第二話

あれから三十分ほど経っただろうか。彼女は呼吸を整えてソファーから体を起こし、再びキッチンへと戻る。

そして料理を始める。気付けばもう時計の針はどちらも十二を指していた。

小さめの鍋を取り出し、水を波々と入れ、コンロの上に置いて火をつける。

キャベツと玉ねぎとニンジンを野菜室から、ひき肉をチルド室から取り出す。

キャベツの表面の葉をバリ、と数枚引きはがし、水洗いしてまな板に置く。

その芯の固い部分をグトン、グトンと切り落とし、鍋の中に入れる。

ニンジンは軽く水で洗い、皮をピーラーで綺麗に剥がしてから細かくみじん切りにしていく。いつも通りだ。四分の一本ほど切った後、ボウルの中にコトトン、と音を立てながら入れていった。

次に玉ねぎを切ろうとしたとき、彼女は何かを忘れたように戸棚から物を取り出した。その正体はコップ。そこに水を張り、まな板の隣に置く。

その後、改めて玉ねぎを切る。不思議と彼女の目からは涙が出ていなかった。いつもであれば必ず涙を流しながら玉ねぎを切るというのに、今日だけは涙を流していなかった。傍に置いたコップのおかげであろうか。そんなことを思っている間に玉ねぎはみじん切りになり、ボウルの中に入る。

そこに発泡スチロールのトレイに入ったひき肉をボト、と入れ、塩コショウを入れながら手でこねるように、チャグチャグと音を立てながら混ぜる。その途中に、少しスパイスを入れる。彼女が料理をするとき、いつも入れるものだ。そうしているうちにパッケージ状態の時のひき肉は玉ねぎと交わった。それを俵型にしてキャベツに包み、爪楊枝を刺して固定する。

そう、彼女が作っているのはロールキャベツ。手間がかかるが、彼女は一ヶ月に一度、必ず作っている。誰かが家に来た時も、初めての時は必ず振る舞っている。よほど好きで得意だということが感じられる。

手際よく全てのタネをキャベツに包むと、丁度鍋の水がグツツツ、グツツツと沸騰する。

そこにコンソメを二欠片、チョポンと入れ、少し混ぜてからロールキャベツをドポ、ドポと入れる。

火を弱め、プツプツと煮ていく。

このときも、やはり彼女の顔は憂鬱なままであった。何を考えているのかすら分からない、空っぽな表情。まるで穴でも開いているのかと錯覚するほどである。

十数分ほど経ち、中まで火が通った黄緑色のロールキャベツがおたまに乗り、深い皿の中に二個乗せられ、薄い黄金色をしたコンソメスープがかけられる。

それをテーブルの上に乗せ、食器棚をガチャ、と開けてナイフとフォークを並べる。

彼女も食卓に着き、手を合わせて挨拶をする。

「いただきます。」

その言葉を発した後も、やはり部屋に響くのは食器同士が触れ合うカチャカチャという金属音、彼女の咀嚼音、そして冷蔵庫と時計の動作音だけだった。

彼女は食べながら、こんなことを口にする。

「なんでこんな私になっちゃったんだろ。」

こう言葉を発した彼女の表情は、どこか笑みを浮かべていた。全てを諦めて口から零したような笑みを。

その後は、ただ淡々とロールキャベツを食べ、コンソメスープを飲み干し、再び手を合わせて、

「ごちそうさまでした。」

と言って昼食を済ませていた。

食べ終わった後の食器をシンクに入れ、洗い始める。スポンジに洗剤を出し、グシュグシュと泡立てて食器を擦っていく。とは言えカレーのようにこびりついた油汚れのようなものでもないので、軽く流して擦って終わらせていたのだが。

四分ほどで食器を洗い終わり、水切りラックに入れていく。水が垂れて落ちていく。彼女が少しみにくくなる。

彼女は台所から離れ、別のところに行く。

ドアの開閉音と共に、人によって生み出される音が存在しない、ほぼ完全な沈黙が訪れる。


今となっては音のしないこの家には、元々彼女の他にもう一人住んでいた。

その証拠に、ダイニングテーブルには二つの椅子が向かい合っており、食器棚には同じ皿が二種類ある。

名は渡良瀬わたらせ 来也らいや

彼と彼女にどんな関係があったのか、わからない。

家にいるときはいつも一緒におり、寝るときは毎日一緒の部屋のベッドで寝ているような素振りを見せている。

体の関係を持っているとしたら、壁の薄いこの部屋であればここからは見えないベッドルームから喘ぎ声が聞こえるはずで。

その関係になくても、お互い名字呼びをして生活していたことを見ると血縁関係もないようで。

会話もほぼなく、お互いに笑っているところを滅多に見たことがない。

その時があるとすれば、彼女が彼女の部屋から戻ってスマホを眺めた時くらいだ。

そんな彼も、彼女が彼女になれなくなった途端すぐ家から出て行ってしまった。


今の彼女は、ひとり。

誰も彼女に干渉する人なんていない。

両親もつい最近亡くなったらしく、葬式が執り行われていたように聞こえる内容の独り言を言っていたり、全身黒の服を着て出かけているのが見えたりしていた。

彼女を傷つける人は、もう誰もいない。

彼女を包み込んでくれる人は、もう誰もいない。

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