、という音が鳴り響く。そして取り出されたのはチョコミントアイスと紙袋。
紙袋は冷凍庫に仕舞われてしまった。
その足でいつも彼女が出かけるときに背負っていくリュックの中からペンケースとノートを取り出し、そこに入っている落ち着いた金属光沢を放つ、高そうなボールペンを取り出す。
そしてトトト、と音を立てながら強い筆圧でノートにインクを付けていく。彼女が字を書いているのを見るのは本当に久しぶりだ。それこそ最後に見たのはもっと真剣な面持ちで、もっと安っぽいボールペンで字を掠れさせながら書いていたのを思い出す。
途中でチョコミントアイスの蓋を開け、コンビニで貰ったと思われるプラスティックスプーンを刺す。
外気に触れて程よく柔らかくなったこともあってか、簡単に掬われて彼女の口の中に入る。
美味しいとも不味いとも言わず、またスプーンを刺してボールペンを手に取り、ノートにペン先を押し付ける。
何を書いているのかはわからない。だが彼女の面持ちはどこか重いものであった。
そしてある程度書くと、またペンを置き、アイスを掬って口に運び、アイスにスプーンを刺し、ペンを持ってノートにインクを落とす。
その一連の行動の4回目ほどだろうか。アイスに刺したスプーンの持ち手ががプキ、と音を立てて半分に折れる。
折れたスプーンを見ながら彼女は深いため息を一つつき、持ち手だけになったスプーンを傍に置き、残った短いスプーンでアイスをまた食べ進める。
途中食べにくかったせいか、ノートの上にアイスをプ、と零す。しかし彼女はそのまま書き進めていた。今日一番の満たされた表情で。
一通り書き終わったことを示すようにボールペンを置き、大きく伸びをする。
そしてまた、部屋を離れた。今度は水がシンクではないまた別の面に打ち付けられる音がするので洗面所にいるのだろう。
十分ほどして戻ってくる。すっきりした顔と歯に付いていたキャベツの葉が取れているのを見ると洗顔と歯磨きをしたことがうかがえる。
そのまままたこちらへと足を運び、ラックに乗った皿を手に取り、片付けていく。すべての皿が棚の中に仕舞われ、観音開きの扉が閉じる。
視点が変わり、視界がまた狭まる。フレームに填められたアクリル越しにリビングを見る。
掃除機のかけられた室内はとても綺麗だった。彼女の頭頂部だけが視界に残る。
その昨日シャワーを浴びていなかった頭はフケが少しばかり溜まっており、彼女も痒そうに搔く姿を時折見せていた。
ギリギリ見える時計は既に十七時半を指しており、夕陽もリビングに注がれ、テーブルの上のノートは蜜柑色に照らされていた。
チョコミントアイスのシミは乾き、ノートの紙面を少し歪ませていた。
段々と、段々と、陽が落ちていくのを感じた。
彼女は夕陽が入って眩しくならないようカーテンを閉める。
やはり辛かった。いつも通りの彼女に戻ってきてほしかった。
己の非力さが心を強く締め付ける。
本当に自分は何もできないんだ。そう思う外なかった。
ソファの上に座り、スマホを手にする彼女。その顔は、達成感を持っていながら、何かを失ったようなものだった。
画面を見ては、何か文字を打つ。その繰り返しの動作で誰かとチャットでやり取りをしているのが分かる。
すると彼女は唐突に涙を流した。喉が詰まるような嗚咽を漏らしながら泣いた。そして腕で涙を拭い、その動きのまま拳を机に振り下ろした。
受けるものがなくなった涙はジャージのズボンにそのまま落ちる。
「嫌だよ…でも…」
彼女は嗚咽交じりのまま声を漏らす。
「私はこれからどうすればいいの?私は私のままでいいの?私って誰なの?もう私なんて皆どうでもいいんでしょ?いいんだよね?ねぇ!ねぇってば…」
ジャージを顔にうずめて叫ぶ。
そのまま暫く泣き続けると、ふと一本の光の線が彼女を照らす。夕陽だ。それはカーテンの隙間から差し込む、一筋の夕陽であった。
彼女は夕陽が顏に当たらないように手で隠したままカーテンを閉め直す。
そんなことをしている間に彼女は自身の涙が止まっていることに気付く。
そしてまた涙を流そうとする。
「なんでよ!どうして…!」
しかし彼女のジャージはこれ以上濡れることがなかった。
時計は既に十九時過ぎを指している。彼女も空腹なのか、キッチンへと足を運び野菜室の取っ手に手をかけたが、その手を取っ手から離し、その二つ上の取っ手を掴んで冷蔵庫の扉を開けた。
そこから紙袋を取り出し、腫れた瞼のままソファに持って行き、袋からシュークリームを出してすぐに頬張る。口元にクリームがついても構わずに。ただひたすら。
五分ほどでペロリと三個を完食し、満足げな顔でダイニングテーブル上のティッシュで口元のクリームを拭う。それをシュークリームの包装紙と一緒に紙袋の中に入れ、キッチンのゴミ箱に捨てる。
そして彼女は屈んでしまったのか、視界から外れてしまった。その中で分かることは、金属と金属がこすれる音がした後にボダンという何かが倒れる音がし、そのまま何かが垂れるような、ボッ、ボッ、という音がしたということだけ。
そのまま明るい部屋には誰も見えなくなってしまった。
彼女はもう目の前に姿を現すことはなかった。
一週間ほど経った頃、インターホンが鳴らされる。ただ部屋の中にベルの音が響くだけで、誰も応答しなかったが。
するとドアが開く音がし、複数の足音が聞こえた。リビングに入ってきた途端、それが警察だと分かったと同時に彼らは何かに驚いたような表情をした。直後にその場で合掌し、目を瞑った。
それですべてが分かった。そうだったのだと分かった。
もう終わり。そうなんだね。お疲れ様。
大切が目の前から消えても涙も声も出せない自分の身体が、憎くてたまらなかった。
かすかに聞こえる警察の話を聞いていると、彼女が有名人だったことを示唆するような発言が聞こえた。
彼女は愛されていた。嫌われていた。愛と哀の釣り合いが取れなくなってしまった。
一人の女性の人生が、幕を閉じた。
いや、彼女にとっては最高だったのであろう。
罪名:無辜 姫夕梨 一葉 @himekazuha
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